私が愛した騎士

 朝。モーニングコールのため七時に室内無線で連絡をする。直接寝室まで赴き声をかければすんなり起床するものの、低血圧のせいで寝起きの機嫌が酷いことを留意しておくこと。どうしても酷いときはカーテンを開けて太陽の日差しを室内に入れるか、コップに一杯分の水を飲ませてやると多少改善される。
 着替えは決まって皇帝用の装束が用意されてあるので、それらを近くのソファに置いといてやる。他には洗面所に新品のフェイスタオル、歯磨き用のコップが用意されてあるかを念のために確認する。なお下着類などは自分で管理すると言って聞かないため、こちらから準備する必要はない。
 着替えの間も傍で警護することが望ましいが、やはり本人が不要だと言って聞かないため隣の客間で待機する。朝のうちからあまり機嫌を損ねさせると後の業務に支障をきたすので出来るだけ穏便に済ませること。
 身支度を終えた後、部屋続きのダイニングルームへ移動し使用人に朝食を運ぶよう指示する。このとき共に食事を摂るかはその時々のスケジュールによって自身で決めること。朝から出撃命令が下りている場合は連絡事項のみ伝達したのち離席、すぐ出撃準備に移行する。
 出撃命令は基本的に主から直々に下される。よって拝命するにあたり任務を完璧に遂行することを命に代えて誓う必要がある。これはブリタニア帝国において主とそれに仕える騎士の間で古くから定められてきた規範であり騎士の基本的な心構えである。
 主が命を下しそれを受諾する一連の流れは、古くは仰々しい儀式や行事が執り行われ主の権力と神聖さを誇示する代わり、単純に時間と金の無駄、つまり非効率的であった。だが時代が進むにつれそれらの大層な儀式めいた流れは簡略化されてゆき、現代では”たったひとつの動作”で済ますことがオーソドックスとなったのである。とはいえ戴冠式や叙任式といった重要な勅令に関しては古代と同じく大衆を招き大々的に執り行うこととなっている。



 主である王からの勅令を受け、騎士は形式的ではあるが拝命を意味する動作を行おうとした。座する主の足元に跪き、右手を取って、その甲に口づけるのだ。手の甲への接吻は敬愛を意味する。敬愛してやまない主からのご命令、確かに頂戴致しました。そう想いを込めて、恭しく手を取る。
「そういうのは要らないんだよ」
「……でも」
「勘違いするな」
 王座からこちらを見下ろす眼光は鋭く冷たい。容赦なく突き放す口調はなおも騎士を責め立てる。
「こんなもの、所詮は目的のための手段だ」
 彼はそう言いながら自らの頭に被せられた帽子を手に取り、忌々しげにそれを見つめた。白の絹で作られた帽子はきらびやかな装飾が施され、一見して美しい。しかし彼は高価な物に興味がないのか装飾品に関心がないのか、あるいは悪趣味か、それを下らないと一蹴してソファに放り捨てた。チャリ、と玉虫色の宝玉の飾りが音を立てる。
「俺は昼から出る。お前はどうする」
「ついて行きます」
「なら正午前に支度をして戻ってこい」
「イエス、ユアマジェスティ」
 跪いて頭を下げ、最上級の尊敬の意を持つ返答を行う。しかしその内容にもさして興味がないどころか聞く耳を持たない彼は、既に立ち上がって部屋を出ようとしていたのであった。

 手の甲への接吻が相手を尊敬する意味を持ち、それを伝えるための行為であると、スザクは以前仕えていた第三皇女・ユーフェミアに教わった。
 相手の体へ唇を寄せるという行為自体、スザクの育った日本ではあまり馴染みのない文化である。しかしスザクが体裁上忠誠を誓うブリタニア国内ではむしろフレンドリーな相手ほど頬や耳元、目元、額への接吻はポピュラーなスキンシップらしい。というのもこの事実を知ったのはユーフェミアに仕えてからのことで、スザクには未だに馴染みのない慣習であった。
 ゆえに当初は今よりずっと躊躇いや気恥ずかしさがあった。騎士が自らの仕える姫君の指先に口づける描写はおとぎ話でよく見たことがあるが、いざ自分がそれをするとなると話は違う。恭しく頭を垂れ土汚れがつくのも厭わず膝をつき、貝殻のような繊細で美しい指先に唇を寄せる。他のブリタニア人騎士はそれを躊躇いなくごく自然なことのように行っていたから、なんて気障な連中だと思ったことは数知れない。

