見切り発車で何が悪い

 一番の先頭車両、前から三つ目の扉。黄色の丸印が決まって毎回の乗車位置であることは、毎朝の習慣でとっくに覚えている。なぜそこなのかというと、学校の最寄り駅の改札近くに扉の位置がくるから。それと、先頭車両は他に比べて乗車率が低く、ちょっと空いている。一度寝坊して他の車両に飛び乗ったとき、ひどい満員電車に遭遇して押し潰された経験を経て以来、決まって先頭車両に乗ることに決めたのだ。
 乗車位置のマークには既に何人か並んでいて、そこに倣うようにして後ろに立つ。朝の冷たい風が音を立てて吹き荒れ、容赦なく開放的なプラットホームに流れ込む。身震いしながらマフラーに鼻先を埋めて、じっと耐える。というか、今はひたすら耐えるしかないのだ。

 ――間もなく電車が参りますので、白線の内側にお下がりください
 駅員のアナウンスと同時に警報音のようなアラームがホームに鳴り響く。嫌というほど外気にさらされるこの場所はとんでもなく寒いが、あの”箱”に入ってしまえばこっちものものだ。あとはぬくぬくとした車内で揺られていれば、目的地に着くのだから。
 この場所で最も冷風にさらされるであろう、列の先頭じゃなくて良かった。と思ったのも束の間、電車が線路にやって来るのと同時に吹く強風に煽られて、髪の毛がぶわりと舞う。制服の上から羽織っていたコートの裾がはためいて、衣服の隙間から侵入した冷気が体を凍らせる。あまりの寒さに体がさらに縮こまる。
 待ちに待ったと言わんばかりに、ようやく到着した電車の扉が開く。行儀よくホームに形成されていた列は扉の向こうへ、順序を崩すことなくぞろぞろと進んでゆく。この国の人たちは順番に並んで待つことが得意らしく、不思議なことにいついかなるときでもその整列を乱すことはない。だからこの少し奇妙な、まるで躾か訓練でも受けたかのような光景は、もはや朝の日常風景のひとつでもあるのだ。
 列がおおかた車内に収まると扉は閉じられ、間もなくして発進する。天井から吹き付けるぬるい風は頬を撫でて、まるで凍りついた体の表面を溶かす。背負っていたリュックは胸の前に抱え、手摺を掴める位置を確保できれば、ひとまずは一安心だ。これから多くの人が乗り降りをするから、流されなければの話だが。

 車内は押し潰されるほどの混雑でもなく、ぐるりと周囲を見渡せば乗客の顔を窺えるくらいゆったりとしている。体をぎゅうぎゅうと押し潰される苦しさは到底ないから、この時間帯のこの車両は穴場とも言える。
 何となしに首を動かして車両全体に視線を動かすと、スザクはその中に見知った顔を見つけた。先頭車両の中でも一番先頭、運転席近くの吊革に掴まっていた。そいつは片手で文庫本を持ち、器用に余っている指先を使ってページを繰る。それはスザクにとって、プラットホームに整列する乗客たちに並ぶくらい、見慣れた朝の日常風景であった。



 初めて見かけたのは高校一年生になったばかりの春の始め、今より半年以上前のことだ。あの日はたまたま、決めていた時間帯より一本早いダイヤの電車に乗れたときだった。前日に寝坊してひどい満員電車に巻き込まれたから、その日は少し早めの時間に家を出たのだ。
 乗車率も朝にしては比較的低く、何より手すりや吊革を持てる位置を確保できる。これから毎日この時間にしたほうがいいかもしれない。これなら、快適な登校時間が約束されたも同然だ。
 そう思いながらなんの気無しに車内を見渡す。すると視界の端に、見慣れない制服の学生がちらりと映った。
(全身黒、学ラン?)

 その後ろ姿は頭から足まで真っ黒で、思わず二度見してしまうほどだった。
 スザクの通う公立高校は可もなく不可もなくごく普通のブレザー制服だ。紺のジャケットに明るめのグレーのスラックス、ジャケットと同じ色味でチェック柄の入ったネクタイを身に着けている。女子も同様のカラーリングで纏められている。
 この沿線では学生はたいてい同じ学校、もしくは近隣の学校の生徒しか利用しているのを見たことがない。全身黒ずくめの制服など、このあたりではそうそう見かけない。何かのコスプレか、そういったファッションだろうか。そう思いかけていたとき、まるで図ったかのように車両が大きく揺れた。
 思わず目の前にあった手すりにしがみついて事なきを得たが、同様に件の黒ずくめの学生も吊革に掴まって体勢を保っていた。傾いた重心が体を揺らしたらしく、その瞬間、首を覆っていた詰め襟の刺繍がちらりと、こちらから見えたのだ。金色のような糸で施されたそれは、桑の葉のような、あるいは熊手のような形をしている。不思議な形をした紋様は校章だろうか。
 結局スザクが降りる駅に着いてもその学生は降りることなく、どこの生徒かは分からなかった。いつも利用するこの沿線で学ランの学生なんて見たことがないから、件の学生の素性が少し気になった。

 だからスザクは学校に着いてから、今朝の話をした。いつもより一本早い電車に乗ったら、頭のてっぺんからつま先まで真っ黒の、男か女かも分からない奴が居て。このあたりでそんな制服の学校は思い当たらない。詰め襟には校章らしき不思議な形のマークがある。それは金色の刺繍で、桑の葉のような形をしている。
「それってアッシュフォードの学生じゃない?」
 話を聞いていた一人が、疑い深そうな面持ちでそう言った。
「アッシュフォード? まさか」
 スザクは苦笑いをしながらその話を受け流そうとした。だってアッシュフォード学園といえば、名門中の名門、日本を代表する私立学園のひとつじゃないか。そんな学生が私鉄を使って通学なんかするもんか。親の持つ外車で毎朝送迎してもらうのが関の山だろう。そう言って笑い飛ばそうとした。
 だが別の一人が手元の携帯端末でアッシュフォードの制服を検索していたらしく、スザクにほら見て!と叫んで液晶画面をこれでもかと向けてくる。そこにはアッシュフォードの公式ホームページに掲載された、高等部の男子生徒用の制服が紹介されてあった。
「これは……」
 黒地に金の刺繍やボタンが施された詰め襟の上着に、黒のベルト、黒のスラックス。背面から見れば確かに首から足先まで黒一色で、今朝スザクが見た学生の後ろ姿と記憶が重なる。ということはあの生徒は男だったのだろう。
「アッシュフォードのお坊っちゃんが私鉄通学?」
「送迎車のタイヤがパンクしてたんじゃね? あはは」
 みな一様に何かの冗談か今日一日限りの偶然か、あるいは見間違いだと囃し立てた。しかし今朝あの車内で見かけた後ろ姿は寝ぼけて見えた幻覚でもなく、人が折り重なる混雑でもなかったから見間違いでもない。しかしアッシュフォードに通うような人間が私鉄通学というのも、俄に信じられない事実だった。


 私立アッシュフォード学園といえば、日本の首都に建てられた歴史ある名門校だ。初等部から高等部まであり、エスカレーター式で進級できるマンモス校だ。数多くの官僚や大手企業の社長、軍部の最高指揮官だったり、あるいはいま世界をときめく音楽家や脚本家、アーティスト、スポーツ選手だったり、挙げていればきりがないほどの有名人、著名人を数多輩出している。それほどの高度で質の高い教育を受けることができるのだろう。アッシュフォード学園卒、という学歴があるだけで名誉だと言われるほどだ。

 そうしてもうひとつ、この学園の特徴といえば自由で寛容なスクールカラーだ。国籍や出自、人種、貧富や階級を問わず、ここで学びたい意志ある学生を拒まず平等に受け入れる。だから日本人だけでなく、多くの外国人も入学を希望し、世界中から試験を受けに来るらしい。
 となると必然的に競争率、つまり入学に必要な学力および偏差値は高まる一方だ。どうしてもアッシュフォードへ入学させたい親は子供に幼い頃から英才教育を施させ、高い金を払って家庭教師だのを雇い、予備校やスクールに通わせる。いかにして時間、それ以上に莫大な投資を子供にかけるかが物を言うようになるのだ。
 するとどうなるかと言うと、アッシュフォードへ入学する学生の多くは金持ちの家庭、もしくは、生まれつき地頭がすこぶる良い者しか居なくなる。今や社長令嬢や地主の息子、官僚の娘が当たり前のように通うその学園は、名目上自由と寛容をスクールカラーにしているものの、実質的には金持ちの家の子供しか通えない、皮肉にもお高い学校として有名になってしまった。


 そんな学校の生徒が私鉄の満員電車に毎朝揺られるはずがないと、スザクも含めて一同笑い飛ばした。公立校に通う一介の生徒ならまだしも、だ。その証拠にスザク自身、あの制服を身に纏った学生を電車で初めて見た。きっとあの男にはこの日、満員電車に揺られねばならない、のっぴきならない事情があったのだろう。そう思うことにして、今朝の出来事は忘れることにした。


