劣等感に咲く花

小学校の頃の休み時間、過ごし方といえば校舎内を使った鬼ごっこに隠れんぼ、校庭の遊具を使った競争だったり、クラスメイト全員参加のドッジボールやキックベースが定番だろう。外に出られない雨の日なんかはトランプや絵しりとりで盛り上がったり、図書室に行って時間を潰したりもする。
 活発で健全な遊びしか知らない頃と比べると、高校生にもなれば体を動かすこと以外での過ごし方を覚えてくる。雨が降っていようが晴れていようが、女子も男子も教室内でたむろすることが殆どだ。長休みになると活動的な男子数人が連れ立ってバスケをしたりもするが、クラスメイト全員で鬼ごっこだったり、一輪車で競争なんかはもうしない。汗をかいて疲れることをしたくない、外に出て遊ぶほどの元気や気力もない、というのが大半の意見だ。女子に至っては汗をかくとメイクや髪の毛が崩れるから、臭いが気になるから嫌だと言う者もいる。着飾ることを覚えた女性たちの言い分はある意味、思春期や青年期の段階では健全な反応なのだろう。
 だから思春期を迎えた男にしてみれば、"これ"も健全な反応のうちなのだ。ボールを遠くへ蹴って、誰かと追いかけっこをして、夕日を浴びて伸びる影を踏み合って、それだけで笑える子供時代とは少し訳が違う。

 たとえば今、四限目の体育が終わった直後の男子更衣室だってそうだ。
 各自で着替えを済ませたらそのまま昼休みを過ごせるこの時間は、誰もが普段よりのんびり着替える。授業間の休み時間はたった十分しか設けられていないから、次に座学が予定されていれば皆大慌てで着替えを済まさねばならない。しかしこの時間は、直後に控えている授業はない。だから、いつもより少しお喋りなクラスメイトたちはだらだらと駄弁りながら、更衣室に留まっていた。
 午後からの授業は小テストと課題提出がある。テストは点数が悪ければ補講があるし、課題は提出期限が過ぎると追加課題を課せられる。そんな要注意科目の授業を目前に控えた今この瞬間、更衣室はもっぱらテストの山の張り方についてでもちきりだ。
 ルルーシュもまた、教室に戻れば今一度ノートを見返さねばならない生徒の一人だ。この授業の大半は居眠りをして過ごしていたから、板書はからっきしで大学ノートのページは真っ白だ。これではどうしようもないと、シャーリーに頼み込んで要点だけでも写させてもらったノートだけが、ルルーシュの戦力である。彼女は少々おっかなく、無鉄砲な性質ではあるが、根は真面目で努力家だ。要領も良ければ気前も良い彼女は、渋々といった風であったが丁寧にまとめられたノートを見せてくれた。しかしそれだけだと準備不足感は拭えないのが事実だから、その差を埋めるには己の地頭に賭けるしかないのだ。

 少し憂鬱な気分になりながら体操着を脱ぐルルーシュの後方、更衣室の中央あたりで突如、わっと笑い声が起こった。
 今時こんなことが、と周囲の男子たちは騒ぎ出して大笑いしている。
「オイ、これ誰のだよ!」
 ある一人の生徒が何かを手に掲げて、そう叫んだ。ルルーシュも思わず振り返り、その手中にある物を見た。
 その瞬間、室内は笑い声で溢れた。生徒が掲げていたのは一冊の雑誌であった。ずいぶん肌色の多い表紙から察するに、いわゆるエロ本というやつだ。失笑している者、呆れている者、腹を抱えて大笑いしている者、その表情は三者三様であったが、雑誌に注がれる視線はどれも恥ずかしいものを見るような目であった。
 当然晒し物にされた雑誌の持ち主など現れるはずもなく、もしかすると別クラスの忘れ物かもしれない、という結論に落ち着いた。修学旅行でありがちな、風呂場に落ちていた下着の持ち主探しのような表現し難い恥ずかしさだ。

