高嶺の花は咲う

 皇帝はせっかちである。それでいて気難しくて、潔癖だ。どこかロマンチストで排他的、そのうえ完璧主義で、容赦がない。物にも人にも、自分自身にも。
 とくに彼は時間にルーズなことをひどく嫌う。一分一秒でも惜しいのだろうか、そんなに生き急いでどこへ行くんだとみなが思っている。早歩きでカツカツカツカツと忙しなく鳴る足音は聞いているだけで息が苦しくなるほどだ。
 しかし、それもそのはずであった。皇帝はただでさえ忙しい。通常の公務に加えて、やれ外交だ出張だとあちこちの国を行ったり来たり。連日入る長ったらしい会議に、最近では国防に力を入れているのか、自ら作戦指揮をしたりだとか軍の視察も行っているとかで、死相が表われるのも近いかもしれない。そう言われるくらいには、皇帝の激務ぶりは加速していた。
「おい、何してる」
「何って」
 麗らかな午後のひとときといえば、温めたカップに紅茶を注ぎ茶菓子も用意して、食後の気だるさを持て余しつつ、時計の針が刻む音に耳を傾けゆっくり過ごす、なんてことができたら理想だ。だがスザクは皇帝直属の騎士であり、今は立派な公務の時間内である。職務怠慢が外部にばれたら、国民からは税金泥棒だと非難を浴び、そのうち不信任でクビにされかねない。そして歴代最も愚かで不忠な騎士として歴史に名を刻むだろう。
「メイドの人がさ、花を持ってきてくれたんだ。だからこうして、花瓶に飾ってて」
 そんな馬鹿馬鹿しいストーリーを脳裏に描きながら、スザクは不躾に己を呼ぶ声に答えた。
 手元には数束の花があり、それらは洒落たデザインの花瓶へ適当に飾ってやる。スザクには花の知識や素養もなければ経験もない。自身でも自覚しているが、恐らくセンスもない。形はぐちゃぐちゃとしているし、色だっててんでばらばらで、纏まりは感じられない。
 しかし花自体は、いつでもどこにあっても、その瞬間の美しさだけは変わらないものだ。趣味の悪い花瓶に活けられても雑然と飾られても、花びらはいつだって笑って綻ぶ。いずれ枯れる花は子孫を残すため、より美しくあろうとするからだ。たったひとつの目的のために、小さな命は最期に美しく散ってゆく。その恒久的ではない、刹那的な命の在り方が愛しいと思えた。
「そんなもの使用人に任せておけばいいだろう」
「分かってないなあ」
 やれやれ、とスザクが首を振れば、変なところで負けん気の強い男はやけに食い下がろうとする。背後からドサドサと紙束が積まれる音がして、思わず振り返った。
「ちょうちょやお花がそんなにお望みなら、お前にぴったりの仕事がある」
「これは……」
 足元に置かれたローテーブルの上には、たった今彼の手で置かれたのであろう書類の山が積まれている。そして言葉と同時に彼は、ホチキスで綴じられた書類とUSBメモリを傍に放ってみせた。
「三日間の遠征だ。反政府軍の鎮圧をしてこい。作戦指揮はお前に一任する。場所は山間部だそうだから、思う存分花摘みができるぞ」
「ちょっ、ちょっと待って」
「異論か?」
 スザクが青褪めた顔で資料に目を通すと、皇帝はふんと鼻を鳴らして事も無げにそう言い放つのだ。
 取り付く島もない。作戦指揮を一任ということは、全て丸投げということと同義だ。それでいて与えられた期間は三日と、超短期決戦を強いられている。
 出動できる部隊も数は当然限られていて、反政府軍だって一筋縄ではない。当然手を抜くわけにもいかず、絶対に勝てる戦法と準備を整えなければ確実にこちらが痛い目に遭うのは間違いのだ。そう思って毎回出し惜しみせず全力で戦ってきたスザクは今のことろ、全戦全勝でその殲滅力、戦闘力も群を抜いていた。
 だからだろうか。
 必ず”勝てる”勝負にしか挑まない、勝てる布陣に拘る皇帝はやけに、やたらと、騎士を前線に送りたがる。酷使していると言えば聞こえは悪いが、言い換えればそれだけ忠実な仕事ぶりを信頼している証だ。