 しかし翌朝だ。昨日と同じ、一本早い電車に乗り込むと、まるで全身黒ずくめの学生が車内に突っ立っていたのだ。
 昨日は運転席近くの吊革に掴まっていたように思う。しかし今朝はスザクが乗車した反対側の扉に体の側面を凭れさせるようにして、やはり文庫本を片手に持っている。昨日より圧倒的に近い距離だから確信して言える。自分の見間違いでも幻覚でも寝ぼけているわけでもなく、彼は紛うことなくアッシュフォード学園の生徒だ。
 しかも今回は後ろ姿でなく体を横に向けていたから、その横顔がくっきり見えた。顔の中心を通る鼻筋は高く、顎のラインはシャープですっきりした顔立ちをしているらしい。控えめに表現しても、よっぽどの美形の部類に入るであろう。人の美醜に疎く関心の薄かったスザクの目から見ても、そう断言できる。男としてもはや悔しいとか妬ましいという感情すら起こらないほど、圧倒的に美しい顔の造形であった。
 あまりじろじろ見ては勘付かれるし、失礼だと思った。スザクは彼の立つ反対側の扉の前に立ち、背中を向けるようにして顔を背けた。

 ほどなくして目的地である、学校の最寄り駅に電車は止まる。目の前の扉が開いて駅へ降りる直前、一瞬だけ背後に視線を配る。全身黒ずくめの学生は依然として文庫本を片手に、体は開かない扉へ預けられている。長い黒髪は頬を覆い、その風貌の多くをスザクの目から隠すかのようだった。

 その日の次も、その次の次も、週が変わった次の朝も、その男はスザクが乗る車両に立っていた。立つ位置は日ごと異なっていたが、先頭車両の中でも比較的立つ人の少ない場所を男は陣取る。吊革を持っていたり、手すりに体を預けていたり、だらしなく運転室の扉に凭れていたり、それは毎朝様々だった。しかしひとつ決まっていたのは、必ずこの時間帯のダイヤの、しかも先頭車両に、この男が乗車しているということだ。

 あちらはスザクのことを認識しているか定かでないが、スザクにとってはこのダイヤに変えてから一番最初に顔を覚えた常連乗客の一人である。スザクにとって彼は顔見知りであるが、同じ電車に乗っているというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。どちらかがダイヤを変えれば切れてしまう、奇妙で希薄な縁だ。
(いつも何を読んでるんだろう)
 毎朝必ず彼の手の中に収まっている文庫本には、本屋で購入するときに付けてもらえる紙のカバーが被せられている。スザクはカバーも帯も捨ててしまうタイプだが、彼は捨てずに購入時の状態で置いておくタイプなのだろうか。あるいは几帳面で綺麗好きだから、表紙にカバーをかけてあるのかもしれない。
 そんな取り留めのないことをぼんやり考ええいると、もう最寄り駅に着いてしまった。スザクは降り過ごさないうちにホームへ出て、ちらりと車内を振り返る。相変わらず捲られた本から視線一つ外さず佇む男は、まるで立つだけで絵になるようだった。


 麗らかな春の季節も少し過ぎた頃になると、制服もそろそろ衣替えの時期にさしかかる。その日からさっそく半袖のシャツに替えたスザクは、ついでに気分転換にと音楽プレーヤーとイヤホンを通学鞄に詰め込んだ。
 これまで短い通学中の車内では本読みやスマホ弄り、ゲームや単語帳を眺めたりなど、これといった暇潰しをしていなかった。だから何となしに学校の友人のアドバイスを受け、まずは音楽を聴いてみようと思った次第である。
 電車が来るまでのプラットホームでの待ち時間の間、好きな曲で構成されたフォルダを開いて、耳にイヤホンを差す。いつもの憂鬱で気だるい朝がなんだか少し、非日常的に思える。もちろん音楽はテンションの上がるような、アップテンポで明るい曲調ばかりを選んだ。

 いつもどおりやってきた車内に乗り込んで、適当な位置を陣取る。お気に入りの曲が再生され始めると、思わず鼻歌が漏れそうになって、なんとか堪えることができた。
「……?」
 だが車両に乗り込んだ直後、スザクはある違和感を覚えた。既に乗車していた人たちがちらちらと、こちらに視線を向けるのだ。それは可笑しいものを見るような好奇の視線というより、何かを咎めるような突き刺さる視線だった。
 思わず自らの全身を見回してみるが、とくに変哲はないはずだ。窓ガラスに映る自分の顔もいつもと変わらないし、なのに周囲の人はじろじろとこちらを見てくることを憚らない。
 言いようのない居心地の悪さを感じていると、肩をトントン、と軽く叩かれる感触がした。思わず振り返ろうとしたタイミングで、聞き慣れない小さな声が、イヤホンから流れる音楽を遮る。
「あの、音漏れしてますよ」
「……えっ、あ」
 思わずプレーヤーの電源ごと切って、耳にあったイヤホンを抜き取る。音漏れをしていたという事実にも恥じ入ったが、それと同じくらい、背後から声をかけてきた人物に、スザクは目を丸くした。
「えと、す、すみません」
「こちらこそ」
 薄く口元に笑みを浮かべて人好きのする表情を作った男は、ちらりとスザクの顔色を窺った。初対面同然の相手に指摘をされて、怒ったり機嫌を悪くしていないか観察されている。そんな逆ギレをするはずがなく、むしろ指摘をしてくれた勇気ある行動に感謝したいくらいなのだが。
「……」
 彼は頭を軽く下げて、反対側の扉にある手すりの方へ体を向けてしまった。指摘してくれて有難う、君のお陰でこれ以上に恥をかかなくて済んだよ。せめてそれくらいのことは言いたかったのに、驚きと緊張で何も言い出せなかった。
 この二ヶ月弱の間、毎朝その男の姿を見かけていた。そうして今しがた初めて声を聞いて、真正面から顔を見た。深い紫色の瞳をした、色の白い小奇麗な風貌だった。声は深く低く、しかし優しい音だった。
 名前も年も趣味も在住地も知らないのに、だからこそ、とてつもなく興味が湧いた。


「目の前で生徒手帳でも落としてさ、届けてもらうのはどう?」
「ハイリスク過ぎない?」
「体調不良の振りして倒れたらいーじゃん」
「迷惑かかるよ」
 この話をクラスメイトに打ち明けた日の放課後、突如開かれた相談会は題して”どうやったら友達になれるかな?”という半分冗談のようなものだった。ちなみに残りの半分は本気である。
 今朝の一連の出来事、イヤホンをして音楽を聴いていたら恥ずかしいことに音漏れをしていた挙句、それを同じ車両に同乗していたアッシュフォード学園の男子生徒に指摘された。しかもその男子生徒はスザクの目から見てもすこぶる美形で声も格好いい。ぜひお友達になって、あわよくば可愛い女の子の一人や二人、紹介してもらいたい。
「イケメンの周りには自然と可愛い女の子が集まるもんだしな。お溢れ狙いならアリかも」
「しかもアッシュフォードだろ? 金持ちのお嬢様とお知り合いになれるチャンスじゃん」
「男ってやっぱサイテー!」
 打算的な男子生徒らの意見に、女子たちは非難轟々だ。だが逆の立場になれば女子だって人のことが言えないのは目に見えている。
「昨日は指摘してくれて有難う、って話しかけるのが無難かもな」
 誰かの提案に、その場のみなが一様に頷く。確かにその第一声なら角が立たず、不自然ではないだろう。ついでに言えなかった礼も話せるし、一石二鳥だ。
「もし仲良くなれたら、ウチらにも連絡先教えてよ」
「えー、ロクなことに巻き込まれなさそうだからやだな」
 女子だって男子以上に打算的で、どこか陰湿だったりする。君たちだって人のこと言えないじゃないか、と心の何処かで毒づいた。


 その男はスザクの言葉を聞いた瞬間、ひどく驚いた。否、スザクに声をかけられたこと自体に大層驚愕している。こちらの顔を見開いた目でじっと見つめてくるのだから、きっとそうに違いない。
 むしろ怯えられているのではないか。自分は非常識なことをしているんではないか。いっそそう思えてくるほど、彼の反応は素っ気無くて。
「だからその、昨日は指摘してくれて有難う」
「あ、ああ……」
 おっかなびっくりといった態度の男はおずおずと頷いて、視線を彷徨わせた。紫の目はこちらを一向に見ようともしない。
 そんな顔をされるとこちらまで気まずくなってしまうじゃないか。なんだか思っていた展開とは違う雰囲気に、スザクは話しかけたことにすら後悔の念を抱き始める。

 昨日の放課後、友人らに持ちかけた相談の結果、件の男には謝罪と礼をする名目でこちらから声をかけてお近づきになろう、という作戦で話は纏まった。これならごく自然に話しかけられるし、いくら初対面同然でも変に思われないはずだ。
 クラスメイトからそうお墨付きを貰えた作戦をいざ実行すべく、スザクは定刻通りの電車へ、意気揚々と乗る。そして予想通り今回も乗り合わせたあの男にとうとう。やっと。ついに。初めてこちらから声をかけたのだ。記念すべき第一歩である。
「ちゃんとお礼、言えてなかったから」
「別に、気にしなくても……」
 スザクが矢継ぎ早に言葉をかけると、彼は少し困ったような、気まずいような表情を浮かべる。
 人見知りなのか、シャイなのか、口下手なのか。昨日は愛想笑いを浮かべて声を掛けてくれたから、その余所余所しい反応は意外だった。もっと気さくに話をしてくれる人だと、勝手な想像をしていたからだ。
「ご、ごめん。急に話しかけたりして……」
 相変わらず困ったように視線を惑わす彼に、スザクは思わずそう言ってしまった。こんなことを話したくて声を掛けたわけじゃないのに。

