絶対性幸福理論
人が幸福だと感じる瞬間といえば、たとえば何が挙げられるだろう。美味しいものを食べたとき、映画で感動したとき、家族と過ごす団欒の時間、暑い湯船に体を浸す夜、ボーナスの支給日、趣味に打ち込む休日、好きな人と過ごすひととき。人の数だけ答えはあって、優劣がなければ正解も間違いもきっと存在しない。なぜならそれは当然の権利であって、生きる理由にもなり得るからだ。
ルルーシュにだって、幸せだと思う瞬間は毎日欠かさず、一日のどこかで一度は巡ってくる。それは愛妹の駒鳥のような、愛らしい笑い声だったり、淹れた紅茶を美味しいと言ってくれることだったり、おかえりなさいと出迎えてくれる放課後だったり、ほんの些細なものが殆どだ。それが毎日当たり前のように繰り返される習慣だからといって、しかし侮ってはいけない。
「おかえりなさいませ、お兄様」
「……ああ。ただいま、ナナリー」
「本日の夕飯はシチューだと、咲夜子さんがおっしゃっていたんです。ふふ。冷めないうちにお兄様もほら、早くリビングにいらしてくださいね」
いつもよりどこか疲れ切った兄の声音を鋭い聴覚は察知したのか、彼女はそう付け足して兄の手を取った。早く元気を出してくださいね、と言外に示された動作に、我知らず目頭が熱くなるような思いがした。
その日一日、苦手な体育で恥をかかされただとか、出席日数が足りていないとこっぴどく叱られただとか、理不尽なことや嫌なことがどれだけあったとしても、彼女の気遣いと声ひとつでルルーシュは天にも昇る気持ちになれるのだ。どんな妙薬や医療技術をもってしても敵わない、毎日の些細な習慣はルルーシュにとって万能薬とも言える。
自分の帰りを待つ家族が居て、こうして自分を兄として慕ってくれている。それを実感する瞬間すべてが、ルルーシュにとって数多くある幸せのうちのひとつであった。
「ルルーシュ様、おかえりなさいませ」
「ああ、咲夜子」
廊下からリビングに続く扉を開くと、すぐそばで控えていたらしい彼女は恭しく腰を曲げて主を出迎える。そんなに畏まらなくても、と前々から言ってはいるが、その姿勢を一向に変えようとしない咲夜子に、先に折れたのはルルーシュのほうである。
「お疲れのご様子ですが、体調が優れないのですか?」
「いや。友人の馬鹿騒ぎに付き合わされただけだ」
「ふふ、左様ですか」
息をつきながらジャケットを脱ぐルルーシュは、つい一時間ほど前のことを思い返しながらそう吐き捨てた。咲夜子はその発言に呆れるでも心配でもなく、どこか微笑ましいものを見るような目をする。口ではそう言いながらも本気で嫌なわけじゃなく、むしろその馬鹿騒ぎが心地よくて楽しいんだろう、とでも言いたげだ。
「夕食は食べられますか」
「もちろん頂くよ。そのために帰ってきたんだ」
卓に並べられた底の深い皿からは白い湯気が立ち昇り、その光景だけでも食欲を誘う。ちょうどこの時間に合わせて空きっ腹にしてきて正解だった。
三人がちょうど席に着いたところで、頂きます、と手を合わせる。別に揃って食事を摂るルールがあるわけでも、そうせねばならない理由はない。時間が合わなければ別々に摂ることだってざらにあるが、出来るだけ食事の時間は一緒に過ごすことを心がけていた。このささやかな時間だって、ルルーシュにとって幸せを実感できる、貴重な瞬間だったからだ。それはルルーシュだけでなく、この場に居る二人だって同じだった。
人が幸福だと感じる瞬間は、たとえば最愛の愛妹が出迎えてくれる一日の終わりだったり、家族と囲む夕食の時間だったり、その日の出来事をまるで宝物のように見せて、話してくれる愛らしい横顔を見つめるときだったり、答えは人の数だけある。しかもそれはひとつと限ったわけじゃない。そのうえ些細なことほど幸せを感じられるのだから、人の心とは都合よく出来ているのだ。
「お兄様、眠いのですか? 先にお部屋に戻られてはいかがです」
「ああ、そうかな……」
目元を擦ってみるが、なんとなくぼやけた視界はクリアにならない。頭の中が靄がかったようで、何となく受け答えも鈍い。ああ、そうかもしれない、うん、そうだな、と今一つ力の入らない生返事を繰り返していると、気にせずおやすみなさいませ、と言われてしまう始末だ。くすくすと笑い声も微かに聞こえて、ああ自分らしくないなと思う。彼女はこんなしゃんとしない様子が物珍しいのか、可笑しそうに笑っていた。