 皇帝に頼られること自体、正直悪い気はしない。むしろ誇りに思うし、モチベーションも上がる。仕事ぶりをきちんと評価されているんだと、見てくれているんだと思える。だからこそ、いやそれにしても、皇帝は些か騎士に頼り過ぎなのだ。
「僕、帰国したの一昨日で」
「知っている」
「二週間も遠征、行ってたんだけど……」
「それがどうかしたか」
 この頭の痛みは疲れのせいか、この分からず屋で人でなしな男の、無神経さのせいだろうか。どちらにせよ原因はこの男にある。
 前線で戦える優秀な人材は他にも居る。優秀なナイトメアフレームパイロットたちで構成された皇帝の護衛でもあるナイトオブラウンズたちや、ジェレミア卿、他にも軍部には百戦錬磨の戦士たちが多く在籍している。彼らも戦場のプロフェッショナルと呼ばれるに値する実力を、当然有しているのだ。彼らへ均等に仕事を割り振ったとしても、皇帝の計画にはなんら支障はきたさないだろう。
 皇帝は戦場での指揮官として、あるいは一国のトップとして、有能すぎる仕事ぶりを発揮する。だから皇帝が多少無茶な働きを要求しても、誰も逆らえないのだ。それは恐怖政治だとか、裏で賄賂の取り交わしているとか、そんな理由じゃない。誰一人として彼よりも有能な、ブリタニア帝国の皇帝に相応しい人間が居ないのだ。彼は純粋に、真面目に、実力でその地位を確立していた。
 そんな皇帝に唯一と言っていいほど口出しができるのは、彼の直属の部下にして近衛でもある騎士くらいだ。
 騎士は彼の右腕でありながら、彼を護るための盾であり剣にもなる。ゆえに、王と騎士は一心一体、二人三脚のような信頼関係がないと成り立たないと言われる。騎士は王を命懸けで守るという誓いを、王はその誓いを信じ、騎士に命を預ける覚悟が必要なのだ。その信頼関係があるからこそ騎士は皇帝に食い下がるし、皇帝も騎士とは対等な関係であろうとする。
 というのが客観的な、自分と彼を外側から見る者たちの意見と評価だ。
 あながち間違いじゃない。彼と自分は命を預け、預けられるという強固な信頼関係のもとに成り立っている。ではなぜ、そうやすやすと、彼は自分に全幅の信頼を置くのか。その真相は多分、一般市民はおろか宮殿の人間ですら知らない。
 スザクははあ、とわざとらしく溜息をついた。遠征に次ぐ遠征続きのハードワークで、さすがに底知らずの体力にも限界が見え始める。身体的なものもあるが、精神的な疲労感が圧倒的だ。戦場ですり減らした精神力は十分な休養がないと賄えない。
「その、もう少し休ませてほしいというか」
「休み? このクソ忙しいときにか?」
 彼の眼光が僅かに鋭くなって、スザクは思わず後ずさりかけた。
 正直なところ休みが欲しいし、連日激務に追われる彼にだって休みは必要だ。休みたいという心が麻痺してしまっているのか、彼にそのような素振りは一切ないけれど。
 真正面から休ませて欲しいと嘆願しても却下されるに決まっている。言うならもっと”別のアプローチ”が必要なのだ。
 皇帝はもう用が済んだと言わんばかりに、それらの資料だけテーブルに置き去りにすると、さっさと背中を向けた。言うだけ言って仕事を課し、姿を消すのは彼の常套手段だった。
「ちょっと、話を聞いてよルルーシュ」
「……なんだ」
 思わず腕を掴むとそれほど力を入れて居ないはずなのに、彼はたたらを踏んで立ち止まる。顰め面で振り返られれば、直前まで言おうとしていた気の利いたことも忘れてしまった。
「僕、もう少しここに留まりたい」
「お前の不器用さは事務に向いてないし、会議だっていつも寝てるだろ」
「いっ、いつもじゃない!」
「……」
 ああ、いけない。垂らされた釣り針に噛み付いていては話は一向に進まないどころか、彼に有利に会話が進んでゆく。何が言いたいんだこいつ、という冷ややかな視線がちくちくと刺さって痛い。
「だって、ここだと君の傍に居られる」
「お前が不在中のときはジェレミアに身辺警護を」