「いや、そうじゃない。そうじゃなくて」
 俯きかけたスザクの頭に、慌てたような男の声が被さった。落ち着いた声にはどこか上擦ったような、焦りが滲む。
「お前いつも、俺のことじろじろ見てただろ」
「えっ」
 じろじろ見てた、なんて表現はあまりに心外だし、いくらスザクだって傷つく。今朝も乗っているのだろうかと車内を見回したり、降車の際に振り返ってみたりするだけだ。決してじろじろなんて、見ていない。いないはずだ。
「だから変な奴だと思って、あまり関わらないほうが良いかと、」
「……はあ?」
「思って……ふふっ」
 呆然とするスザクの顔を見た彼は思わず吹き出して、くつくつと笑い声を堪えた。が、堪えきれずに漏れる笑い声だったり、しきりに震える肩だったり、愉快そうに歪む表情はどう見たって、隠す気がない。まるでスザクを馬鹿にするみたいに、彼は顔を抑えてふるふると震えていた。あまりの面白さに耐えきれないらしい。
「っふふ、すまない、つい」
「つい、なんだよ」
「思ったより、まともそうで……」
 どうやら正常な一般人とすら思われていなかったらしい。ひどすぎる印象にスザクは堪らずかぶりを振った。
「ひどいな! ていうかじろじろ見てなんか、」
「見てたろ。あれは俺と友達になりたそうにしてたんだなあ」
 顎に手を宛てがってニヤニヤと笑う表情はどこまでも嫌味ったらしく、心底腹が立つ。

 友達になりたいとか、そういうんじゃない。普段見ない制服だったからどこの学校の生徒だろうとか、やけに整った綺麗な顔をして目立つなあとか、そんなことを思っていただけだ。もし彼とお近づきになれたら可愛い女の子の一人や二人、知り合えたりするかもしれないとは心の隅で考えたことも、なくはないが。
「ほら、着いたぞ」
 そう言われて顔を上げると、スザクがいつも降車している駅名の看板が、窓の向こうから見える。まさか覚えられていたとは思いもせず、呆気にとられていると、背中を軽く押される。
 不意な背後からの力に体が傾くと、同時に発車のアラームが鳴り響く。転げそうになる体勢を何とか立て直して、慌てて車両から降りるのと扉が閉まるのはほぼ同時だった。咄嗟に振り返るとすでに電車は走り出そうとしていて、あの男の姿はもう見えない。
 ぬるく湿気た空気は梅雨の訪れを予感させる。走り出した電車は止まることなく加速して、生温かい強風がホームを撫でた。やがて肉眼でも見えなくなる電車の最後尾を、スザクはぼんやりと眺め続けた。


 ことの顛末、今朝の出来事を嘘偽りなく披露すると、事情を知っていた生徒も知らない生徒もどっと笑い声を上げた。それもそうだろう。見ず知らずの初対面同然の学生から、つい昨日までおかしな奴だと思われていたなんて、笑い話にしかならない。
「枢木お前、変態の不審者って思われてたのかよ」
「しかも相手男だし、ホモ野郎って思われててもおかしくないって!」
「通報されずに済んで良かったね、あはは」
 散々な言われようである。今回のことは不覚であるが、落ち度が全くなかったわけじゃない。じろじろとまではいかないが、たまにちらりと視界の端で、あの男の様子を窺ったことは稀にあった。それを悪く捉えられてしまったのだ。
「もっと良い印象を持ってもらえるように努めるよ」
「おっ頑張れよ」
「仲良くなれたらウチの学祭に呼んで紹介してよ」
 彼を学園祭に呼んで、来てもらう。なんだか本当に仲の良い友達みたいだ。
 そこまであの男と親密になれるかどうか、正直スザクには自信がない。ただでさえ今朝まで悪い印象を持たれていたのに、そこから巻き返せるのかどうかも危うい。
 まだ数言しか会話を交わしていないが恐らく、あの男は一筋縄ではいかない性格であろう。記憶に新しい、あの嫌味っぽい下衆な笑い顔から想像するにきっと違いない。
 男子からの生暖かい声援と、絶対学祭に招待してこいよ、という女子からの圧力を受け、スザクは苦笑いする他なかった。まずは彼の名前を知るところから始めねばならない。


 おはよう、とまるで教室のクラスメイトに接するような軽いトーンで肩を叩いてみる。今日は背中を向けて吊革を掴んでいたから、背後から声を掛けざるを得ないのだ。
「……おはよう…?」
 とくに彼はスザクの様子に驚くでもなく、ただただ困惑した面持ちで顔を上げる。吊革を持っていないほうの手にはやはり文庫本が収まっていて、それを読んでいたらしい。
「何読んでるの?」
「は……? え?」
「いつも本読んでるだろ」
「え? ああ……」
 目を瞬かせる彼は不思議そうにスザクの顔と手元の本を交互に見遣って、躊躇いがちに答えた。
「読書課題の本だ」
「へえ、面白い?」
「別に……」
 もうお前の相手をするのは飽きたと言わんばかりに、彼は素っ気無く口を閉ざした。そして定まらなかった視線は再び、本の表面に印字された文字をなぞる。
「ねえ」
「……何なんだ」
「うーんと、何言おうとしたんだっけ」
「……」
「無視しないでくれよ」
 まるで相手にすらされない。
 スザクが拗ねたように男の顔を覗き込むと、彼は不機嫌な表情を見せた。
「お前、名前も知らない相手に、よくそこまで馴れ馴れしくできるな」
「じゃあ名前教えてよ」
「……」
 男は言葉を失ったように、スザクの顔を見つめた。まるで信じられないという面持ちで、文字通り絶句している。
「嫌味言われてるって、分からないのか」
「嫌味?」
 きょとんとして首を傾げると、男は苦虫を噛み潰したような顰め面を浮かべた。

 なんとも言えない、まんじりとしない雰囲気になったところで、車内にアナウンスが流れる。それはスザクがいつも降りる駅名を報せるもので、すでに電車は減速し始めていた。
「ねえ、名前は」
 電車が止まると、慣性の法則で車内は進行方向に大きく揺れる。なんとか彼の肩にぶつかずに踏み止まると、扉は間もなくして開かれる。同じく駅の利用者らは次々と車内から姿を消してゆく。
 教えてよ。名前も知らない相手にって、君が言ったくせに。
 そう告げると、やがて扉が閉まる警報音が鳴り響いた。
 もう行かないといけない。後ろ髪を引かれる思いでその場から遠ざかろうとすると、背後から声がした。
「ルルーシュだ」

 振り返ろうとした瞬間、扉は無慈悲に閉じられる。ホームの白線上で突っ立っていたスザクは、窓の向こうにいる男の顔を、呆然と見つめていた。ほんの少しだけ目が合ったと思ったが、まるでそれはお前の気のせいだと言わんばかりに、電車は間も置かず動き出す。同時にふい、と逸らされた顔はもうこちらを見ることもなければ、あっという間に姿すら見えなくなる。白線の内側をご通行ください、というけたたましいアナウンスも耳に入らなかった。


 ルルーシュ、おはよう。
 扉に凭れかかる横顔にそう挨拶すると、男は気怠げにおはよう、と小声で返した。どうやらどんなに億劫でもどんな相手にでも、挨拶だけは絶対に無視できないらしい。それが彼の育ちの良さがそうさせるのか、根は生真面目で律儀だからなのかは、まだ分からない。これから知れたらいいなと思えた。
「僕はスザクっていうんだ」
「……聞いた覚えはない」
「呼ぶとき困るだろ?」
 相変わらず態度は素っ気無く、無愛想だ。
 初めて声を掛けたときのような笑い顔をもう、一度見せてくれることはないのだろうか。つんけんした言動に、仲良くなりたい一心の健気な精神が挫けそうになる。
「そういえば君は何年? 僕は高一なんだけど、」
「……高一?」
 意外そうに瞬いた紫が、またたく間に怪しいものを見るかのように細められる。疑問の声はスザクの話を遮った。
「中学生じゃなかったのか、お前」
「ちゅ、中学……」
 衝撃の発言に後頭部を殴られたような痛みが走る。いくら冗談でもそれはあんまりだ。
「俺と同い年なのか」
 あまりにショック過ぎて、彼と同学年という偶然の感動もたちまち立ち消えそうだ。
「僕のどこが中学生なんだ」
「そういうところがだろ……って、おい、近い」
 じっと顔を覗き込むと、男は咄嗟に顔を背ける。その余裕のない反応が少し愉快で、逸らされ続ける視線をふざけて追いかけてみた。
 するとどうだろう。彼は不機嫌な表情を貼り付けながら、頬をほんの僅かに染めていた。
「あ、照れてる」
「照れてない」
 今までにないくらいの清々しい即答っぷりだ。思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「……照れてなんか、」
「あ、着いちゃった」
「……」
 彼の表情から視線を外し窓の向こうへ向けると、見知った駅名の看板が見えた。束の間の朝の時間は、今日はここまでらしい。
 何か言いかけていたらしい彼の言葉を遮って、スザクは行ってくるね、とだけ声を掛けて、あっさりと降車した。閉じられた扉越しに手を振ってみるが、こちらを見ようともしない男は唇を尖らせて、何やら機嫌が良くないように見える。