覚束ない足取りで自室に戻ると、自分の意思に反して体は無意識のうちにベッドへ向かおうとする。毎日の日課であった、明日の天気も今晩のニュースもメールも、まだチェック出来ていない。理性はそう心のうちで叫ぶのに、頭はひっきりなしに休息を求めるから、体がどうにも言う事を聞かないのだ。
半ば倒れ込むようにしてベッドのマットレスに体を沈ませると、ぼすんと鈍い音が鳴る。スプリングが微かに軋んで、反発で四肢が軽く浮いた。しばらくじっとしていると自然と目蓋は重くなって、否が応でも閉じられようとする。部屋の壁に掛けてある時計はまだ九時を指していて、就寝するには少し早過ぎる。時間が勿体ないな、と思う反面、やはり体はこれ以上動けないと駄々を捏ねて指一つ動かす気になれない。
最後の力を振り絞って出来たことといえば、手短にあった枕を手繰り寄せて、そこに顔を埋めるくらいだ。さらさらとした肌触りのそれに頬をつけると少しひんやりして、これ以上ない極楽だった。疲れた体が求めるままに休息を取れるこの瞬間もまた、ある意味幸福なのだろう。
覚醒と睡眠の縁でふわふわと意識を漂わせているとき、ふと、つい数時間前の出来事が走馬灯のように思い起こされる。今のように枕に顔を埋めて、ベッドに四肢を投げ出して、怠い体と靄がかった頭をそのままおざなりにして、ぼんやりと物思いに耽っていた。そんな気がする。
放課後に友達と馬鹿騒ぎをしたわけでも、大量の補講や追試を強いられていたわけでも、生徒会活動で力仕事を任されてしまっていたわけでもない。むしろ健全な学生生活のいちページとは程遠い、不健全で淫らでどうしようもないことに身を投じていた。それは咲夜子やナナリーには到底言えない、ふしだらな行いだ。だから適当な嘘をついて、あの場では誤魔化していた。
ルルーシュが幸せだと感じる瞬間はなにも、家族と居る時だけじゃない。友達と過ごす時間だってかけがえのないものだと思う。そして一番好きな人と共有するひとときだって、言うまでもなく大切で、幸せだ。ふと目が合って、どちらからともなく目配せをし合って、微笑まれるとき。手を緩く繋ぎ合って、冷たいね、と囁かれるとき。言葉にされなくても愛されていると実感できるふとした瞬間、時間にしてみれば一秒にも満たない刹那だけで、ルルーシュはこれ以上ないほど幸福だと思えた。そしてそれと同じくらい、どきどきもする。
たったそれだけで鼓動の速さは増してばかりだし、顔は火照って仕方なくなる。なのに自分の好きな人はそれ以上の、もっと深い繋がりを求めようとしてくるから手に負えない。なのに求められたら求められた分だけ返してやりたくなるから、それはきっと彼を好きである何よりもの証拠だ。”だって好きなんだからしょうがない”というのが、最近自分の中で出た最適解である。
好きだよ、と明確に言葉にされるだけでどうしようもなくなるのに、彼はその上、たとえば唇や指や舌で、自分に触れてくる。そんなとこ触るな、見るな、と言っても聞き耳を持ってくれたことが一度としてないから、もういちいち口出すこともしなくなった。決して羞恥心や情けなさがなくなったわけじゃない。言っても無駄だから、指摘するのを諦めただけだ。
「はあ。あったかい、きもち……」
「ん……」
みっともなく開かれた脚の片方には制服のスラックスがぶら下がったままだ。ついでに言うとジャケットは腕に絡まったまま背中に敷かれているし、目前に広がる自分の下半身はよく分からない体液に塗れていて、見るに堪えない。なのに目前の男は股間を寛げる程度しか制服を着崩しておらず、汚れるから脱げと言っても案の定、言うことを聞きやしない。
汚れるから脱がなきゃいけない、というのは尤もな言い訳で、殊勝な心掛けだ。しかしその実、その言葉の裏には、拭いきれない後ろめたさが隠れている。制服を着たまま情事に及ぶなんて下品で不健全で、自分たちが悪いことをしていると、嫌でも実感させられる。それがどうにもルルーシュは罪悪感と背徳を覚えてしまって、居心地が悪いのだ。
「服、脱げ」
「ここで脱ぎ散らかすより、あとで脱衣所行くとき脱いだ方が、楽だよ」
ルルーシュの本音を見透かすようにうっそり微笑む男は、汗にまみれた頬を乱雑に拭って、前髪を掻き上げる。そんな男らしい仕草に目を奪われていたら、ついに反論するタイミングは失われてしまうわけだ。