「だから! そうじゃなくて!」
 要領を得ない彼といまひとつ会話が噛み合わない。たぶんこういったことは、一から百まで噛み砕いて、懇切丁寧に話してやらねば伝わらないのだろう。情緒を解さず、人からの好意にどこまでも鈍感なのだ、この男は。
「ルルーシュの顔が見たいって、もっと一緒に居たいんだって意味!」
「…………」
 彼は切れ長の瞳を大きく見開かせて、驚いたような顔をした。が、それ以上の反応をとくに示さない。盛大に滑った発言をしてしまっただろうか、とスザクは内心冷や汗をかいた。
「……どうしても、いけないかな」
 握った腕の下、彼の白くて細い手がぴくりと震えた。
 スザクが眉を下げてどことなくしょげた声を発すると、途端にルルーシュは気まずそうに視線をうろうろと彷徨わせる。何か悪いことをして、それがばれたときの子供のようだ。
 ルルーシュはスザクに掴まれた手をゆったり解くと、ようやく向けていた背を戻し、スザクと正面から向き合うように立ち直った。居心地悪そうに逸らされる視線は相変わらずで、合わない焦点はこちらを見向きもしない。その反応から察するに、ルルーシュもスザクを馬車馬のように働かせていたことに、負い目を感じているのだろう。
「お前を使えば勝てるだろう」
「買い被り過ぎだよ」
「そんなことあるか。お前は俺が見込んだ男だ」
「それは……」
 面と向かってそう褒められると、何と言えばいいか分からない。どんな顔をして受け止めればよいのだろう。
 思わず俯いてしまったのは血が上った顔色を見せたくなかったからだ。彼は無意識なのだろうが、その言葉はスザクにとって十分破壊力のある殺し文句だった。
「でもお前がどうしてもというなら、やむ無しだ。他の者を代わりに、」
「ぼっ、僕にやらせてくれ!」
「……はあ?」
 スザクの顔を疑うような目つきで、ルルーシュは呆れた声を出した。それもそのはずである。あれだけ休みたい休みたいと駄々を捏ねていたのはスザクの方だ。それをたった今、ものの僅か数分で発言を覆したのだ。ルルーシュは始終呆れて物も言えない、という面持ちである。
「三日もいらない。一日で終わらせてくる」
「さすがのお前も一日じゃ無理、……!」
 言い終わる手前、肩を引き寄せて顔を近づけると大きな紫の双眸が瞬く。澄んだ瞳には悪い顔をした男が映っていて、思わず手のひらで純粋な目を閉じさせた。
 唇にふにゃりと押し付けるだけの接吻をすれば、手の中にある体は大きく震える。相変わらずの初心な反応に、スザクは知らずうちに心の中でほくそ笑んだ。
 土地と民を支配し国を統べ、世界を手に入れたはずのこの男は、こういったことに滅法弱く無知だ。それでいてなかなか羞恥が抜けないのか、いつまで経っても慣れない。
 そういうところがいいと思う。真っ白で無垢な心と体に己の愛した証を刻みつけ、自分好みの色に塗り替えてやる。それを実感するとき、スザクはいっとう興奮せざるを得なくなるのだ。それは雄の本能に植え付けられた、抗えない欲望なのだろう。
 束の間の接吻から唇を解放してやると、彼はきつくスザクを睨んだ。が、微かに染まる頬の色があまりにも明るいから、いまひとつ覇気に欠ける。彼はそのことに自分で気がついているのか、定かでない。
「僕が帰ったら、続きしようか」
 ことさら優しく囁いて、スザクはゆったりと微笑んだ。ルルーシュが”この声”と”この顔”に滅法弱いことをスザクは重々理解していて、だから思う存分利用してやるのだ。少し意地が悪いだろうが、同じくらい彼だってスザクには天邪鬼で素直じゃない。これはそのお返しである。
 その言葉で魔法にでもかけられたかのように、ルルーシュの顔はぶわりと朱に染まる。何かを言いかけるようにはくはくと震える唇だったり、おろおろと彷徨う視線が、何とも健気でいじらしい。庇護欲を煽られると同時に腹の底では煮えたぎるような嗜虐心も芽生え始めるから、ルルーシュは男心を擽るのが大層上手い。しかし何が一番質が悪いかって、それが彼の無自覚さのあまり、無差別に、際限なく振りまかれることである。