(こうして見ると案外、ルルーシュって表情豊かだな)
 どこか見当違いなことを考えながら、スザクは過ぎ去る列車の後ろ姿をぼんやり眺める。昨日は名前を、今日は学年を、年齢を知ることができた。明日は果たしてどんな一面を見せてくれるだろう。
 空はどんよりした鼠色の雲が覆って、間もなくやってくるであろう梅雨の訪れを報せていた。


「ルルーシュ、おはよう」
「……おはよう」
 吊革を持つ横顔を覗き込んでそう言葉をかけると、彼も挨拶を返してくれた。やっぱりなんだかんだで挨拶だけは、彼は絶対に無視をしない。打てば響くように必ず返ってくる言葉に、ほんの少し嬉しい気持ちになる。
「今日から君も衣替えなんだね」
 昨日までは長袖のカッターシャツを身に着けていた彼も、とうとう今朝は半袖の薄いシャツを着ることにしたらしい。
 変わったことと言えばそれだけでない。
「朝から雨ってやだなあ」
 窓を叩く小ぶりな雫を見上げながら、スザクは独り言のように呟く。それを聞き入れた隣の彼も、ああ、と頷きながら嘆息した。二人の手にはびっしょり濡れたジャンプ傘が握られていて、おまけにスラックスの裾や靴も濡れている。

 全国では短いようで長い梅雨が始まったとかで、早速今朝からしとしとと静かな雨の音が街に響いていた。そのせいか電車も普段に比べて混んでいるような気がして、余計に気が滅入る。
 無言の横顔をちらりと盗み見る。艷やかな黒髪はこの湿気にもどうということないようで、さらりとしたストレートを保っている。スザクはくるくるとうねる頭髪に毎朝苦しめられているから、湿気知らずの細い直毛が心底羨ましい。
「なんだ?」
 スザクの視線に気がついていたのか、前を向いていた紫が不意に流し目で睨みを利かせた。
「いや、細くて綺麗だなって」
 髪の毛が。
 そう言おうとした瞬間、スザクの発言を受けた男が大きく身じろいだ。
「着痩せするほうだから、その、あまり見ないでくれ」
 吊革に伸びる腕が居心地悪そうに揺れて、彼は肩を縮こめた。
 糊のきいた真っ白のシャツは彼の細身を心許なく覆っていた。薄手の袖から見える腕は日焼けを知らないと思えるほど白く、手は細くて頼りない。指先まで繊細な作りをしていて、桜色の爪は薄明るい車内の照明を反射して艶々と輝く。おおよそ自分の体とは正反対の造形だと、スザクはそれを静かに見つめた。
「そう? 白くて綺麗だと思うよ」
「……」
 はずみで口から転がり落ちた言葉は到底男友達にかける形容詞ではないだろうが、スザクがそれに気づくことはない。純粋に思ったことを口にしただけだ。
「あと僕が言おうとしたのは君の髪の毛のことだよ」
 そう言いながら、濡れ羽色の毛束を指で掬ってみた。するりと指通りの良いそれはしなやかで、何となくいい匂いもする。
「僕はほら、湿気でさ」
 自分の髪の毛を摘まんで見せてやる。湿気でごわごわとうねった頭髪はどう整えようと言う事を聞かないから、毎朝鏡の前で格闘する羽目になる。寝癖か寝起きのように思われて恥をかいたことが、これまでに幾度となく経験してきたからだ。
「ルルーシュ?」
「……いや」
 彼は俯いたままびくともせず、言葉を発しない。そんないつにない様子に目敏く気づいたスザクは思わず声を掛けた。
「最初、ただの嫌味かと思ったんだ」
 男はちらりと視線を上げると、吊革に伸びるスザクの腕を見た。主語を敢えて言及しない物言いは一見して分かりづらいが、視線の先にあるものから察する。
「お前誰にでもそういうことを言うのか」
「誰にでもってわけじゃ……」
 黒髪の合間から見える白い耳がほんのり赤くなるのを見た。
「……あ、着いたみたいだ」
 いつもの駅に電車が止まって、扉が開く。外は相変わらず雨が降り続いていて、降車するのも億劫になる。
「じゃあ、また明日」
「ふん」
 ぷい、と明後日の方向へ顔を背けた彼はわざとらしく無愛想な仕草をしてみせる。襟足の間から見える首筋はほんのり赤いままで、ああ照れ隠しか、とようやく不機嫌な言動の理由が腑に落ちた。

 傘を差して駅へ降りると、電車はもう既に発車し始めていて、顔を合わせることすらできなかった。否、あえて彼は顔を隠していた。
 一昨日は名前を教えてくれて、昨日は学年を知れて。そして今日発見したことといえば、肌が白い人は赤くなると大層分かりやすいという、他人には説明しづらい彼の一面だった。


 最近どーなのよ? とニヤニヤ卑しい笑みを湛えた男に、肘で小突かれる。何のこと? とわざとらしくとぼけてみせると、またまたあ、なんて冷やかされた。まるで新しくできた彼女との進展を探ってくるかのような下世話さだ。無論、今のスザクには新しい彼女どころか、恋人すら最近はまともに作っていないけれど。
「アッシュフォードのイケメン君のことに決まってんじゃん」
 他の友人らもその話題に便乗するように、わいわいとスザクを囲んだ。え~と、うーん、なんて言葉を濁して躱そうと試みるが、そう簡単に彼らの興味が失せることはない。

 ぱらつく雨は勢いこそないものの、降ったり止んだりを繰り返していてどうもすっきりしない天気だ。梅雨に入って二週間はとうに過ぎ、この鬱陶しい時期も終盤に差し掛かっている。
 ルルーシュとは相変わらず毎朝同じ車両で顔を合わせては、他愛ない会話をぽつぽつと続けているくらいの関係だ。お互い示し合わせたわけでもなく、たまたま偶然、同じ時間の同じ車両に乗り合わせるだけ。この奇妙な日課と化した日常を、彼はどう思っているのだろう。退屈な通学時間の暇潰し相手、とでも自分は位置付けられているだろうか。
「夏休み終わったらすぐ文化祭だし、早くアタックしとけって」
「アタックも何も、男相手なんだけど?」
 スザクは友人の冗談に苦笑しつつ、そう返してやった。
 彼はスザクと同性の、れっきとした男だ。どこか中性的にも見える顔立ちや体躯を抜きにしても、いくらかの有名なアッシュフォード学園の生徒とはいえ、スザクとは同い年の、ごく普通の男子高校生だ。ここでいう普通、というのは出自や経歴、家庭環境や教育水準といった、彼を取り巻く環境のことではない。彼自身の心根、人当たりや言動がスザクら高校生と何ら変わらない。
 確かに話していても、頭の回転だったり、言葉の引き出しだったり、思い付きの冗談だったり、そういうところに教養の差のようなものを感じることはある。でも彼は自分より頭の悪い人間相手にでも案外気さくに、色んな話をしてくれる。体の線が出やすい夏服は苦手だとか、課題が終わらなくて徹夜をしたとか、よくある話を彼は毎朝零す。
「案外僕らと中身は何にも変わらない、普通の高校生だよ」
 あのアッシュフォードに通う生徒って、どんな奴なんだろう。ボンボンのくせにわざわざ私鉄を使うなんて、そうとう嫌味な奴か物好きに決まってる。目鼻立ちは整っているから、とてつもなく女癖が悪いのかもしれない。
「普通って?」
「授業フケって怒られるとか、スマホ没収されるとか」
「えー、それマジ?」
「授業中寝すぎて廊下に立たされたこともあったって、言ってたような」
 公立高校に通うスザクたちのように、毎日の提出物だけ適当にこなして、あとは遊んでいるだけの学校生活とは程遠い、朝から晩まで勉強漬けの日々を送っている可能性もある。とても詰まらなくて退屈で、でもそんな毎日を退屈だと思わないくらい生真面目な奴ばっかりが通うのだろうか。
 そんなステレオタイプのイメージが先行していて、だからこそスザクは彼に興味が沸いた。アッシュフォード学園とかいう金持ちと頭の良い奴しか入れない学校に通う学生が、どうして通学に電車を使うんだ、と。
「すっごく普通の人なんだ、がっかりしちゃうくらい」
 そんな悪意に限りなく近い好奇心で彼へ声を掛けたことに、スザクは今になって、恥ずかしく思うようになった。

 彼を初めて見たとき、その好奇心が悪意だとは微塵も思わなかった。せいぜい話のネタか、うわべだけの友達になれたら可愛い女の子を紹介してもらおう、とすら考えていた。容姿の優れた友人が一人居るだけで交友関係は大きく広がるから、できたら仲良くなれたらいいなと思う程度だった。
 しかしスザクの予想はいい意味で大きく裏切られ、そんな下らない損得勘定抜きに、彼ともっと仲良くなりたいと思うようになった。毎朝の短い時間の間で、知らない表情や仕草をスザクに見せてくれる。最初はつんけんしていた態度も最近ではずいぶん軟化し始めていたし、よく笑うようになった。てんで懐かなかった野生の猫が、まるで尻尾を振ってくれたみたいだ。彼の魅力を裏付ける手掛かりは毎日更新され、スザクがルルーシュに夢中になるのは時間の問題だった。