「苦しくない?」
「……ちょっと、だけ」
「じゃあもう少し、こうしていようか」
汗で滑り落ちる腰を抱え直しながら、男は努めて穏やかに笑った。こめかみから滑り落ちた雫がぽたぽたと顎を伝って、ルルーシュの腹や胸元に滴り落ちる。そのさまを見つめているとまた、心臓がばくばくと暴れ出しそうになる。
正直なところ、体はもう平気だった。苦しさが全くないわけでないが、我慢できないほどじゃない。心がついていかないのだ。恥ずかしくて悔しくて気持ち良くて、変なことを口走りそうで怖かった。
「……もう平気?」
「た、ぶん」
ちらりと目が合うと、おずおず男は尋ねてきた。真っ赤に腫らした頬や目元は幾重にも汗が伝った跡があって、それを見てしまうと受け入れざるを得なくなる。ぬかるんだ唇に唇を吸われると、落ち着けようとしていた呼吸がまた荒くなって、とてもよくない。
「いまお尻、きゅってなった」
「いっいいから動け、このっ」
恍惚とした顔でそんな下品なことを言われた挙句尻たぶを撫でられなどすれば、ルルーシュもついむきになってしまう。依然としてスラックスに包まれた太腿を蹴ってやると、男は観念したように眉を下げて苦笑いした。
「じゃあお言葉に甘えて、遠慮なく」
見上げた翡翠の色は燃え上がるように熱く、雄の凶暴な本能が宿っていた。
指がめり込むんじゃないかという力で腰を掴まれたと思ったら、体内に埋まっていた栓がずるずると、時間をかけてゆっくり抜けてゆく。嫌な予感がして背中に冷たい汗が浮かんだ。目の前の男といえば人の気も知らず、真っ赤な顔をしたまま穏やかに微笑んで、ルルーシュを見下ろしていた。
「ッあ、ひ!」
直後体の最奥にまで叩きつけられた熱と衝撃に、喉から弾かれるようにしてルルーシュは大声を上げた。全身にびりびりと甘い電流が走って、体が硬直する。
「や、やめっ、あ! まっ、待て、待てっ」
のたうつ体ともつれる舌を何とか抑えて、ルルーシュは必死に男を制止させようとした。このままじゃ体がおかしくなる。気持ちが良すぎて苦しい、だからやめてくれ。言葉にはできない思いを部屋中へ、嬌声に乗せて必死に紡いだ。
ともすれば彼は凶悪な目つきをころっと変えて、穏やかな色に戻した。
「……ご、ごめん。止まらなく、なっちゃって」
腰に食い込んでいた指の力は緩んで、下半身にかかっていた圧も幾分かは軽くなる。涙が流れ落ちる頬に指が伸びたと思えば、そっと手のひらで包まれて、赤子にそうするかのように優しく撫でられる。
先ほどまでの気迫はどこへやらという調子で、彼は情けなくふにゃりと表情を崩した。僅かに反省の色も窺える仕草に、ルルーシュの溜飲も次第に下がる。
「ゆっくりがいいよね。……このくらいがいい?」
ゆるく腰を抱え直したあと、男は中を揺するようにして律動を再開させた。ちゅくちゅくと響く粘膜の摩擦音さえ気にしなければ、さほど辛くない。
「あ……」
「きもちい?」
「……ん」
ルルーシュが下唇を噛んで声を抑えると、部屋には荒い息遣いと卑猥な水音しか響かなくなる。性行為と呼ぶには秘めやかで、静か過ぎるくらいだ。
我を忘れるほどでもないが、確かに体の奥がじんじんと疼くような、ぬるま湯のような快楽だ。頬に宛がわれた手のひらをゆったり包んで、きもちいよ、と囁けば、彼は嬉しそうに笑う。顔中を啄むようなキスで触れられて、体の線を撫でられて、肉欲を高められると、ルルーシュはあっという間に熱を解放していた。
気が付くと、あんなに体を圧迫していた肉の杭も体温も暑苦しさも汗のにおいもとっくに気配を消していて、自分はと言えば、ぐったりと四肢をシーツに投げ出していた。狭い室内には精と汗のにおいが籠っている気がして、事後の空気が生温く漂っている気がする。するするとシーツの上で腕や脚を動かすと微かに湿っているような感触がして、それらの正体はどちらかのものだと思うと、また気恥ずかしくなる。
先ほどまで足首や肩に絡まっていた衣類は消え去っていて、ルルーシュは不思議に思った。これでは正真正銘、生まれたままの姿だ。体に付着したあれそれはそのままだが、一体どこへいったのだろう。
耳を澄ますとざあざあと水飛沫の溢れるような音が、どこからか聞こえる。部屋に居るのは自分ただひとりで、となると奴は今頃シャワーを浴びている。そうに違いない。
