真実の言明

 重たい布を引きずるようにしてようやく鏡の前に立ったと思えば、今日何度目になるか分からない盛大な溜息をついた。
 絹地で拵えられた豪勢なジャボで首元を飾られ、糊のしっかり利いた新品のブラウスに腕を通す自分は何だか別人に見えた。不釣り合いだと思う。
 普段といえば、自身の体にフィットするよう作られたパイロットスーツか、ブリタニアのラウンズに属する軍人専用の制服を着回すくらいだ。たまに公の場に出る際は直属騎士の証として紺のマントを羽織るが、精々そのくらいだ。

 十年前の戴冠式はずいぶんめかし込まれたような気もするが、そもそもの記憶もあやふやだ。当時は八歳という幼い年齢だったから、かつての日本国に存在した七五三みたいなものだと周囲の人間は囃していた。それでも十分羞恥は拭えなかったが、記念すべき皇帝即位と騎士任命の儀ということもあって、これも致し方ないことだと納得せざるを得なかった。
 隣に立つ男はお家柄、こういった行事ごとには慣れているのか、始終涼しい顔をして煌びやかな装束を着こなしていた。脚に絡まりそうな重たいローブや、千切れそうな細かい装飾を物ともせず、堂々と赤絨毯の上を歩き国民の前で演説を行う横顔には惚れ惚れとしたし、羨ましく、少し狡いと思った。
 かくいう騎士のほうは、こういったことには滅法駄目で不慣れであった。着付けのひとつから整髪、化粧まで初めてのことで、まるで多動症のように落ち着かなかった。着飾られてゆく自分に落ち着かず、若い女性たちにその様を可愛いと揶揄られれば今度こそ幼い騎士の羞恥心は限界を超えた。直前になって式典に出たくないとごねて、大人たちを散々困らせたことは鮮明に記憶に残っている。

 さすがにこの年になって、恥ずかしいから出席したくないという逃げはしないつもりだ。出来ることなら逃げ出したいが、そもそも今回の式典は自分たちが主役である。聞き分けのない十年前の自分とはもう違うのだ。
 高価な薄布に包まれた体を、スザクはソファに横たえさせた。背凭れには雑に放られた上着がかけられ、足元には衣装と揃いのデザインである靴が転がっている。
 正直乗り気じゃないし、出来ることなら着たくなかった。いつものナイトオブゼロの衣装ではいけないのだろうか。だいたい、皇帝即位十周年記念とやらで、いくらなんでも浮かれ過ぎではないか。

 そんな当て付けのような苛立ちを抱え始めたころ、部屋の扉がノックされた。はい、と控えめな声で返事をすると、遠慮なくドアノブを捻る音が続いて聞こえた。

「やっぱり機嫌、悪いんじゃないか」
 どこか愉快そうに笑う男は、言葉の内容とは裏腹にスザクの機嫌を気遣う様子が一切ない。それどころか不機嫌なスザクを挑発するように、神経を逆撫でするかのような笑い声すら発している。
 音も立てず歩み寄った男はソファの背凭れに行儀悪く腰掛け、スザクの頭を見下ろした。
「寝癖は直したんだな」
 白い手を翳されたと思えば、彼の指先はおもむろに目下にある髪の毛を摘んだ。毛束をひとつひとつ確かめるようにして動く中指には、普段見られないリングがきっちり嵌め込まれている。そのデザインは彼の趣味とも思えなかったし、もちろんスザクのセンスでもない。
「……いつもやってることだよ」
「そうか」
 何やら可笑しそうに言葉尻を震わせる声が憎らしい。

 スザクは首を傾けて、自身を見下ろす彼の顔を見上げた。
 顔に落ちた影は長い前髪のせいだろう。いつもよりやけに艶がかったそれはほんのり柑橘系の、爽やかで甘酸っぱい香りがした。緩やかに持ち上がった口元はずいぶんと血色が良いし、緩んだ眼の色はあどけないのになぜか妖艶に見えた。
「こっちおいで」
 スザクはソファ隣、空いたスペースを手で叩いて示した。
「どうした、急に」
「もっとよく顔が見たいんだ」
 彼は何も言わなかったが、長い睫毛が何度もはためいているのが見えると、ああ照れているんだなと感じた。