 おはよう、と声を掛けると間も置かずに返事が返ってくるようになったのは、梅雨明け宣言がされて数日経ってからのことだった。心なしかスザクがいつも乗ってくる扉の近くに彼は立つようになった気も、しなくはない。
「あのさ、話があるんだけど」
「……なんだ、急に改まって」
 電車の走行音にかき消されそうなほど小さな声で、彼の耳元にそっと囁いた。
 四月に初めて言葉を交わして、幾か月。一日に共有する時間は数分こそすれ、毎日こつこつ積み重ねるごとく通学時間を共にしてきた。最初は顔を覗くだけで近いだの言われていたのに、今ではこんなに近づいてもとくに文句らしい文句は浴びせられない。ずいぶんと緩んだ警戒心と軟化した態度に、今なら行ける、とスザクは心の底で確信していた。
「夏休み明けたらすぐのことでさ」
「……ああ」
「うちの文化祭があるんだけど」
「うん」
「良かったら、来てほしいなって」
「ああ、うん」
「うちの文化祭なんて、アッシュフォードのに比べたら……って、あれ?」
「それだけか?」
 首を傾げて訝しむ男に、スザクも思わず首を傾げて不思議そうな顔をした。
「てっきり断られるかと」
「なぜ?」
 なんでって、とスザクは思わず口ごもった。
 私立のアッシュフォードの文化祭に比べたら当然見劣りするだろうし、彼にとったら大層下らなくてつまらない。別に友達でもない奴のために貴重な休日を使うのも憚られるだろう。時間の無駄とでも思われるかもしれない。
 そんな本音は到底口に出せず、何となくそう思っただけ、と曖昧な言葉で茶を濁した。
「じゃあさ明日、連絡先教えてよ」
 はやる気持ちを抑えてなんとか切り出した一言はいつになく早口になってしまって、格好悪い。どうか心中を見透かされていませんように、と瞬く紫に祈るような気持ちになる。
「……すまない。明日は別のダイヤなんだ」
「え」
 手すりを握る白い手がぎこちなく、気まずそうに揺れる。
「終業式だから、登校時間がいつもと違うんだ。だからお前と次に会うのは、夏休み明け」
 うそ、と思わず喉から出た声は、電車の停車音に紛れて消えた。
「もう着いてるだろ。早く行け、馬鹿」

 無理やり追い出される形で駅に降り立ったスザクは、扉の窓ガラス越しに、困ったように微笑むルルーシュの顔を見た。なんでそういう大事なことを先に言ってくれないんだよ、と睨むと、スザクの糾弾から逃げるように電車は発車した。
 そうやって喜ばせておいて、自分は何も言わずにどっか行っちゃうなんて狡い。我ながら子供っぽい考え方だと自嘲しつつ、まるで置いてけぼりにされたような寂しさを感じた。
 持て余された感情を拭う術を、スザクはこれから先も探しあぐねる羽目となる。



 幾度目かの溜息を零すと、周囲に居た友人らも流石に苦笑いを浮かべて顔を見合わせていた。
「枢木がイケメン君に本気で惚れちゃってどーすんの」
「ミイラ取りがミイラに、ってやつ?」
 彼らはスザクの様子を茶化したが、当の本人にその声は全くもって届かない。
 結局連絡先を聞けなかったのは一番の失態だった。彼の手掛かりを掴めないまま、これから一か月も会えないとなると、もしかするとだ。もしかすると、今朝の遣り取りが彼との最後の別れになるかもしれないのだ。新学期から行事の準備だったり時間割の変更が突然あったり、委員会活動だったり、イレギュラーな事態が訪れたらもう二度と会えなくなる。
「新学期はアッシュフォードの制服着た美人との出会いがあるかもしれないだろ!」
 なんてな、と笑う級友はスザクの些細な悩みを吹き飛ばすように、思い切り背中を叩いた。

 でも彼は、次に会うのは夏休み明けだと言っていた。ということはまた同じ時間、同じ車両でひと月ぶりの邂逅を果たせるのだろうか。
 せっかく仲良くなれたと思ったのに、もうお別れなんてあんまりだ。スザクが知っている彼にまつわることと言えば、名前と学校と、年齢くらいだ。これからもっともっと知っていきたいし、自分のことも知ってほしい。



 やきもきしながら迎えた夏休みは例年に比べて、過ぎ去るのがずっと遅く感じた。いつもなら剛速球で駆け抜けてゆく一か月が、今年に限って一日一日がとてつもなくじれったい。学校に行くのはとてつもなく億劫だが、早く新学期が始まってしまって彼に会いたいという矛盾に、じわじわと胸を締め付けられた。


 スザクの杞憂を嘲笑うかのごとく高く高く昇った太陽は頭上を照らし、残暑の気配を色濃く残していた。
 待ちに待ったというか、とうとう始まってしまったと言うべきか。高校に入学して初めての夏休みが終わり、今日からはようやっと新学期のスタートという記念すべき日だ。
 心配していたダイヤ改正も行われず、夏休み前に乗っていた電車にひと月ぶりに乗り込む。見知った顔を探すため、即座に車内をぐるりと見回そうとしたが、わざわざ姿を探す間もなかった。
「お、おはようルルーシュ」
 彼は乗降扉の傍にある手すりに、体をくったりと凭れさせるようにして突っ立っていたからだ。ひと月前の言葉どおり、本当に夏休みが明けたら会うことができた。嬉しさと謎の感動で何から話せばいいか分からなかったが、ひとまずいつもの癖でおはよう、と声を掛けた。
「……はよう」
 項垂れた頭部から長い前髪が垂れ下がっていて、その隙間には滲んだ紫色が見える。
「ルルーシュ?」
 どことなくぐったりしているような、それでいて目には生気がない。まるで体に力が入らないとでもいうようだ。四肢はだらりと垂れてしまって、壁を支えにしてなんとか立っている、ように見える。
「もしかして、体調悪い?」
「別に……」
 明らかな嘘だ。嘘をつくにしてもあまりに下手で、火を見るより明らかだ。
 彼はこちらを依然として見ない。見ない、というより見れないと表現するほうが正しい。顔を上げて直立することすらままならないのだろう。車内の座席はどこも埋まっている。
「次の駅で一旦降りたほうがいい。僕も付き添うから」
「余計な世話だ」
「そんな顔色で言われたら強がりには聞こえないよ」
 ルルーシュはその一言で下唇を噛み締めるように、それきり黙り込んでしまった。

 ――まもなく駅に到着します、お降りの方は……
 ややあって車内にアナウンスが流れると、スザクは力のない腕を引いて扉の前に立つ。すでに抵抗する気も失せたか、あるいはその気力も残されていないのか、ルルーシュは黙って従っていた。



「どうして今日、休まなかったの」
「……」
 蒼白の顔を覗き込むと尋常じゃないほどの発汗がみられ、呼吸も心なしか不規則なように思える。こめかみを伝う大粒の汗は涙を流しているようにも見えて、とても苦しそうだった。
 いつもは利用しない駅に二人で降り立って、まずは待合室を探した。あそこなら座れる場所もあって、何より冷房がよく効いている。車内の生ぬるい冷風の元で立ちっぱなしでいるより、よっぽど体が休まるだろう。
 そうして見つけた待合室に足元が覚束ないルルーシュを押し込んで、今に至る。
 大量に発汗している状態で冷たい風に当たると体を冷やしてしまうだろうから、じっとり濡れた額や首元を適当に拭いてやる。最初は鬱陶しそうにされたが、じっとして、ときつく言ってやると途端に大人しくなる。その様子はまるで隠し事が見つかってしまった子供みたいだ。

「熱中症かな。僕の水で良かったらあげるよ」
「……いい」
「何言ってるんだ、飲まないと」
 思わず語気を強めて、未だ虚勢を張ろうとする男に詰め寄る。虚ろな紫は焦点こそ合わないものの、ゆらゆらと揺れてスザクの顔を見据えようとしていた。
「気分が悪いんだ」
 そんなの、今の君を見れば言われなくたって分かる。
 そう言おうとしたが結局それは口から出ず、代わりに違う言葉が喉をついて出た。
「どうして今日、休まなかったの」
 丸まった背中に手のひらを宛てがいながら、スザクは静かに問うた。生気のない薄紫は静かに瞬いて、ゆったりと網膜を潤ませる。
「あ、会いたかったから……」
 スザクの視線に耐えきれなくなったのか。
 滲んだ瞳を真っ直ぐ見つめると、気まずそうにゆったりと視線を逸らされる。からからに乾いた唇は戦慄いて、か細い声を、俄に信じがたい言葉を紡いだ。