音が鳴り止んでしばらくすると、フローリングを歩くひたひたという足音がして、目を開けると毛先から水滴を滴らせた男が扉の前に立っていた。ルルーシュが情事のあと微睡んでいる最中に、とっとと体を洗い流してきたのだ。こっちは体を起こすのも億劫なのに、と僅かばかり八つ当たりしたい気にもなる。
「僕ちょっと眠いから、ベッド半分使うね」
「あ、ああ……」
覚束ない足取りでのそのそと寝台に腰かけた男は、そのまま上半身までしっかり掛け布団をかけて寝転がろうとする。ああ今から寝るのか、と納得しかけたが、寸のところでルルーシュは声を上げた。
「俺の制服は」
「ああ、汚れるといけないから、リビングのソファに畳んであるよ」
「そうか……」
いまひとつ頭の動きが悪いらしく、彼の気の利いた行動にルルーシュは素直に感嘆した。熱に浮かされたままの体はほんの僅かに疼いて、それ以上に、彼に触れたいと思った。
「じゃあ、おやすみ」
「えっと、あ、その」
「水なら冷蔵庫にあるから、勝手に取っていい」
「そうじゃなくて」
「気になるならシャワー浴びていいよ」
「あ、ああ……」
触れたい、触れられたい。甘えたい、甘やかしたい。
明文化できない感情はたぶん、性欲とは違う。甘い痺れが尾を引く体はこれ以上の欲を抱かないし、そもそも体力はとっくに尽きている。それでも体と心はぽかぽかとほんのり温かく、彼の顔を見ていると胸がぎゅっとする。改めて好きだなあと思うし、上手くできるか分からないが、言葉にもしたい。
これはきっと、情事後の余韻なのだ。べたべたの体のままでいいから、濡れたシーツの上で唇を擦り合わせて、脚を絡ませて、手を握りたい。数言でいいから好きだと、素直な気持ちを囁き合いたい。そうしているうちにどちらからともなく微睡んで、幸せな気持ちのまま眠りたい。ささやかな願いを実現すべく、ルルーシュはひとり眠りに落ちようとする男の背中にそっと、勇気を出して手を伸ばしてみる。
「……寒い? 服貸すよ」
「いや、えっと」
「というか、もうこんな時間じゃないか。帰らなくて大丈夫なのか」
液晶電源を入れたスマートフォンには、夜の七時を過ぎた時刻が表示された。いつもならとっくに夕飯が用意されている。確かに遅い時間だけれど、とルルーシュは食い下がった。
「明日も学校だし、もう帰ったほうがいいんじゃない。平日に朝帰りじゃ心配されるだろ」
「それは、まあ……」
そうだけど。でもそれとこれとは別だろ。
そう言ってやりたかったが、彼の思いがけない言葉に、甘い雰囲気も気分もすっかり冷めてしまったのは事実だ。俺はもっと、お前の傍に居たい。その一言が言えたら良かったのだろうが、ここで食い下がったら彼を困らせてしまうのだろうか。
「……そうだな。そうするよ」
結局、言い出せなかった。
元より思考も情緒も普段どおりに戻りかけていたから、今さらこっ恥ずかしい台詞を口に出す勇気はないのだが。我ながらこの不甲斐なさを改めて痛感する。
だからって少し、いやかなり、スザクは冷たすぎやしないか。
ルルーシュは自室のベッドで項垂れながら、つい先ほどまでの経緯を回想していた。先刻までセックスをしていた恋人に今すぐ帰れなんて、あまりにも味気ない。明日は学校があって、ルルーシュには帰るべき場所がある。だから君は帰ったほうがいい、というスザクの言い分は尤もだし、正論だ。でも理屈じゃどうにもできない、心の問題がある。
(ベッドでごろごろしながら喋ったり、手を繋いだり、キスもしたい)
言うが早いが、単刀直入に言えば、ルルーシュはスザクとのピロートークを楽しみたいのだ。普段は言えない本心も、心も体も緩んだあの場だと、少しは打ち明けられる気がする。それにやることだけやってあとはお終い、なんてまるでお互いのことを性欲処理として扱っているみたいで、素っ気ない。
それともスザクは自分と、好きだからじゃなく、気持ち良いことをしたいからああいうことをするんじゃないか、と一抹の不安さえ過る。そんな不純で愛のない、爛れた関係にはなりたくない。ルルーシュが人より潔癖というものあるが、スザクと付き合うのもそういったことをするためじゃない。性行為は愛し合う手段であって、それが目的ではないのだ。
しかし彼だって、別に自分本位で動くわけじゃない。いつだって体力のないルルーシュに合わせて手加減をして、優しく壊れ物を扱うかのように、大事に丁寧に抱いてくれる。肌を見せるのは極力避けたいのが正直なところだが、抱かれていると、彼に愛されているのだと実感できて、だからルルーシュは好きだった。肌を見せるのも声を聞かれるのも耐え難いほど恥ずかしいが、我慢ができた。