 不器用な所作でそれを行うこと数回、未だに照れ臭さの拭えないスザクに彼女はこう声をかけた。
『スザク。口づける箇所によって意味が異なることはご存知ですか?』
『……意味?』
 スザクの手の中にあった指先は白く艶々と輝き、まるで切削されたばかりの宝石のような繊細さであった。それを壊れ物のように扱いながら、彼女から問われた意味を伺う。
『額は友情。瞼は憧憬。指先は称賛。場所によって付与される意味が異なるんです』
『……それは初耳です、存じ上げませんでした。手の甲はどのような意味を?』
『敬愛を表します』
『敬愛……』
 フリルのついた裾から見える手の甲は小さく細く、だからこそ守りたいと思った。愛だ恋だといった一過性の燃え上がるような感情とは少し違う、傍に寄り添って慈しみたくなる淡い感情を彼女へ抱いていた。これは慕情だ。
『相手に対して言葉以外の方法で自分の想いを伝える……とっても素敵なことだと思いませんか?』
『はい、とても』
 添えていただけの手を両手で握り返し、スザクは強く頷いた。
 言葉以外の方法で自分の気持ちを伝える。それは視線であったり仕草であったり、言外に知らせる方法は様々だ。古来日本でも”空気を読む”という言葉があるように、直接口にせずとも相手の感情を読み取る能力はもはや必要不可欠のスキルである。
 しかしそれを接吻という愛らしい方法を用いるとは、さすがは欧州文化といったところだろうか。家族間でもそう頻繁に行われないスキンシップのやり方であるから、ちょっとしたカルチャーショックである。
『私はスザクの頬に口づけて差し上げたいのですが、貴方はまだ恥ずかしがり屋さんなので、克服できたらして差し上げますね』
『そ、それは……』
 スザクは直接的な物言いに羞恥を覚えつつ、はにかみながら是非とも、と首肯した。

 結局その約束が果たされることはなかったが。



 午後からは中東アジア諸国との休戦協定および石油の輸出制限緩和締結を目的とした会談を行う予定であった。だがこれもやはり名目に過ぎず、スザクの乗るナイトメアフレームで武力交戦したのちブリタニア側に有利な条約を無理やり結ばせる方策だ。全てはゼロレクイエムを完遂するための準備に過ぎない。世界中の増悪と不平等の種を蒔くのはブリタニア現皇帝のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアであると、世界中の人々に強く印象付けなければならない。いわばこれはパフォーマンスだ。この作戦で中東アジアを狙ったのも、かの国々らがまだ軍事開発途上だからである。

 特別チャーターした小型ジェット機に皇帝と騎士は客室に乗り込み、ギアスによって操作されたパイロットらが運転席へ着く。あまり厳重な体制で護送するとなると却って狙われる恐れがあると主張する皇帝が直々に選んだ、自家用ジェット機用でよく使用される機体である。騎士は皇帝の意見に反対したものの、何かあったときはお前が俺の身を守ればいいと言って聞かないのは今に始まったことではない。
 近くの空港に配備された航空管制にも察知されぬようレーダーの類を全てシャットアウトし、完全なステルス機として運航すればまずブリタニア皇帝だと知られて撃墜されることはないはずだ。あとは近くを巡回する旅客機や訓練中の戦闘機への衝突に細心の注意を払う必要があるが、それはこちら側から搭載したレーダーで機影を察知すれば大方問題はないであろう。操縦桿を握る人間もギアスで操られているとはいえプロのパイロットだ。よっぽど悪い気象条件であったり機体の整備ミスでもなければ墜落といった重大なアクシデントは起こらない。
 とくに乱気流に揉まれることもなく快晴が続く雲の上は穏やかで静かで、欠伸が出るほど退屈だ。これが個人的な旅行であれば楽しい会話も楽しめるだろうが、これから遂行する任務のことを思えばそうもいかない。むしろ気を張り過ぎていて眠れやしない。退屈で気まずくて居心地の悪い空の旅は、スザクの心情を裏切るほど運航状況は快適そのものだった。
「……」
 窓側に座る彼の顔をちらりと盗み見る。しかし窓際に頬杖をついて外を眺めている体勢からは、よくて長い襟足から覗く白い首筋と耳元程度しか窺えない。窓ガラスに映る表情を探ろうとしたが外の景色が明るすぎて反射していてもよく見えなかった。
「何を見ている」
「あ、いや」
 勘の鋭い男は窓から視線を逸らさず声だけで騎士の不躾な行動を咎めてくる。
 スザクは悪さが見つかった子供のようにうろうろと視線を彷徨わせ、しどろもどろに思ってもない言い訳をした。
「ずっと同じ体勢で、その、体の調子とか」
「何も問題はない」
「……そ、ですか……」