 スラックスのポケットから探り出したのは透明の袋に入った、ラムネかキャンディのような固形物だ。それは塩タブレットといって、口に入れて舐めるだけで塩分を補給できるという優れものらしい。運動部に所属するクラスメイトから貰った物で、余ったからあげる、と言われたきりポケットに仕舞ったままだった。
 透明の袋の封を切って、スザクは中から取り出した小さいそれを歯に挟むようにして、軽く食んだ。一連の様子をぼんやり見つめていたルルーシュの肩を掴んでやると、彼は不思議そうに瞬きをした。
「ス、ザク」
 咥えたタブレットを彼の唇に押し付けて、舌で押しやる。柔らかくて熱い口腔にそれが音を立ててころん、と転がった。
 塞いだ唇を離すと、うっすら湿った口元から赤い舌が見えた。彼は不思議そうに口をもぞもぞと動かすが、次第に眉を潜めて渋い表情を作った。
「……なんだこれ」
「塩分だよ。はい水」
 塩タブレットはその名の通り塩分の塊のようなものだ。しょっぱくて酸っぱいそれはキャンディやチョコレートのように甘くはないし、普段口にする食べ物のどれにも似つかない味だろう。彼はその味覚にやや不快感を示しているらしい。
「いらない」
 差し出したペットボトルから顔ごと反らして、相変わらずルルーシュは意地を張る。何をそんなに無理する必要があるのか分からないが、彼がそのつもりならこちらにだって考えはある。
「しょうがないな」
「……は、おい、っん!」
 色のない頬を包んでから、顎を押さえて無理やり口を開かせる。生まれた隙間に唇を被せて、半ば覆い被さるようにして彼の口腔に冷たい水を流し込む。彼は驚いて目を見開いていたが、冷水が喉を通る瞬間だけは、きつく目を瞑っていた。
「ぷは、は……」
「おっお前!」
 白かった頬はみるみるうちに赤く染まって、吊り上げた眦はきつくスザクを睨んだ。ほんの少し、いつものルルーシュに戻ったように思った。普段の彼になら、とっくに掴み掛かって引っ叩かれていそうだ。
「うん。ごめん」
 しっとり湿った下唇を親指で拭ってやる。いくら顔見知りだからって同性の男相手に口移しされるなんて、屈辱の極みだろう。彼を辱めるつもりでも、からかうつもりでもなかった。少々無理やりにでも、こうでもしないと分かってもらえなさそうだったから、ちょっとした荒療治のつもりだ。だからごめんね、と謝罪の気持ちを込めて、色が戻り始めた唇を撫でた。
「ちゃんと飲んで」
 水滴が浮かんだ冷たいボトルを赤い頬に押し当てると、とうとう彼は観念したようにそれを両手で受け取った。
 ルルーシュは飲み口へ僅かに口付けて、ようやく水を口に含んだ。浮いた喉仏が上下するさまを、スザクは胸がむずむずするような落ち着かない心地で、ただじっと眺めていた。



 隣の棟から今すぐ器具を運んでほしいだの、ソースが足りなくなりそうだからコンビニまで走ってきてだの、男は都合の良い労働力としか思われていない。個々人の活動の場においてはそこまで発言力を持たず、むしろ気弱な部類に入る彼女らは、なぜか集団になるとやけに団結力を高めてくる。とくにこういった学校行事では、その特殊能力がいかんなく発揮されるらしい。いつだってその影響を受ける側、被害者となるのはいつだって我々男子であって。この流れをくむのは今も昔も変わらず、集団になった女子の尻に敷かれる男子の構図は今この瞬間、スザクの目の前でまさに繰り広げられている最中であった。
「ボンベ足りなくなったから用務室から誰か取ってきて!」
「へいへーい」
「広場に行って宣伝のチラシ配りとプラカード持って回ってよ」
「あーはいはい」
「スザクくんも突っ立ってないで、呼び込みして!」
「ああ、うん……」
 威勢のいい女子に睨まれ矢継ぎ早にそう言われたら、スザクだって反論する余地はない。もとより手持ち無沙汰でやることがなかったから、どんな些事であれ仕事が割り振られるほうが有難いのだ。

 夏休みが明けて一か月と少し経ったこの日、とうとうスザクの学校では文化祭が行われた。目を引くような豪華な出し物だったり催しがあるわけでもないが、それぞれのクラスが思い思いの屋台やイベントを企画し、お披露目する場である。校庭や中庭には食べ物の屋台が並び、体育館では部活やサークルの企画だったり音楽コンサートが催されたり、空き教室では飲食店やゲーム大会もあって、見所は多い。それなりに学校全体は大盛り上がりで、一般からの参加者の人数も多かった。まさに大盛況と呼べる。年間の中で一番大きな行事でもあるから、生徒の誰もが待ちに待っていたのだろう。今日だけは無礼講と言わんばかりに、生徒も先生もみなお祭り騒ぎだ。
 スザクのクラスの出し物は屋台だ。食べ物のイラストと場所が書かれたチラシをいくつか持って、校内を練り歩く。普段つるんでいる友人らとはシフトの時間帯が違うから、廊下で彼らと鉢合わせることを願いつつ、単独で行動することにした。

「そこのクラスTシャツのお兄さん、焼き鳥食べて行きませんかー!」
「……僕?」
 ひと際大きな声に呼び止められて、スザクは足を止めた。炭火焼が売りの焼き鳥を販売する屋台らしい。甘辛いタレと醤油の匂いに釣られて、ついふらふらと足がそちらに向かってしまう。
「えっと、じゃあもものタレ一本で……」
「クラスの出し物ほっぽり投げて買い食いか?」
 会計を済ませようとすると、背後から聞き覚えのある声にそんなことを言われる。周囲はひどい喧騒だというのに、その声はすんなりとスザクの耳に届いた。
「る、ルルーシュ!」
「お前のシフトの時間だって聞いたのに、屋台見に行っても居なかったから。探したんだぞ」
 呆れた顔を浮かべて立っていた男は、毎朝見る制服姿とは大きく雰囲気の異なる平服の装いであった。細身の体躯によく似合って、大人っぽい印象を与える。端的に言えばとても格好いい。
「うわ、超イケメンじゃん……」
 屋台で呼び込みや接客をしていた背後の女子たちも俄に色めき立つ。到底本意ではないだろうが、その容姿のせいでひどく目立つのだ、彼は。
「すみません、焼き鳥もう一本ください」
 先ほど買ったものと同じ串を受け取って、後ろに並び立つルルーシュにそれを渡してやる。
「サボりの口止めか?」
「そういうんじゃないよ。今から戻るつもりだし」
 手渡されたそれの一番上の肉を齧りながら、彼は失礼なことを言う。この焼き鳥は来てくれて有難う、の意だ。口止めのために物で買収しようなんて思っちゃいない。
「あ、チョコバナナあるよ」
「やっぱりサボりじゃないか」
 ルルーシュは案の定といった面持ちで呆れるから、スザクは真っ向からそれを否定した。
「呼び込みをしてたんだよ。ほら、チラシだってある」
「焼き鳥とチョコバナナを持ちながら?」
「……ねえ、スーパーボールすくいだって。僕こういうの得意なんだけど、ルルーシュは好き?」
「……お前わざとだろ」
 店番の生徒にポイをふたつ受け取ったスザクは、彼の言葉など知らぬ存ぜぬといったふうに笑ってみせた。

 スザクは先ほどの言葉通り、自分のクラスの屋台へ戻ろうと再びもときた道を、寄り道しつつも今度はルルーシュを連れて歩いた。別に綺麗でもなく広くもない公立高校の校舎は紹介するほどでもない。彼の目からこの学校がどんなふうに映っているのかは知るに及ばないが、彼の通うアッシュフォードとは比べ物にならないだろう。規模も設備も土地も、そこにいる人間も。
 しかしルルーシュを連れて校舎内を歩くにあたって、ひとつ問題があった。それは彼の容貌のの良さだ。もとよりこんな公立高校の文化祭にわざわざ来るような人種ではないから、余計に目立つ。とくに女子からの視線は熱烈で、すれ違う女子生徒らはみな振り返ったり目配せをし合って、みな彼に一目置く。そして当の本人はすっかり慣れているのか鈍感なのか、どこ吹く風だと言わんばかりに平静を保っているのだから、スザクもおっかなびっくりだ。

 売れ行きはどう? と接客に励む女子らに声を掛けると、上々だという元気のある返答が即座に返ってくる。さぼってないで揚げるの手伝ってよ、なんて非難を受ければ立つ瀬もなくなるから、スザクは屋台の裏側から入ってようやく調理場に立った。
「土産用にベビーカステラを買って帰りたい」
「お客さん、うちはポテトと唐揚げのお店なんですけど」
 屋台骨の脇に立った彼がそんな冗談を言うから、スザクは笑ってそう返した。金持ちの通うアッシュフォードの生徒だというわりに案外庶民的なんだな、と不思議に思った。


「ねえもしかしてあの人、スザクくんの言ってたアッシュフォードのイケメン君?」
 仕込みを手伝う女子が、屋台の外に立つ男へ不躾に指を指しながらそう問うた。その声を聞いて周囲の生徒らも俄に色めき立って、えっどこどこ? と周囲に目を向ける。
「……?」
「あー……」