(ならどうしてスザクは、あんなに素っ気ないんだ)
別にこういったことが、今日で初めてというわけじゃない。今までにも何度か、何となく冷たかったり、デリカシーがないことはあった。そのたびに毎回、同じようにルルーシュは寂しくなる。
(俺が気の利いた一言で、振り向かせるしかないのか)
構われたがりのようで、なんだか悔しい。でも寂しいのは事実だ。
何をどう言えば良いのかは全くもって分からないが、その場の雰囲気と開放的な気分に任せて言ってしまえば、あとはどうにかなるだろう。このとき、ルルーシュはそう楽観的に考えていた。
それを言った瞬間、時が止まったかのように、スザクは硬直した。
正確に言えば驚いて瞬きするのも忘れていた、と表現するほうが正しいだろう。それほど彼はひどく、ルルーシュの言葉に驚愕していた。
「えっと、つまり、それはどういう」
「だから足りないと言ってるんだ」
ルルーシュが改めて言い直した途端、ぶわりと顔を赤らめて、スザクは再び動かなくなった。何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げるルルーシュは、微動だにしない恋人のまなこを、じっと見据える。
今日も今日とて性行為が終わった途端ベッドから離れたかと思いきや、シャワーを浴びて、けろりとした顔で帰ってくる。まるで一仕事終わった、と言いたげな顔にも見えてくる始末だ。自分はこんなにも彼から離れがたくて愛しくて、ささやかでいいから触れ合いたくて堪らないのに、彼はそんな気も知らないでいる。なんだかふつふつと向かっ腹すら立ってきた。
スザクがシャワーを浴びている間、どうして彼は情事が終わった途端素っ気なくなるのだと、ずっと理由を探していた。最中があれだけ至れり尽くせりなほど優しくされるだけあって、その落差は歴然なのだ。遊び飽きた玩具のようにベッドに放置されるのは、なかなかに堪えるものがある。
そしてルルーシュが様々なシミュレーションと知識を幾重に合わせた結果、ひとつの答えが導き出された。
男が射精したあとに性的なものへの関心が一切なくなる無反応期、性欲萎縮状態が、きっとすべてもの原因なのだ。これは男になら誰でもある生理現象で、射精した途端に昂ぶっていた性欲も興奮も引き潮の波のようにさっと引いていく。その後次第に倦怠感や眠気、性的対象に興奮どころか気分が萎えてしまう現象が起こるのだ。
スザクもきっとこの現象で、最中と事後の態度が激変しているのだろう。ルルーシュはそう結論付けた。
その生理現象は彼の意思や思惑とは反するものだ。だからいくらスザクを責めても仕方なく、むしろ立派な雄としての生存本能に基づいているのだから、正常なことである。
「つまりその、俺はお前と、もっと、こうしていたいんだ」
ルルーシュはベッドに腰かけた状態で、顔色を窺うようにちらりと見上げる。相変わらず男は硬直したまま声を発さず、棒立ちのままだ。
空いた手を両手で握って、手のひらを撫でてみる。たったそれだけで驚いたようにびくりと腕が震えて、なんだか可笑しい。その動きを無視して、自らの頬にぬるい手のひらを導いてやる。これで何となく、言葉の意図は伝わるだろうか。ルルーシュはおずおずと、再び彼の顔を覗き込むように見上げた。
未だ強張った手はするりとルルーシュの輪郭を撫ぜて、耳を擽る。そうして滑り落ちた指先は顎を支えて、軽く上を向かされた。目前にはなぜか複雑そうな表情を浮かべたスザクが居る。
「足りないんだ……?」
「ああ」
もっと触れ合って、甘い雰囲気の中で言葉を交わしたい。
そう気持ちを込めてじっと翡翠を見つめると、不意に唇が下りてくる。薄く開くと直後に柔らかい感触がして、軽く食まれた。
「気づいてあげられなくてごめん」
目線を合わせて、額をくっつける。吐息がぶつかる距離で囁かれると、今さら恥ずかしさが勝りそうになった。しかしこの至近距離だと視線を逸らすことさえままならない。ルルーシュは微かに首を縦に振って、こくりと唾液を飲んだ。
「僕も同じ気持ちだったんだ」
スザクの蕩けた瞳は、はにかむルルーシュの表情をありありと映していた。
「え、あ…………えっ?」
「うんそう。後ろ向いて」