 ぶっきらぼうな返事はスザクにもう黙れ、喋るなと言っているのが容易に読み取れる。棒にも箸にもかからない凄然さにかける言葉も見つからなかった。
 再び客室内に静寂が訪れる。機体に搭載されたターボエンジンの回転する音と微かな振動だけが唯一の雑音で、隣からは呼吸音も布ずれの摩擦さえ聞こえやしない。
 だが居心地悪い静寂も手持ち無沙汰な移動時間も、隣の男の一声によって気を紛らわすことができた。
「後悔しているのか」
「え……」
「それとも生に未練があるのか」
 窓の外へ向けられていた視線はいつの間にかスザクへ注がれていた。紫の瞳はさぞ退屈そうに細められていて、この問答は恐らく彼にとってはただの暇つぶしに過ぎないのだろう。
「生に未練は、もう……。ですがひとつ」
 彼にとっては言葉遊びに過ぎない。だからスザクもさして真剣には考えず思うままに口を動かした。
「なぜ殿下はこうも自分を遠ざけられるのかと、疑問で」
「そんなつもりはないが」
「ですが私の至誠を汲んで下さらない」
「ジェレミアみたいなことを言うな」
 ふん、と馬鹿にするように皇帝は鼻を鳴らす。
「俺はただ俺の剣になってくれる駒が欲しいだけだ。逆に聞くが、お前は俺にどうしてほしいんだ? 働きに対する褒美か?」
「そうでは……」
 スザクは緩くかぶりを振った。
 今さら富も名誉も要らない。そんなものを受け取ったところで”枢木スザク”という人物はこの世から抹消され、これまで築き上げてきたものが全て無意味になる。褒美を受け取ったところで灰と化すだけだ。
 なら彼にどうしてもらえば、何を与えられればこの鬱憤は晴れるのだろう。
 スザクが返答に言い淀んでいるうちに彼はまた窓の外へそっぽを向いていた。もう紫の瞳はこちらを見ない。黒い後頭部はぴくりとも動かない。その様子に心がさざ波立つ。無愛想でいて、自分のことなんか意識の外に追いやっている、そんな態度に腹の奥底に苛立ちが募った。
 ――まもなく着陸の準備に入りますので、シートベルトをお締めください。
 程なくして客室内にアナウンスが流れ、指示通りシートベルトを着用した。先ほどまで話していた内容など半分忘れかけていたスザクは、心の中に未だ燻る蟠りのきっかけですら、もう思い出せなかった。



 宿泊先のホテルに到着したのはそれから夕刻のことである。空港から直接チャーターした外用車に乗り込み、校外から少し離れた目立たない宿泊施設であった。来賓者向けのVIP対応が万全の高級ホテル、というわけではないが小奇麗で落ち着いた雰囲気の施設はスザク好みであるが、ここを選んだ理由もやはり単に外敵から狙われる危険性を恐れてのことだ。木を隠すなら森とはいうが、日夜国賓級の宿泊客が行き交う場所では安心して眠れやしないだろう。
 そんなに身辺を気に掛けるのであればもっと警護を増やせば良いのではと提言したこともあるが、四六時中人に囲まれるのも落ち着かないというのが彼の正直な答えであった。良くも悪くも常に気を張り続け警戒を怠らないがゆえの弊害であろう。そんな中で専任騎士に選ばれた自分だけが傍に仕えることを許されるというのは、なんだか奇妙な心地である。

 半日とまではいかないものの、かなりの時間を移動に費やした。本命の案件である会談は明日に控えているものの、皇帝の気力はすっかり底を尽きていたようで、宛がわれた部屋へ向かうなり連絡も報告もなくドアの向こうへ消えていったのだ。すっかりお疲れのようであるから騎士は敢えて引き留めることはせず、時間を置いて改めて訪れることにした。
 皇帝は多忙な人だ。いくらギアスで操作し好きに使いまわせる人間が用意できたとしても、国を運営する職務だけは自力で行わねばならない。政治に法に外交と、国の舵取りを行うのが皇帝の本職だ。貴族が特権を握り汚職が蔓延していた議会や内閣人事は即刻皇帝の勅令によって解散させられ、今のところ再編される予定は立っていない。恐らくゼロレクイエムが実行されたのち、この国は本来あるべき国の在り方に変容してゆくのだろう。だから皇帝は敢えて旧態依然の体制を全て取り壊すことだけに専念していた。それは自身の死後を常に見据えた政治であった。