 このあと授業も控えていない、時間の有り余っている休み時間、男子だらけの更衣室だ。むしろそういう展開にならないほうがおかしいかもしれない。
 せっかくお宝発掘したし、見てみようぜ! という誰かの言葉を合図に、興味のある他の生徒が一斉に室内中央へ集まった。そんな様子を冷ややかな視線で見とめたルルーシュは、汗を拭った肌に薄いブラウスを羽織った。
「この中で誰が好み?」
「俺はこの人!」
「えーっ、ないない!」
 そして当然そうなるであろう、好みの女当てにも発展していった。とても女子には聞かせられない下品な単語が飛び交い、ルルーシュは頭が痛くなるような思いがした。
 早く教室に戻って、小テストの範囲に目を通さねばならない。今はこんな下らない猥談に意識を持って行かれている場合ではないのだ。屈辱と地獄の補講だけはなんとか勘弁したいと、それだけに気を集中していたルルーシュは、唐突に手を止めざるを得ない羽目になる。
「枢木はどの子タイプ?」
「へっ、えっと、え、僕?」
 スザクの裏返った声が聞こえて、室内はおかしそうな笑い声に包まれた。
 スザクは良い意味でも悪い意味でも優等生で、過ぎるくらい真面目な奴だ。そういう彼の性格を鬱陶しい面倒くさい、うざったいと評する者も居れば、からかい甲斐があって面白い、決して悪い奴じゃないし少し天然なところが良い、と評する者も居る。だから今、彼に話題が振られたのはきっと、面白がられているのだろう。スザクは冗談を冗談と見抜けないところがたまにあって、人に嘘をつけない、どこまでも素直過ぎる奴なのだ。
「えーっと、この子?」
「あっ、枢木は尻よりも胸派なんだ!?」
「ちょ、ちょっと! 声大きいって!!」
 否定はしないのかよ! という誰かの野次と笑い声が木霊して、スザクは依然として何やら抗議していた。
 あの様子からするに、彼は最初から話の輪には入っていなかったが、突然話を振られたのだろう。わざとらしく気にしていない振りを装っていたのを目敏く見つけられたとか、そんなところだ。
「じゃあ次のページ、この中だと?」
「ええっと、うーん、この子かなあ」
 あの馬鹿。スザクもスザクで、いくらなんでも馬鹿正直過ぎないか。それか、最初から彼もその雑誌に興味があったのかもしれない。ルルーシュは相変わらず背を向けて着替える振りをしながら、じっと耳をそばだてた。
 ルルーシュはロッカーのほうを向いているから、彼がどんな女を選んだのかは知りようもないのだ。周囲の揶揄や野次の内容で分析するしかない。
「枢木って黒髪好きなんだ?」
「そ、そうなのかなあ」
「あと処女っぽい女だろ!」
 違う違う! 変な言い方はよしてくれ! とスザクが叫ぶのを、周囲はからかった。
「分かる分かる、清純派ってやつだ」
「違うって」
「エロい体してる清純派がタイプなんだ??」
 俺もそういうの好きだとか何とか様々な文句が飛び交う中、スザクの否定はしない言葉が続いて聞こえて、一同は大盛り上がりだ。どちらかといえばスザクの好みをからかうより、同意する声のほうが多い。
 彼らの趣味はさておき、ルルーシュは留めかけたブラウスのボタン、の下にある自らの体につい、視線を遣ってしまった。
 エロい体というのはつまり、出ているところは出ていて、へこんでいるところはへこんでいる体型のことだろう。豊かな胸に柔らかい曲線を描くくびれ、その下に続く臀部と引き締まった太腿を持つ、肉付きの良い女体なんかはまさにそうだ。
 しかし目下に広がる己の体の貧相さたるや、もはやこれは目も当てられない。ルルーシュは内心叫び出しそうになっていた。あまりの衝撃とショックと焦燥、悲しみと絶望が同時に波のように押し寄せてきて、頭に浮かぶ言葉も見当たらない。

 それから五限目に行われた小テストの点数は散々なもので、ルルーシュは屈辱と地獄の補講を強いられたのだった。


 生徒会副会長で会計係を務めるルルーシュは、予算や行事の支出などの管理を一括してノートパソコンで行っている。これだけ文明が発達した現代で簿記と電卓で経費管理など、旧態依然にも程があるからだ。
 だから雑務以外の場面では基本的に、放課後の活動時間内はパソコンを操作していることが多い。エクセルなどの表計算ソフトを立ち上げて関数を用い、各部活動ごとに支出を割り出し、翌月の予算を取り決めるのだ。
 が、そんな単純作業も数日あれば済んでしまう。だから活動時間内はその日の課題を済ませたり、本を読んだり雑談をしたり、あとは大抵、仕事用のノートパソコンでインターネットブラウジングに興じていた。リヴァルあたりにはルルーシュの悪行は既にバレていたが、それ以外の者にはまだ知られていない。ミレイに見つかれば即刻パソコンを取り上げられ、今後一切は簿記手帳と電卓で仕事をやらされるであろう。そんな危険性も孕んでいるのに止められないのは、きっとルルーシュの捻くれた性格のせいだ。