言われるままにベッドに上がったルルーシュは、なぜかスザクに背中を向けて蹲る体勢にさせられていた。目前に広がるのは散々掻き毟っていたシーツの海で、視界の先にスザクの姿は見えない。
一体何をどうする気なんだ。ほんの僅かに緊張したルルーシュの体に、スザクは背後から手を差し伸ばした。腰を撫でさする手のひらはそのまま下半身へ下って、あろうことか尻たぶを執拗に揉んでくるのだ。
「……」
なんだか思っていた”事後の触れ合い”とは程遠い。自分は今、外科の問診でも受けているのだろうかといっそ現実逃避したい。言いようのないシュールさのようなものがある。
「さっきまで入ってたし、大丈夫だよね」
背後からそんな声がしたかと思えば、どうしてか腰を抱えられる。思わず両腕を前につくと、脚を崩して四つん這いしているような格好だ。肩越しにちらりと振り向くと、ちょうど目が合ったらしく、スザクはふわりと微笑む。
この男は何を企んでいるんだ。
「痛かったら言って」
「へ、あっ、あ……?」
下半身、というより尻の辺りにひたりと、指とも手のひらともつかない何かが宛がわれた。その正体が何なのかはとっくに知っていたが、どうにもルルーシュは身に起こる現状を理解できなかったのだ。だから一瞬、反応が遅れた。
腹の下に腕が回され、腰を持ち上げられる。彼に尻を向けるような体勢にさせられ、それを意識した途端にぶわりと顔に血液が集まる。恥ずかしい。どうしようもなく惨めで情けなくて、下品にも程がある。顔を上げることもままならない。
「なっ、なにし、あ!」
ぬる、と滑った切っ先は柔らかくなった穴をいとも簡単にこじ開け、ずるりと侵入する。丸い先端さえ入ってしまえばあとは進めるだけだという具合で、ぽっかり空いていた体内の穴を埋めるように、肉棒がずるずると内部へ挿入される。
「この体勢、やってみたかったんだけど、痛くない?」
まだ内部に残っていたローションが、ぐちゅ、と粘着質な音を立てた。
「おま、なんで、あっ…あ、あ! っえあ!?」
「……だって、”物足りない”んだろう?」
背中に圧し掛かる肉体は熱く、ばくばくと速過ぎる鼓動の音を皮膚越しに伝えてくる。一体どうして、と考える間もなく、次の瞬間には目の前がちかちかと白みかけていた。
ルルーシュは確かにその口で足りない、と言った。彼の手を撫ぜて、自らの頬に導いて、ぬるい体温を伝えた。でもそれは決して”そういう”意味じゃない。
「っは、ア…んあ、あ!」
がくがくと腰を揺さぶられて、何度も熱せられた杭を体内の奥の奥に、容赦なく加減なしに打ち付けられる。開きっぱなしの口からはまともな言葉はもはや紡がれず、意味のない音がぼろぼろと唾液と共に零れ落ちた。
「やら、あ! んっう、あ……ッ」
ついに上体を支えていた肘も力を失くして、なんとか四つん這いを保っていた体勢ががくりと崩れ落ちる。上半身はべったりと湿った布の上で寝かされ、その分下半身だけが高く持ち上げられる姿勢にさせられる。
こんな性行、犬猫と変わらないじゃないか。そう思うと無性に悔しくて腹が立って、額をシーツに擦りつける。うっすらと目を開くと、まるで粗相をしたかのように涎を垂らす自分の陰茎が視界の端に見えて、泣きそうになった。
「ちが、あっ! ちがう、やっだ、やだ! ひう、うぁ……」
自分が伝えたかったことは、こういう意味じゃない。ただベッドシーツの上で微睡んで、愛を語り合う、穏やかで健やかな一時を過ごしたかった。彼と優しい時間を過ごせたら、それはきっと幸せだろう。そう思って止まなかった。こんな嵐みたいな、一方的に快楽を植え付けられて自分が何なのかも分からなくなる、こういうことじゃない。
「やだ、んぁ…あ、やら、あん! ンっあう!」
「声、すっごい……」
背筋を撫で上げるように囁かれた声は低く、腰のあたりにぞくぞくと響く。じわりと目頭が熱くなるのを感じていると、体全体に覆い被さられるような、息苦しい圧力を覚えた。
「どこで覚えたの、それ」
「ちがっ、あ! あんっ、あ……ひッ!」
耳の中に声を流し込まれると、いよいよ思考がぐちゃぐちゃにかき乱されるような思いがする。考えは何一つ纏まらず、叩きつけられる快楽に理性が縺れて千切れ、口からは憚ることなく嬌声が溢れる。低い声は何となく不機嫌な色が滲んでいて、背筋が無意識のうちに震えた。
「それとも君がえっちなだけ?」