 大人しくソファに腰掛けた男は居心地悪そうに上着の布を払いながら、スザクの顔をちらりと見遣った。さきほどの”顔が見たい”という方便を真に受けているのだろう。少し目線を彷徨わせる仕草はいつもの彼らしく、色事に不慣れな娘のようだ。
「似合ってるよ。まるで、別人みたいだ」
 右流しセットされたアシンメトリーの黒髪が静かに揺れた。いつもより目力が強く感じるのは、濃く引かれたアイラインのせいだろうか。先ほどやけに血色が良いと思った唇には、うっすら人工の朱が引かれていた。
 スザクのものと揃いで拵えられた彼の衣装は、しかし色は正反対で漆黒に統一されていた。細身の彼が着ればさらに引き締まった印象を受けるが、大きく広がった袖だったりやたらと大きなアクセサリーだったり、あるいは白すぎる肌を彩る薄化粧のおかげでずいぶん派手な出で立ちに見える。
 いつもは薄ら笑みを浮かべながら大胆不敵な言動で目立つ男が、まるで悪魔に魅せられたかのように妖艶な雰囲気を醸していた。
「時に自分を偽るのも王の器なんだよ」
 にやにやと卑しい、嫌味な笑みを浮かべている。きっと、スザクの考えていることはお見通しなのだろう。彼は悪魔に魅せられたのではなく、彼自身が悪魔だったのかもしれない。

 十年前の式典のとき、自分の与り知らぬところで彼が知らない人間になってゆくさまを垣間見て、なぜだかひどく落ち着かず、不安になった。
 女たちの手で大人しく着飾られていた王はまるでお人形のようだった。彼が彼でなくなっていくみたいで、恐怖すら感じた。

 十年経っても相変わらずこういったことには慣れているのか、はたまた肝が据わっているだけなのか。男は見違えるように美しく仕立て上げられ、それをまるで自分の物のようにしている。
 そういう図々しさが同じ男として少し羨ましくもあり、悔しさもある。
 同時に、彼が別の人みたいな、自分の知らない人になっていくのが怖いとも思う。彼が、ルルーシュがルルーシュじゃなくなるみたいで、とてつもなく不安になって落ち着かなくなる。

「君の匂いじゃない」
 スザクは隣にある肩に頭を乗せて、すんと鼻を動かした。ほんのりと爽やかな香りが鼻孔を擽ったが、まるで作り物の、空っぽなにおいだった。
「顔色だって分からない」
 まるで白粉をはたいたみたいな艷やかな頬は白すぎて、血が通っているのかも感じられない。その証明に、こんなにも距離が近いのに彼の顔色はちっとも変わりやしない。
 厚すぎる外套の上からじゃ鼓動も感じ取れない。整えられた肌には触れることも許されない。
「そんな顔しないでくれ」
「……」
 ルルーシュは飾りのない白い手を、スザクの手に重ねた。見た目どおりの冷たい手は、温かすぎるスザクの体温にはちょうどいい。
「俺はこの日をお前と迎えられて嬉しいんだ」
 ルルーシュの細い指とは正反対に、スザクの指は節があって日に焼けていて、太さもある。幾度の戦場を駆け抜け、最前線で戦ってきた軍人の手指だ。引き金を引き、マシンを操縦し、爆弾のスイッチだって押したことのある、多くの人間を殺めてきた手だ。
「お前は俺の自慢の騎士なんだ。そんな不細工な面のまま、公衆の面前に出てもらったら困る」
 その手を愛しそうに、ルルーシュはするすると何度も撫でた。骨の浮き出た手の甲をなぞり、平たい爪を人差し指で弄った。
「こっちを向け」
「……ん」
 重ねられた手はそのまま、言われたとおり顔を寄せれば、ルルーシュはスザクの唇をそっと食んだ。傷付けぬよう、そっと肉に歯を立てる仕草はまるで、機嫌を損ねた主人を慰める子猫のようだった。湿った舌がかさついた表面をなぞって、潤いを与えているみたいだ。
 しおらしい態度に毒気を抜かれたスザクは、ルルーシュの好きなようにさせた。ちゅ、と控えめに音が鳴らされると、甘い痺れが背中に流れる。
 反撃してやろうかと思った矢先、ルルーシュの顔が離された。微かに滲んだ彼の目尻にはうっすら朱が灯り、そっちこそそんな顔で公に出るつもりか、と思わず場違いな文句が出そうになった。
「自分を偽ることも王の仕事だ」
「そうだね」
「……で、でも」
 ルルーシュは不意にそう口籠ると、左手に嵌められたリングを外して、ソファの端に放った。そうして飾り気のない彼の手はスザクの手を包んだ。
「式典が終わったら、お前の……お前だけの俺になるから」
「……」
「こんな服脱いで、やる、から……」
 思わず目の前の顔を見遣ると、微かに潤んだアメジストがスザクの腑抜けた顔を捉えていた。