 そういえば、そうだった。
 スザクはすっかり忘れていたが、ここにきて思い出したのだ。電車でよく見かける学生の話を周囲にし始めたとき、ならば文化祭にそいつを呼んでぜひ紹介してくれ、なんて女子から言われていたことを。そして冗談半分で、その依頼を請け負っていたことも。
「わっ、ほんとにイケメンだ」
「背高いしお金持ちで頭良くてって、完璧じゃん」
「えっ何? 誰々?」
「ほら枢木くんの友達の、アッシュフォードに通う男の子だって」
「アッシュフォード!? 超エリートじゃん!」
 当番に当たっていた女子らはみな手を止めて、ルルーシュのことで話はもちきりだ。渦中の本人は何事だと困惑しっぱなしであるが、すべての原因はもちろんながらスザクだ。
「俺のこと、どんなふうに話してたんだ」
「うーんと……」
 ルルーシュのことを車内で見かけたときの印象や話は、スザク自身あまり思い出したくない。恥ずかしいのもあるが、なんだか彼に対して失礼なことを言っていた気がするからだ。
「スザクくん四月のとき言ってましたよ! 同じ電車にアッシュフォードの男子生徒が乗ってるって! しかも超イケメンの!」
「わーっちょっと! あんまり言わないでってば、ストップ!」
「……」
 隣に立つ男は複雑そうな顔をしている。無言でスザクの顔を睨む彼は、いったい自分のことをどう説明していたんだ、と言外に責めた。
 変な騒ぎに巻き込んでしまってごめん、ルルーシュ。心の中で何度も謝っているが、当然本人に届くはずはない。彼がこういった騒がしいことをあまり得意としないことは、スザクもなんとなく分かっていたことだった。だから尚更、申し訳なく思う。
「それにほら、最初言ってたじゃん。イケメン君と仲良くなれたら可愛い女の子紹介してもらえるかもーって」
「そっそれは」
「可愛い子と知り合いたくて、イケメン君と仲良くなろうって言ってたの枢木くんだったじゃんか」
「あれはその、冗談っていうか」

「……ふうん」
 一段と低いトーンの相槌が隣から聞こえてくる。いっそのこと笑い飛ばしてくれたらいいのに、彼はこういうときに限って冗談と受け取ろうとしない。とてもじゃないが顔色を窺う勇気はないし、否定すればするほど自分が取り繕っているように思えた。
「ていうか名前、何ていうんですか?」
「ん、ああ。ルルーシュだ。どうぞよろしく」
「笑った顔すっごい綺麗」
「目合っただけでドキドキしちゃうよ」
 彼が一言自己紹介をして微笑むだけで、周囲の女子らは再び色めき立った。
 人好きのする愛想笑いを浮かべて女子たちと談笑するルルーシュの姿はスザクの知らない、遠い存在の人みたいだった。いつもみたいに下らない冗談を言ってにやりと笑う、普通の高校生みたいな彼とは別人のように思える。
 彼は話す人によって、態度も声色も表情も、性格だって大きく変えている。愛想笑いを浮かべて物腰柔らかそうにしているほうの彼はたぶん、その場しのぎの、わざと演じている性格で。じゃあいつも自分に見せている、意地悪だったり素直じゃなかったり自信家だったりする一面は、一体誰のものなんだろう。
「……じゃあ俺は、このへんで帰るよ」
 きゃあきゃあと色めく声を遮るように、男は静かに告げた。
「えっ、ルルーシュくんもう行っちゃうのー?」
「もっと遊んで行こうよ~」
 ルルーシュに興味があるらしい彼女らは、分かりやすく媚びた声を出して引き留めようとした。ある者はルルーシュの前にさり気なく立ち塞がったり、ある者は腕を絡めている。強かな彼女らの行動にスザクは面食らっていた。
「有難う。俺はあいつに……スザクに用があったんだけど、もういいんだ」
 それだけ言うと、言葉の意図を解さない彼女らの輪をルルーシュはするりとすり抜け、立ち去ろうとした。もういいんだと、彼の含みある発言に呆気に取られていたのは女子たちだけでない。張本人であるスザクもだ。寂しい色を浮かべたアメジストは静かに揺れていた。
 視線ひとつ寄越さず、最後に声もかけられず、ルルーシュは背中を向けた。最後に、今日は来てくれて有難うと、せめてそれくらいは言わせてほしい。余所行きの声色と表情で取り繕うルルーシュは、スザクのよく知るルルーシュじゃないみたいだ。それがなんだか、ひどく突き放されたような気がして、どうしても不安になる。目には見えない、明確な線引きをされたような心地になる。
「……ごめん、後片付けお願いするよ」
「えっ、何、追いかけるの?」
「あっちょっと、スザクくんってば!」
 背中に浴びせられる声を振り切って、見えなくなりそうな後ろ姿を追いかけた。不安に駆られた心理に突き動かされた、半ば衝動的なものだ。もう居ても立っても居られなくなっていた。


 線の細いジャケットから見える、細い手首を掴んだのはその直後だった。いくら人混みとはいえど、本気を出して全速力で駆ければその速さは誰にも負けない自信がある。
「待って、ルルーシュ」
「……スザクか」
 スザクが叫ぶように呼べばようやく気が付いたという素振りで、彼は名前を呟いた。喧騒に埋もれる音は耳を傾けなければ聞き取れないほど、弱々しくて頼りない。
「今日は呼んでくれて有難う。お前にも会えたし、用は済んだ。だからもう帰るよ」
 まるで用意された台本を読むみたいに、彼は一息でそう告げた。立ち止まってくれてはいるものの、背後に居るスザクのほうへ振り向こうとすらしない。どんな顔をしているのか、スザクは窺うことも許されなかった。
「……何か、怒ってる?」
「はは。怒ってるって、どうして?」
 ルルーシュはスザクの発言が可笑しいとでもいうように笑って、かぶりを振った。
「可愛い女の子とやらを紹介してやれなくて悪かったな」
「そっ、それは、違うって!」
 やっぱりだ。想像どおり、ルルーシュは先ほどの会話のことを根に持っている。
「あれは冗談半分っていうか、その、今はルルーシュともっと仲良くできたらって、思って」
「……」
 相変わらず一瞥もくれることなく、彼は黙り込んだ。スザクの言葉に耳を貸しているのかさえ定かでない。それでも構わず、スザクはしどろもどろな言い訳を連ねた。
「これは僕の本心だ。さっきの質の悪い話で気を悪くさせてしまったなら、その、すまないと」
「……スザク」
 矢継ぎ早に囃し立てるスザクの言葉に、ルルーシュは横やりを入れて遮った。
「場所を変えよう。みんな見てる」
 面白くなさそうな顔をした彼と、強張って顔色の悪い自分、男二人が通りのど真ん中で立ち往生している。賑やかな文化祭の雰囲気とは明らかに異質な自分たちに、当然他の生徒らは不思議に、あるいは訝しく思うのだろう。知らず内に視線を集めていてもやむなしだ。
 じろじろと、行き交う人たちがスザクとルルーシュを好奇心、あるいは野次馬根性でか、視線を配らせていた。異国人であるルルーシュは立っているだけで注目を集めやすいから、条件が悪すぎたのだ。
 ますます気まずい心地になりながら、二人は人気のない適当な場所を選んで、再び喧騒の中を縫うように歩いた。


 ようやく見れた彼の表情は怒っているとも呆れているともつかない、複雑な表情だった。悲しいような寂しいような、迷子の子供みたいな目は淡く滲んで、スザクの足元の辺りで視線を彷徨わせる。長い前髪が顔全体に影を作って、落ち込んでいるようにも見える。しゃんと伸びない背中は壁にだらしなく凭れかかっていて、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。白い頬には涙どころか、色もなかったが。
 人気のない場所として二人が選んだのは一般参加者の立ち入りが禁止されている、別棟校舎の廊下だ。ここなら当然、そうそう人は来ない。文化祭が行われている校舎とは少し離れた場所だから騒がしさも少なく、こういった”込み入った話”をするには最適だろう。
 だからスザクは再び口を開こうとした。いくら冗談といえど質が悪いし、みんなが居る前でだ。ああいう話題と茶化され方はルルーシュが一番嫌いで苦手とするのだろうと、スザクは勝手に想像していた。が、またしてもルルーシュはゆるくかぶりを振って、別に怒っていない、と言って遮ったのだ。
「こういうのは初めてじゃないから」
 自嘲気味に囁いた彼は静かに瞬いて、濁った紫の視線を地面に落とした。
「アッシュフォードの生徒だから、外国人だから、金持ちだからとか。見た目や階級、偏見だけで自分を計られるのはもう慣れてるんだ」
 表情は影になってしまって、よく見えない。だからスザクは耳を澄ませて、ルルーシュの声を必死に辿った。スザクに対して発せられる言葉はなぜか、ルルーシュが自身に言い聞かせているかのようにも聞こえた。
 もう慣れている。だから今さら怒らないし、悲しまないし、寂しくない。平気だから。そう言いたいのだろうルルーシュの発言にはらしくもなく説得力に欠けていた。慣れているんだと言うわりに、ならどうしてそんな顔をしているんだと、スザクは叫びたくて仕方ないのだ。悲しそうな顔をしながら平気だなんて、よく言えたものである。
「俺がアッシュフォードの制服を着ているからって、声をかけられたことは今までにも何度かあるんだ、実は」
「……そう、だったんだね」
 ルルーシュは今までも自分のこと、とくに過去のことをとくに話したがらない男だった。彼のことはもっと知りたいと思っていたが、露骨に嫌がられているのだと思うと根掘り葉掘り聞くのも気が引ける。誰にだって地雷とやらはあるだろうから、彼にとってのそれが過去の話だったのだ。それを自ら語ってくれるというのはその内容に興味もあるが、それ以上に痛々しい心地になる。
「どうせ金を持っているだけの馬鹿だろうとか、ブリタニア人様は日本人なんか劣った人種だと思ってるんだろうとか、下らないことを言われたこともある。でも……」
「……」
「俺のことを普通の高校生だって、庶民と変わらないじゃんって退屈そうに言われるのが一番辛かった」
「そんな」
 そんなひどいことを言う奴が居るのか。スザクは思わず言葉を失ったが、それでも本心はきちんと彼に届いていたらしい。ちらりと持ち上がった目線がこちらを見据えたかと思うと、お前は優しいな、と独り言のような呟きが聞こえる。
「スザクは見ず知らずの俺を友達みたいに扱ってくれたから」
 ゆるく持ち上がった口角はまるで微笑むように歪んで、言葉を紡いだ。声色には温度が戻って、とても温かくて穏やかだ。
 そうなると、やがて気まずそうに再び目を逸らされる。色の無かった頬には、心なしか朱が入るようになっていた。
「う、嬉しかったんだ」
「ルルーシュ……」
 ふるふると頭を振って、赤くなった顔を誤魔化そうとしているらしい。が、やはりそう簡単に誤魔化しきれるものでもないらしく、耳まで染まった彼の照れ隠しは失敗に終わっている。