問いかけをするくせに腰の動きは止めようとしない。しきりに穴を出入りする肉棒は壁の至る所を擦り上げて、強烈な快楽を生み出してゆく。ルルーシュは訳も分からず、首を縦に振った。
「いやらしい君も、僕は好き」
「はう、あ、う……!?」
僕は好き。好きだよ。大好き。
鼓膜を震わせた声は頭の芯まで届いて、じんわりと胸を熱くさせた。するとそれを契機にしてか、全身がひっきりなしに震えて止まらなくなる。頭は快楽で塗り潰されて、訳も分からず喘ぐしかなかった。
霞んだ視界には自分のものじゃないけれど、よく見知った天井が広がっている。普段は煌々と光る蛍光灯は消されて、カーテンの隙間から漏れる夕焼けの光だけが唯一の光源だ。薄暗い室内の中でぼんやり、首を動かすことなく視線を巡らせると、ひょっこりと顔を覗き込む男が視界に突如入り込んでくる。
「実は言ってなかったんだけど、僕、我慢してた」
何の話だろうか。突拍子もなく話をし始めた男は、自分の呆けた様子に気が付いていないのか、その独白を止めようとしない。自分の顔を覗き込む表情は心配そうに眉が下がっていたが、潤んだ瞳は欲情しているようにも見える。汗で湿った毛束からはぽつぽつと雫が滴って、何とも言えない色気を醸し出す。
「いつも終わったあと一緒のベッドに居ると、またしたくなっちゃうんだ。でも君はしつこいのも、激しいのも嫌だと思ってたから……」
顔にかかった長い前髪を掻き分けられる。額にかいた汗のせいで髪の毛が張り付いていて、それを彼は丁寧に払った。
「それは僕の勘違いだった。毎回シャワー浴びながら一人で抜いてたのも、今考えると馬鹿らしいや」
「は……」
「だって足りないし、勃起収まらないし、仕方ないだろ!」
汗まみれの額に恭しく口付ける男は、拗ねたように唇を尖らせた。
ルルーシュが推察していた予想とは随分違った真相である。射精したら萎えてしまって、眠気と倦怠感であしらわれていたのかとてっきり思っていた。むしろ真相は正反対で、興奮が収まらなくてルルーシュを避けていた、という何とも奇妙な、俄かに信じ難い話だ。
「悪いんだけどさ、実はまだいけてなくて」
「……え?」
動かすのも億劫なのを堪えて、肘で支えるようにして上体を少し起こしてみる。そうすると目前に広がるのは目を覆いたくなるような惨状で。腹から胸にかけて白濁が飛び散っていて、これが自分のものだと気づいたときには軽く死にたさすら感じた。しかも、股の間に宛がわれた陰茎は、確かに充血して膨らんだままだ。
「トイレに行け」
「なっ……! ひどいよ!」
一瞬くしゃりと顔を歪ませた男は、その後取り繕うようにして表情を戻した。そうして何事もなかったかのように、先端を穴に埋め込もうとする。鮮やかすぎる犯行に、ルルーシュは思わず絶句した。
「だからっ、おい! 抜いて来ればいいだろ!」
「ルルーシュさっきあんなに可愛かったのに、なんでそんな意地悪ばっかり!」
何をヤケになっているのか、彼はそう喚いて、行為を無理くり続行しようとするのだ。
ルルーシュは正直もう体がもちそうにないし、ついさっきだって最後の方は記憶が飛び飛びだ。あの体勢からどうして自分が仰向けに寝転ばされているのか、それすらも分からない。気を失っていたのだろうか。
「さっきのルルーシュ、僕が耳元で好きだよって言った途端、いっちゃったんだ。……覚えてる?」
「しっ、知るか……!」
顔を真っ赤に腫らしたルルーシュは、恥ずかしいことをいけしゃあしゃあとほざく男の脇腹を蹴った。
「ねえお願いだよ」
ぐず、と鼻を啜る音が頭上から聞こえる。すっかり涙の膜が張られた大きな瞳はきらきらと光って、薄暗い部屋の中でも輝いているのがよく見える。なんでお前が泣いているんだ、と口から出そうになった嫌味はそっと喉元に仕舞っておく。
「足りないんだ、付き合って」
シーツに投げ出されていた両手を握られ、そのまま布の上で縫い付けられる。頼み込んでいるくせに有無を言わせないところとか、現在進行形で性器をじわじわ挿入し続けているところとか、そういう部分が狡いのだ。天然ぶっているがこの男は立派な策士で、あざといだけだ。
「お尻、びくびくしてて、すごい……」
はあ、と溜息をつく官能的な表情に、ルルーシュまでどきりとさせられる。この男はどこまでが天然で、どこからが計算なのか、それはルルーシュにもよく分からない。