 月の明かりすら見えない空はすっかり闇に包まれ、人の声どころか虫の息すら聞こえない。
 いつどんな場所で、どんな時代であろうと太陽は昇るし沈むし、月の満ち欠けのあとには夜が明ける。まだ十八年と少ししか生きていないが、短くも濃い人生の中でスザクはそのことをよく知っていた。日本で見る月もブリタニアで見る月も、それ以外の世界の何処かで見る月も、いつだってその表情は変わらないのだ。唯一異なることがあるとすれば、それは地上に住まう人々の思想と信条だけである。
 カーテンの隙間から入ってくる夜風は素肌にとって少し冷たく感じられ、念のためにと室内にあったブランケットを一枚腕に抱えた。数時間前に別れた主からはまだ連絡のひとつもこない。作戦の決行は明日である。入念な打ち合わせと事前の報告連絡相談は必要不可欠だ。室内で伏せっていようが悪夢に魘されていようが知ったこっちゃない。これはまだ、皇帝と騎士がこれから成そうとする”大計画”の前哨戦でしかないのだから。
「……陛下、失礼します」
 ノックをし、予備のルームキーを使用して入室をする。返事がないのは織り込み済みであったから、いくら無礼であろうとスザクは躊躇することなくドアの向こうへ足を踏み入れた。
「……陛下」
 部屋の中は外の景色と同じく真っ暗闇で何も見えない。否、外は月明りや星屑があるだろうがこの部屋は明かり一つ存在しないのだ。ベッドサイドのランプも洗面台のライトも灯されていないし、ついでに言うと空調も切られている。
 夜目を利かせてしばらく部屋をうろつくと、窓際にシングルベッドを見つけた。高級ホテル最上階のスイートルーム、とまではいかないがそれなりに広い部屋では間仕切りの向こう側にあるベッドを探すのだって一苦労なのである。
「陛下、起きてください」
 薄暗いベッドの上にできた人型の山に手を伸ばし、軽く揺する。布越しに伝わるぬるい熱のおかげでこの物体が人間であり、おおよそルルーシュであるということを察知できた。うつ伏せになっているらしく顔は分からないが、服装が装束のままであることから確定できる。
「せめて入浴をお済ませになってから」
 来た時と変わらぬ服装であるということは入浴すらまだ済ませてないということだ。潔癖な性分であるからどれだけ多忙であろうと風呂には欠かさず毎日入る男が、この様である。明日になって機嫌悪く起床し、なおかつその鬱憤晴らしに自分を使われるのは勘弁してほしい。だからスザクは何としてでもルルーシュを起こしたかった。
「起きてください、陛下」
「ん、……」
「ちょっと……もう……」
 腕を引き上げて無理やり体を起こしてやろうとしたら、そのまま全体重をかけて胸や腕へ圧し掛かられた。
 こんなはずじゃなかったのに。もしこの体勢で彼が目を覚ましたら、一体どう説明すればいいんだ。
 スザクはルルーシュの体を支えながら必死に起こそうとしたが、依然ぐったりと体に力が入らないようで上手く担ぐことすらままならない。視界が良好でないのも災いした。
「自力で起きてよ……」
 内心思ったことがつい口に出てしまったが、不幸中の幸いにも彼は未だ目を覚まさない。ぐっすりと熟睡しきっているらしく、規則的な呼吸が耳に入った。
 いくら専任騎士の自分が居るからとはいえ、これは警戒心がなさ過ぎではなかろうか。現時点でこうして寝首を掻かれてもおかしくない状況に彼は陥っている。スザクは再びもやもやと、原因不明の苛立ちを胸の奥に感じた。

 半ば引きずるようにして着の身着のまま連れてきたのは脱衣所である。このまま朝まで寝られでもしたら服に皺が寄っただの汗臭いだのと翌朝から文句をぶつけられるのは明白だからだ。
 ベッドからさほど離れていないが、スザクは既に疲れ切っていた。人の体はこうにも運び辛かったかと思うほどの重労働だったからだ。
 ルルーシュの体自体はそこまで重くなく、むしろ内臓が果たして詰まっているのかと疑うほど軽いのだが、なんせ衣服が重くて扱いづらくて仕方ないのだ。無駄にひらひらと長ったらしい布やその端にぶら下がる装飾品に気を取られ、床に引きずっていた腰布を幾度となく踏んずけて転びかけた。これでは騎士どころか世話役、いや介護者だろうか。世界を統べる皇帝ともあろう者が、聞いて呆れる体たらくぷりだ。
 しかしどうしても起きないとなれば最終手段に打って出るしかない。就寝中のところで悪いが、着替えをさせてもらう。スザクは良心の呵責に耐えながら腹を括った。