「何を想像してた?」
「なっなにも、何も考えてない!」
「じゃあ僕が帰ってきたら何してほしいか、考えててよ」
「それは……」
「何だってしてあげる」
 囁くように言葉をかければ、彼は大人しくこくりと首を縦に振る。その素振りを見ると、なかなか懐かない猫がようやっと寄り添ってくれたかのような、謎の感動すら湧いてくる。赤みの引いた頬はどこか艶めいて血色が良い。僅かに尖った唇は、自分に丸め込まされまいとする彼の意地と往生際の悪さを表していた。
 スザクはふと思い出したかのように、かぶりを振ってああそういえば、と声を上げた。
「アーニャとジノを同伴させてもいいかい。ああそれと、アルビオンのエナジーフィラーは満タンだったよね?」
「ああ。モルドレッドとトリスタンもいつでも出動できる状態のはずだが」
「良かった。今すぐ出動するよ」
「今すぐ?」
 スザクの言葉を疑うように、ルルーシュは顔を顰めた。何も今すぐじゃなくたって、とでも言いたげな顔をしている。彼の瞳は雄弁だから、本人が気を抜くと考えていることがよく伝わるのだ。
「せめて敵を知ってからにしろ。用意させた資料がここにある」
「移動中にでも見るよ、有難う」
 ローテーブルに散らばる紙やUSBメモリを適当に手に取って、スザクは悪びれることもなくそう告げた。
「本当に一日で制圧する気か?」
「うん。鉄は熱いうちに打て、っていうし」
「……?」
 ルルーシュは首を傾げていたが、それにスザクは敢えて答えてやらず、意味深な笑みを浮かべるのみだった。
 ややあって昼休みの終わりを告げる時報の鐘が宮殿に響く。皇帝ははっとしたように顔を上げ、部屋の掛け時計を見つめた。午後のスケジュールを脳内で整理しているのだろう。無駄なく綿密に敷き詰められた予定表は彼の完璧主義な性格を如実に表している。広すぎる宮殿内を移動する時間でさえも想定し予定を立てているというから、彼の急かすような早歩きにも納得がいく。
 皇帝はせっかちである。それでいて気難しくて、潔癖だ。どこかロマンチストで排他的、そのうえ完璧主義で、容赦がない。物にも人にも、自分自身にも。
 しかし皇帝は、人をよく見ている。求められた仕事量に相応の成果を出せば評価してくれるし、地位や富といった報酬も与える。
 そして皇帝自身も有能な人物であった。一人で多くの仕事をこなし、時流を見極め、的確な舵取りを行える人だ。どんな劣勢でも彼が指揮を執れば負ける戦はないと言われるし、巧みな弁論術といくつもの”顔”を使い分ける器用さで外交もこなしてみせる。
 皇帝の下で働く者たちはみな、そんな彼に認められたいと願って止まない。彼に評価され、認知され、褒められたい。せめてお目に入れて頂きたい。とくにナイトオブゼロと呼ばれる、皇帝直属の騎士はみなが憧れ、羨望する役職であった。
 背を向けて部屋を出ようとする男に、スザクは思わず声をかけて呼び止めた。
「せめて僕の武運を祈っててよ」
 扉に手をかけたのち、まるでスザクの言葉など届いていないかのような様子で閉じようとする。ここにきて無視を決め込まれるなんて思いも寄らず、僅かに心が挫けかける。
 しかし扉が完全に閉じられる間際、彼はどうしてか一瞬だけ手を止めて顔を上げたのだ。透き通る紫はスザクの腑抜けた顔をじっと捉える。目が合うとふん、と鼻で笑われた。
 口角をにやりと持ち上げて笑う表情は、良くないことを企んでいる悪人のようだ。吊り上がった切れ長の瞳は触れるだけで切れそうな鋭い眼光を湛え、スザクの顔を見据える。
「今更、なにを言う」
 その言葉は皇帝が騎士を信任している紛れもない証拠だ。万人が欲しくて堪らない皇帝からの信頼は今この瞬間、騎士へ寄せられていた。
 しかし滲む優しい声色だけは誰も知りようがない、皇帝が騎士にだけ与える特権のひとつであった。