 友達みたいに扱ってくれたから、嬉しい。頓珍漢で的外れで、しかし寂しく痛ましい彼の考え方に、スザクは胸のつっかえるような思いがした。
 あまりに彼は純朴だ。それでいて優しい。なのに人の悪い部分ばかり見せられ、学歴と階級という物差しを宛がわれ続けて、感性がほんの少し歪んでしまった。哀れで気の毒な男だ。その証拠に、スザクがこんなにルルーシュのことを、大切なかけがえのない存在のうちの一人だと想っているのに、何一つ伝わっていなかった。友達みたい、なんて言い方をされたスザクのほうが悲しくなるくらいだ。人間不信、というのはまさに彼のことだろう。
 痛々しいと同情すると同時に、庇護欲に似た愛しさやいじらしさも感じた。可哀想だという感情は相手を理解し寄り添う感情であると共に、支配的な感じ方でもある。所詮は対岸の火事なのだ。自分に関係のない事象だから、可哀想という感情は生まれる。だからスザクは芽生えたこの冷たい感情を敢えて口には出さなかった。
「……僕は君にもうひとつ、謝らなきゃいけないことがある」
「なんだスザク、……って、おい!」
 ルルーシュの言葉を待たずに、スザクは思わず彼の体を思い切り抱き締めた。未だに朱の残る頬には再び血が上ったようで、すっかり真っ赤だ。
「何するんだ、離せ! このっ」
 肩口からは猛抗議、腹や胸や脚は殴られ蹴られの猛抵抗を受けている。照れ隠しにしては些か大袈裟だ。本気で嫌がられているかもしれない。いや、おおよそ本気だ。
「僕の話を聞いてほしい」
「この体勢でか?」
「お願いだ」
 そう言いながら暴れる体を抑えて、背中を撫ぜた。幼子をあやすような手つきは場違いのようにも思えたが、彼は何を思ったのか、それまでの猛抵抗をぴたりと止めてしまった。ぴくりと肩を震わせたルルーシュの表情を覗くと、どこか不満気で不服そうな、納得のいかないような顔をしていた。唇を僅かに尖らせる様子は拗ねているようにも見えた。
 ようやく大人しくなった態度にほっと息をついて、スザクはルルーシュの異変に構うことなく言葉を続けた。
「僕が君に声をかけた理由は単純に、ただの好奇心だったんだ」
「……」
 ルルーシュは何も言わないし、身じろぎひとつすらしない。スザクはそれを良いことに、独白を続ける。
「アッシュフォードの学生がどうして、通学手段に私鉄を使うんだって。そもそも街中じゃ全然見かけない制服だし、物珍しさっていうのかな。金持ちで頭が良い人って、僕らみたいな普通の、一般庶民の生活がどんな風に見えてるんだろうとか」
「……でも、俺はお前と変わらないだろう」
「うん。素直じゃなくて意地悪で天邪鬼で、でも優しくて、照れ屋さんな高校生だった」
「…………」
 彼は再び黙り込んで、おまけに俯いてしまった。黒髪の隙間から覗く耳はうっすら血色が良くなっていて、どこまでも分かりやすい男だと思う。
「あともうひとつ、すまない。さっきは冗談半分だって言ったけど、もう半分は本気だった。可愛い女の子、紹介してほしいって話」
「今もそうか?」
「……まさか」
 不機嫌そうな視線がスザクの顔を見据えた。責めるような、あるいは糾弾するような瞳には思わず罪悪感で言葉が詰まってしまう。でもそれは、ルルーシュが本気で怒っている証明ではない。どちらかというと、不機嫌だから八つ当たりしているだけだ。尤も、彼の機嫌を損ねさせたのは紛れもなくスザクの発言だったから、その矛先は確かに正しい。
「君のこと、もっと知りたいなって思うよ、今は。だから僕に思ってること、もっと話してほしい」
「……そうか」
 気まずそうに視線を逸らすのは、まだ素直になれない証だ。真っすぐ過ぎるスザクの想いと言葉をどう受け止めたらいいか分からず、持て余しているのだ。
「……お前、恥ずかし気もなく、よくそんなこと言えるな」
「何が?」
「いいや、なんでもない」
 微かに火照った頬は次の瞬間にはいつもの顔色に戻っていて、スザクはそれ以上は何も言えなかった。というよりも、僅かに緩んだ頬の曲線の柔らかさを前にすれば、言いたいこともすっかり忘れてしまうのだ。



 のちに彼の口から聞いた話である。そもそもスザクが真っ先に気になって仕方なかったことだが、どうしてアッシュフォードに通う学生が私鉄を使うのだという疑問に、彼は顔色ひとつ変えずあっさり答えてくれた。
「元よりアッシュフォードは原則全寮制だぞ。自宅から通うのは俺みたいな特例だけだ」
「そ、そうだったんだ」
 スザクが疎いだけなのか、あまり知られていない事実なのか。定かでないが、それは初耳だ。それならなるほど、電車通学する生徒を見かけないのも当然だろう。
「ならどうして君は特例なんだい」
 だから当たり前に抱いた疑問を、スザクは何の気なしにルルーシュに投げかけた。
「……妹が、足と目を患っているんだ。だから同じ屋敷で暮らしてる。妹は送迎車があるが、同じく屋敷で暮らす親戚の……俺の弟みたいな奴が居て、中等部の二人は車に乗せてる」
「それで君が電車通学?」
「車椅子も乗せてあるから、そんなに大きな車を借りているわけじゃないし、俺は乗ってない」
 説明するには手間のかかる、少し複雑な事情があったらしい。春の始めからずっと抱いていた疑問がようやく解決されて、ようやくすっきりした。彼は変わり者でも物好きでもなく、心優しい兄としての行いをしていただなのだ。

 ――まもなく駅に到着します。お降りの方は……
 やがて車内のアナウンスが流れると、スザクははっとしたように顔を上げて鞄を持ち直した。慌ただしく身じろぐ姿を見て、隣の男は苦笑いを浮かべる。朝の光に照らされる白い頬は柔らかい曲線を描いて、優しい印象を醸していた。
 二人は文化祭のあとも相変わらず、示し合わせたわけでもなく同じ時間・車両で鉢合わせをして、毎朝共に通学をしていた。別に変える必要もないし、むしろ彼と一緒に過ごす朝の僅かな時間はやっぱり楽しいし、手放し難い。彼も自分と同じ気持ちだったら嬉しいと、スザクは思っていた。
 ――扉が開きます。電車とホームの隙間にご注意ください。
 そのアナウンスと共に扉が開かれて、車内に居た同じ制服の学生がぞろぞろと駅へ向かってゆく。スザクもその後を追うように、足先を向けた。朝一番で会ったのに、朝一番で別れる。その奇妙さは二人にとってすでに日常の一部になっていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「……あ、待て」
 ルルーシュがそう言うと、スザクは思わず立ち止まる。珍しい制止の言葉に面食らった。不思議に思って首を傾げると、同時に頬を柔らかく、生温かいものがするりと撫でる。
「ブリタニア式の挨拶だ。ほらさっさと行け」
 突き放すようにそれだけ言うと、彼はスザクの肩を思い切り押しやって、車内の外へ追い出そうとする。思わぬ衝撃に後方へたたらを踏んだスザクは、直後に目の前で閉じられる扉――のガラス越しに見える彼の顔を見上げた。
「……そっちからしておいて、照れるなよ」
 過ぎ去ろうとする列車を見送りながら、スザクは噛み締めるように呟いた。頬に残った生々しい感触の、優しい温度を持て余しながら。