 決して自分の趣味ではないが、これだけは致し方ないのだ。

 首元まできっちりと閉められた襟を開き、重厚なベルトを解いて上着を脱がせる。前身頃を開くと色素の薄い地肌が表われ、呼吸に合わせて緩く胸元が上下しているのがよく見えた。首筋に散った黒髪はぱさついて広がり、浮いた鎖骨や肋骨は見るからに彼の体が痩せすぎていることを如実に示す。
 そこから手を滑らすようにして下半身の衣類に腕を伸ばした。腰に引っ掛かっているだけの下衣をずらすと、白すぎる肌にはやけに映える黒い下着が目の前に表れる。ぴったりと皮膚に隙間なくくっつく布は彼の体の形に沿っていて、何となく目のやり場に困った。女のような丸さのない小さな臀部、細く引き締まった太腿、男の象徴が収められている狭い股間と――
「……おい」
「え、……あ」
 声がするほうへ視線を上げると、スザクにとって今一番見たくない光景がそこにあった。
「お前、何してる」
「いや違うんだ! 誤解だ、これは!」
 紫の瞳孔には無様にも慌てふためく自分の顔がありありと映し出されていた。

 よりによってどうしてこのタイミングで起きてしまうんだ。あともう少し寝ていてくれたら良かったのに。
 ……寝ていてくれたら?

「君がなかなか起きないから、せめて着替えだけでも、と!」
「うるさい、どこをじろじろ見てるんだこの変態!」
 真夜中の脱衣所に響いた怒髪天を衝く怒号はしかし、その内容からしてどこぞのカップルの痴話喧嘩の様相であった。



「情状酌量の余地はないが言い分くらいは聞いておいてやろうか」
「だからその、先ほども申し上げたとおりで」
「お前が俺にそこまで甲斐甲斐しくする必要もないししたこともないだろう。一体どんな魔が差したんだ」
「そういうわけでは……」
 入浴を終えた男が脱衣所から上がってきた後、開口一番に言い放ったのはこの台詞であった。スザクは彼の前で土下座する勢いで謝り倒したが、その態度が却って彼の中である種の勘違いを確信させる手助けになっているらしい。決してそういう目的で服を脱がせたわけでないと繰り返し主張するが、今一つ信用に足りないようだ。むしろどうしてここまで自分の話が通じないのかと、スザクは内心心が折れかけていた。
「それとも、陛下にとって自分は信用に足り得ない人間なのですか?」
「ふん。よく分かってるじゃあないか、裏切りの騎士よ」
「……」
 スザクを見下ろすようにして嘲笑う男は国民ひいては世界中がよく知るゼロの声をしていた。人心掌握に優れ、その能力を悪用し人を操ることを得意とする。彼の邪悪な天性はギアスに匹敵するほど恐ろしい、神からの才能であり悪魔からの祝福であったのだ。
 かつては愛しく今は憎い相手であるこそ、スザクはその性質をよく理解していた。だからそう易々とその手には乗らない。
「今朝、言っておりましたよね。”こんなもの、所詮は目的のための手段だ”と。……ルルーシュ」
「……」
「君にとってはシナリオを進めるための設定であろうと、僕は本気だ。……枢木スザクは主であるルルーシュ・ヴィ・ブリタニアに心血を注ぎ命に代えてでも守り抜く。たとえ僕の主義主張が全て覆されようとこれだけは本当だ。信じてくれないか」
「……」
 忌々しげに細められた目がスザクの緑の双眸を貫く。品定めでもするかのようにねめつける強い瞳に、しかしスザクも屈することはない。僅か十ばかりの頃からよく見てきた色だ。同じ夢を見て、同じ灰色の空と赤く燃えた地平線を眺めてきた。正義も生き方も異なれど、彼も自分も同じ目をしている。
「お前の話に付き合っていたらいつまで経っても寝られない。今日はもうお開きだ」
 やれやれといった調子で首を振りながらスザクの横を通り過ぎて行った。彼が向かう先は言葉の通り先ほどまで散々横になっていたベッドで、再び休息を取るつもりらしい。
「まだ話は終わってない」
「いい加減にしろ。お前の話は長いんだ」
「君だって大概のくせに」
「……!」
 いつも人を見下すが如く、何事も達観したがる男は真正面から同じ卓で話し合いを持ちかけようとろくに話なんて聞いちゃくれない。だから敢えて彼の地雷を踏んで"こちら側"に引きずり下ろす必要があるのだ。浅はかで短虜な思考回路に陥った者はたいてい誰もが感情的になり、客観的な供述は出来なくなる。
「……とにかく明日にしろ。移動中にでも聞いてやる」
 薄い布を捲りそこへ体を滑らせ、彼は再び横になった。湯冷めした体はもうとっくに眠気を訴えているらしい。