「だから、そういうこと、言うのやめろ、って……!」
「だってさ、ほんとに、きもちいいんだ」
そんな風に言われると、今度こそどう反論していいか分からなくなる。呆然と憎たらしい顔を見上げていると、彼はにやりと得意げに笑った。
してやられた。最悪だ。
握られた指を絡ませて、さらにきつく握り締められる。もうこれで逃げられないね、と言わんばかりに微笑まれるから、ルルーシュは強がってそっぽを向いた。
せめて泣きすぎて目が腫れた、なんてことにならないといいが。そんな淡い願いを抱きながら、ルルーシュは惜しげもなく白い喉を反らして、かの男に痴態を晒した。
痒い目元を擦ろうとすると、腫れるからいけないよ、と言われてやんわり手を払われる。眉尻を下げて申し訳なさそうな顔を作る男はそう言って、情けなく苦笑いを零す。なんだか慰められているような気がして、再び掛け布団を頭から被ろうとした。
「僕と話をしようよルルーシュ。こういうの、してみたかったんだろ」
「……」
両手で握っていた布団を剥ぎ取られて、素肌のままぎゅうぎゅうと抱き寄せられる。軽く汗ばんだ肌はぬるぬると滑って、あまり心地いいものじゃない。それでも彼は何が可笑しいのか、くすくすと笑い声を零す。
「君は僕が思ってるよりよっぽど純情だね」
「お前がだらしなくて爛れているんだ」
「でも、君自身が思ってるより君の体は淫らだ」
うるさい黙れ、と一蹴してやれば今度こそ、男は腑抜けた面のまま黙り込んだ。
行為が終わってひと段落した後、ルルーシュは渋い顔を浮かべて全てを打ち明けた。最初に足りないんだ、と告白したのはお前のそれとは違う。ルルーシュが足りなかったのは性欲の発散ではなく、スザクとベッドで過ごす穏やかな時間のことなのだ。それを履き違えられ手酷く抱かれ、今に至るわけだ。
それを説明するや否や男は泣き出しそうになりながら、ルルーシュに謝り倒した。沸騰したように赤かった頬は一気に青白く染まり、未だ朦朧としていたルルーシュの体を抱き潰す勢いで謝罪を繰り返したのだ。正直ルルーシュも馬鹿らしくなっていた節はあったから、もういいよ、と呆れながら許してやった。
「なんだっけ、ほら。ピロートーク? やろうよ、ルルーシュ」
「もう、いい……」
「なんで!」
なんでもどうもない。喘ぎっぱなしで喉は痛いし、体は怠いし、泣きすぎて頭も痛い。外はとっくに夜のようで、明日だってもちろん平日の授業がある。こんなはずかなかったのに、と頭を抱えたところで後の祭りだ。言い出したのは自分だが、もう何もする気になれない。
「ルルーシュ」
構ってほしいのか、飼い主に置いてけぼりにされた子犬のような声を出す男は、汗に濡れた髪の毛をさらさらと、愛しそうに梳いている。黒髪を指に絡めて解いて、また絡めては解いて、をゆったり繰り返す。
「許してくれる?」
「別に、最初から怒ってなんかない」
「……有難う」
毛束をいくつか掬うと、スザクは恭しくそこへ口付ける。見てるこっちが恥ずかしくなる動作は、腹が立つほど格好良く決まっていた。直視するのも耐え難く、つい目を逸らしてしまうほどに。
「眠い?」
「……少し」
早くも重たくなり始めた目蓋は、僅かに開いては閉じてを繰り返し始める。揺蕩う意識はやがてルルーシュの手元から離れて、しばらく戻ってこないのは目に見えていた。だから最後に、一言願いを言ってみた。
「キスして、ほしい」
「いくらでも」
ふにゃりと押し付けられた肉は形を変えて、体温を交わらせたあと、ゆっくりと離れる。あまりに心地よくて、殆ど眠ってしまいそうなほどだ。離れたあとはそこがひんやりとして、少し名残惜しい。
「なんか、幸せだなあ」
枕をクッション代わりにしながら、スザクは寝そべりながらそう問うた。ほんのりと染まった頬がよく見える。
「ルルーシュもそう思う?」
「……ふふ」
人が幸福だと感じるひとときは千差万別、星の数あれど、それが好きな人と共通していた瞬間、それは特別な思い出として、苛烈なほど心に残る。目に見えないから普段は気づかないことが大半だが、こういう一瞬一瞬のような出来事が、日常には溢れているに違いない。ならば、同じ景色を見続けることができたとしたら、こうした瞬間をもっと、彼と集めることができるのだろうか。
「なんで笑うのさ」
「お前があんまりにも幸せそうに笑うから」
ルルーシュはスザクと似た表情で、照れ臭そうに微笑んでいた。
完