 ベッドサイドに灯されたランプはこの部屋の唯一の光源だ。オレンジ色の優しい明かりはルルーシュの黒い髪の束ひとつひとつを包むように照らし淡い色を与えている。機嫌を窺おうにも顔を背けるように体ごと壁に向けているため、馬乗りにでもならないと見えないだろう。勿論そんな暴挙に出る気は毛頭ない。
 枕に散る毛束は寸分も動かずそこにあるだけだ。ベッドの傍で棒立ちになるスザクのことなど意にも介さず、彼はもしやこのまま本気で眠ろうというのか。

「君は、僕が……」
 命に代えてでも守らなくてはならない。そう言いかけたところでついにその先は音にならなかった。
 まさか自分の中にまだ騎士としての覚悟、信念に揺らぎや迷いがあるのだろうか。そう疑心暗鬼になり自らの胸に手を当てて考えてみるが、そうとも感じられない。事実スザクはルルーシュを護衛する際ランスロットを操縦すると、高確率で彼にかけられた”生きろ”のギアスが発動していた。これはギアスを宿されたスザクの身体に命の危機が瀕する時、自動的に作動しスザクの意に介さず防御反応を起こす。件のギアスが発動するということはスザクがその間命懸けで闘っている証でもあり、それはほぼ毎回のことだった。

「僕は……」
 ルルーシュは自分が守る。彼の右腕となり剣になる。それは神も仏も信じなくなったスザクが唯一信仰にも似た感情を抱くルルーシュ本人に誓った。嘘偽りない契約だ。
 ならルルーシュは自分に何を保障し、分け与えてくれるのだろう。この契約を結ぶことで自分にどんな損と利益があるのだろう。
 身の回りのことと感情の整理で手一杯になっていたスザクは、ルルーシュとの契約時に肝心なことを聞き漏らしていた。ルルーシュの死後、彼のシナリオどおりに事が進めば優しい世界が作られる。それは二人が結託して成し遂げる共通の最終目標であり、単にスザク個人だけの願いではない。その目標達成のために主人であるルルーシュは己を守れと命じた。騎士であるスザクは勿論従うが、この時点でスザクには担保も保障も益もない。

「……俺は」
 なら自分はルルーシュにどうしてほしかったのだろう。ナイトオブゼロの階級、ハイスペックのナイトメアフレーム、絶対遵守で限りなく自らの命をぎりぎりのところで守ってくれるギアスの呪い。ルルーシュから与えられたものは中には人智を超越した能力でもあり、そうでなくても数多の一般人が喉から手が出ても一生得られない地位と名誉ばかりだ。
 しかし、どれもこれもスザクが自ら欲したものじゃない。言うなれば一方的に押し付けられたようなものだ。暴力的な言い方であるが今のこの立場、ルルーシュの騎士という陳腐で空っぽな響きの肩書きだって同じことが言える。スザクが初めから自ら望んでなったわけじゃない。

「……」
 すう、すう、と規則的な呼吸音が聞こえてきてスザクは思わず嘆息した。この状況で本気で寝るなんて、本当に自分は頼りにされるどころか視界にすら入れてもらえてないのかもしれない。
「おやすみ、ルルーシュ」
 耳を覆う分厚い髪の束に指を差し入れ軽く梳きながらスザクは言葉を漏らす。散らばる横髪の合間からは年相応の寝顔が、薄闇の中で無防備にあどけなく晒されていた。



 スザクが床に就いたのは大して遅い時間ではなかったものの、結局殆ど眠れやしなかった。理由は言わずもがなである。
 あれからつい、うだうだと考えてしまった。一人思案に耽り感情のコントロールが利かなくなるのは自分の悪い癖だとスザクは自負していたが、一人の時間になるとどうしても反省と後悔の念が押し寄せてくる。
 自分はルルーシュにどうしてほしいのだろう。
 今さら見返りが欲しいなど思いたくもない。しかし何かをしてほしいということは、彼の身を守ってやるにあたって、対価が欲しいということだ。だが給与は使い道がないし歴史に名を遺したいとも思わない。また八方塞がりだった。

「顔色が優れないが」
「自己管理を怠った自分が悪いので」
「そうか」
 移動用の黒塗りの公用車に乗り込み、宿泊施設から会議場へ移動する合間のことだった。珍しく皇帝は騎士の顔色を窺うという稀な言動をしてみせたが、騎士の返答を聞いた皇帝は素っ気なく生返事を返すのみであった。
 運転手は皇帝のギアスによって操作された、意志も感情もない云わばロボットだ。彼にはたとえこの車が爆破されようと自分を目的地まで死ぬ気で届けろと命令されてある。
 いっそ意志も持たず、こうして彼に従うことのほうが楽なのではないかと思ったのは言うまでもない。

 運転席の真後ろに座る皇帝は窓枠に肘をかけ、流れゆく外の景色をぼんやりと見つめていた。この国に暮らす市民たちのありのままの生活の様子を、刻々と記憶に刻むかのように。じきにブリタニアの悪逆皇帝によって、いくら印象操作のためのパフォーマンスとはいえ不当に支配されるのだ。その紫の瞳には一片の憐れみや同情も、もしかするとあるのかもしれない。
「なあ、スザク」
「はい」
「昨日の話の続きだが……」
 外の景色から一瞬も視線を逸らさず、顔色すらこちらに見せることなく、彼は静かに問うた。
「お前は一体どうしてほしいんだ? 俺とお喋りしたいのか、仲良しの上司と部下ごっこをしたいのか」
「そういうわけでは」
「昔みたいに、友達に戻りたいのか」
「……」

 友達に戻りたいか否かと問われたら、もうスザクにも自分の本心が分からなかった。
 少し前までなら世界のことも大人の事情も知らない、無垢な子供に戻りたいと思ったことはある。しかしそれも一過性の感情で、スザクにとって思い出すら過去の遺物となっている。ただ昔はそういうことがあった。それだけの話だ。
「陛下に頼まれてももう、戻れそうにはありません」
「奇遇だな、俺もだ」
 二人の間には取り繕おうとも修復不可能な深い溝がある。今さら、今までのように何も知らない振りをして心の底から笑って接せられる自信はない。
「それともユーフェミアのように、無償の愛が欲しいか?」
「……ユフィ」
 スザクがその名を呟くと、紫の双眸はようやく話し相手のほうへちらりと向けられた。顔色を窺うような、深層心理を探るような目つきだ。

 ルルーシュにユーフェミアのような振る舞いは求めていない。なぜならユーフェミアはユーフェミアで、ルルーシュはルルーシュだからだ。ルルーシュがユーフェミアの言動をコピーしたところで、当たり前だがルルーシュはユーフェミアになれない。どれだけ精巧な物真似をしたところで、人は誰かの代わりにはなれないのだ。
 彼を彼女の代替品として見るのはもっと嫌だ。彼女の代わりなど不要なのだ。ユーフェミアはスザクの思い出の中で生き続ける。スザクにとってユーフェミアは唯一無二の存在で、またルルーシュも同じだった。
「ユーフェミアの騎士として仕えていたときは居心地が良かったか」
「……はい、とても」
 束の間の僅かな期間であったが、スザクにとって彼女の傍に居られたことは陽だまりの中で漂うような、限りない安寧と安心感をもたらしてくれた。母親から子に対する無償の愛とまでいかないものの、彼女は出来るだけ他人であるスザクを理解しようとし、また彼女もスザクに理解を求めて好きになれと命じた。
 自分を愛せない者が他人を愛せるはずがないのだ。だからスザクはユーフェミアを本当に好きになれたかどうか自信はない。しかしそれ以上に命令があろうとなかろうと彼女を守りたいと思ったし、大切にしたかった。彼女の心に巣食う小さな闇を理解してやりたかったし、自分もそんな彼女に理解されたかった。
「……ここの街は賑やかだな。それでいて若い人間、学生も多い。俺たちみたいな学生が」
 いつの間にか皇帝は再び外の様子にご執心なようで、ぽつりと独り言を漏らした。
 幼い子供と赤子を連れた家族連れ、仲睦まじそうな二人組の男女、小さな孫に囲まれた老夫婦に、学校帰りらしき制服を着た学生たちの群れ。みな思い思いの生活を営んでいる。自分たちと何ら変わらない、昨日今日までの平穏な日々が明日も続くと信じている幸せな人たちだった。
「私たちも?」
「数か月前まではそうだったろう? 少し世界を知り過ぎたが」
 少し、どころではない気がする。冗談めかしてぼやく皇帝の言い回しに、騎士は思わず苦笑いを零した。

 誰もが平等で優しい世界を求めていたユーフェミアとルルーシュの決定的な違いは、世界を知っているか否かだ。
 ユーフェミアは良くも悪くも世間を知らず世界情勢も存ぜぬ若い娘である。それが吉と出て特区日本を設立しようというアイデアに至ったものの、その天真爛漫と無鉄砲さゆえこの男に無慈悲にも殺された。そればかりか日本人殺戮の汚名まで着せられたのだ。
 その点対するルルーシュはその年ですでに世界を知り尽くしていた。栄光の光とその足元に根差す闇を身をもって知っている。だからどこまでも非道になれるし容赦なく人を切り捨てられる。彼はあまりにもこの世の理を知り過ぎていた。心は擦り切れ体もぼろぼろであってもおかしくないのに、彼の尊厳と頑なな意志が挫けることを許さなかった。

 ユーフェミアは自分を個として認め、理解してくれた。しかしルルーシュは自分をそう見てはくれない。なぜならルルーシュにとってこの世界も生きている人間すべて、彼自身の存在ですら駒に過ぎないからだ。
 スザクはそれが悔しかった。人に理解される喜びと安心を知ってしまった以上、もう一度誰からも見放される現実は耐え難いほど辛く孤独感を与えたのだ。
 誰かに必要とされたい。それは駒としてでなく、代替の利かない唯一無二の存在として、枢木スザクだから欲しいんだと言われたい。
 いつの日か皇女殿下に言われた”私が貴方を大好きになります”という言葉に、スザクは初めて承認欲求を自覚した。植え付けられた自我の種は芽吹き彼女の亡き後も育ち続け、今では宿主の心を蝕み続けている。スザクはルルーシュに個として認められたかった。窓の外、果てしないほど広い世界ばかりでなくこちら側、狭い世界にも目を向けてほしい。
「そうか、俺は……」
 ルルーシュに見てもらいたかった。好きになってほしかった。

 ルルーシュは広い世界は知っているが、自分のことなんてちっとも見てないし興味もなければ、何一つ知りやしないのだ。自分はこんなにも彼のことを想い、理解しようとしているのに。信頼とは相互理解が前提で成り立つものだと、頭でっかちの彼はどうやらそんなことも分からないらしい。
「ルルーシュ。僕は、俺は、君に好きになってもらいたかったんだ」
「へえ」
「俺はルルーシュを好きになろうと思う」
「今さらか? 俺はお前のことが大好きで仕方ないのに」
「なっ……」
 ははは、と高笑いが聞こえてスザクは歯噛みした。いくら言葉遊びでも、そういった冗談は悪質であろう。
「俺が命を預けているんだ。それなりの信頼はあるさ」
「そんなこと、一度も言ってくれたことなかったじゃないか」
「いちいち言わないと分からないのか?」
「……」
「ああ、お前は昔からそういう奴だったよなぁ」
 一人で腑に落ちたような声でルルーシュは話すが、スザクは今一つ納得がいかない。そもそもこの話の流れでさえ、主導権はあちら側にある。スザクは彼の話術に翻弄されてばかりだ。
「俺は何でも分かってるつもりだ。どこの馬の骨とも知れない、素性の分からない奴をこの俺がこうして隣に置くわけがないだろう」
「まあ……」
「というかお前、俺の裸に興味があるくせに本当に好きじゃないのか?」
「だから、それは!」
 何度も言ってるだろう! とスザクが噛みつくように反論するのを、彼はまた至極愉快そうに嘲笑っていた。二人分の体重で揺れる車内は些か賑やかであるが、前方に座る運転手はギアスにかけられているためこちらの話には一切応じないし聞こえもしていない。

「愛してるよ、我が騎士」
「自分も陛下のことを好きになれるよう努力します」
 騎士の言葉を聞き入れた皇帝は、血色の良い薄唇を緩めてことさら美しく微笑んでみせる。それはいつかの思い出にあるユーフェミアの面影を踏襲するかのように瓜二つであったのだ。
 騎士は無防備に膝の上へ投げ出されていた皇帝の右手を取って、その甲に優しく口づけた。