 だから今日もルルーシュはネットサーフィンをして過ごしていた。いつもより幾分、顔を顰めて難しい表情を浮かべながら。
「ルル、何してるの?」
「へあっ!? えっ、あ!」
 だから向かいに居たシャーリーが不審がって、ノートパソコンの画面を覗き込もうとしたのだ。
 ルルーシュは寸のところで画面を閉じて阻止したが、代わりに死ぬほど格好の悪い声を出してしまった。彼女は束の間目を瞬かせたが、ややあって腹を抱えて笑いだした。あのルルーシュがあまりの驚きで間抜けなひっくり返った声を出すなんて、とでも言いたいのだろう。不服ではあるが、今この生徒会室にルルーシュとシャーリーの二人しか居ないことが不幸中の幸いとも呼べる。
「ルルの変な声、誰にも言わないからさ。今パソコンで遊んでたんでしょ? 何見てたの?」
 もしかしてイヤらしいやつぅ? としたり顔で言われてしまえば、ルルーシュもついムキになって言い返してしまう。それこそが彼女の策略だと、頭のどこかでは分かっていた。分かってはいたが。
「断じて違う、断じてだ!」
「なら見せてよ。やましいことはないんでしょお?」
 テーブルを挟んで身を乗り出してくるシャーリーは、そう言ってルルーシュの退路を巧妙に塞いでいった。彼女の言うことは尤もである。
 ルルーシュは渋々といった様子で、折り畳んでいたノートパソコンの画面を開いた。シャーリーは立ち上がってルルーシュの隣に立ち、液晶に表示されたとある検索結果画面を食い入るように見つめた。

「筋肉……つけ方?」
「いや、だからその、これは」
 穴があったら入りたいという感情表現は、こういうときに使うんだなとルルーシュは漠然と感じた。それくらい、とてつもなく居た堪れない気持ちになっていた。
 サーチエンジンの検索欄に”筋肉 つけ方”と入力し、その検索結果が一覧で表情されている。それはルルーシュがそのワードで検索をかけていた、という紛れもない証拠だ。
「ルル、何かあったの?」
「まあ、色々……」
 散々笑われるかと思ったが、何やら神妙な顔つきをしたシャーリーに心配すらされた。いっそ笑い飛ばしてほしかったが、彼女はルルーシュの複雑な胸中など知る由もない。
「別に気にしなくてもいいと思うけどなあ」
 シャーリーがしげしげと、席に座るルルーシュの体型を見分するように眺めた。
「それに最近は色白で細身の男子がモテるらしいよ」
「……」
 一般論はそうかもしれないが、生憎今回はそういう問題ではない。誰かに相談できたら気持ちも楽になれるだろうが、口が裂けてもルルーシュにはそれができなかった。

 全ての発端は先刻、ルルーシュが男子更衣室で耳にしたある会話である。誰かが更衣室に持ち込んだ雑誌を別の生徒が見つけ、興味のある生徒らで中身を共有していた出来事の中にそれはあった。
 スザクが周囲の男子に揶揄られて発覚したことだが、どうやら彼はエロい体、つまり肉付きの良い体型が好みであるらしいのだ。ルルーシュは件の紙面を見ていないから、具体的にはどのくらい豊満な体が好きなのかは分からない。ただひとつ言えることは、その話に則ればルルーシュの体型は間違いなく彼の好みではない、ということだ。
 幼馴染の男友達に恋心を寄せられる、という展開すらスザクにとったらハードルが高いだろうに、好みですらないときたら確実に門前払いだ。

 そう、ルルーシュはスザクのことを友達としても、そういう意味でも好きだった。自覚したのはつい最近だったが、気がついていなかっただけで、本当はずっと前から恋心を抱いていたのかもしれない。
 告白するとかしないとかは、考えたこともなかった。スザクのことが好きだなあと、ただ想っているだけで満たされていた。謙虚と呼べば聞こえは良いが、つまりは臆病なだけだ。
 スザクの好みが己と正反対の性質だと突きつけられると、ルルーシュは告白もしていないのに真っ向から拒絶されたかのようで、かなり傷ついた。もちろんスザクから直接言われたわけでもないから、ルルーシュの勝手な思い込みである。だが、こんな都会のもやしっ子みたいな男がスザクに恋心を寄せている、と考えると自己嫌悪に浸ってしまうのも事実だ。こんな自分が彼を好いているなんて、おこがましいにも程があるのかもしれない。

 別にスザクから恋愛対象として見られたいとか、そういうのじゃない。多分。ただほんの少し、自分に自信を持ちたいだけだ。
 ルルーシュは自分にそう言い聞かせた。

「何その弁当、珍しー!」
「……たまにはいいだろ」
 シャーリーが覗きこんだルルーシュの弁当には肉類と揚げ物がぎっしりと詰められ、見るだけで胸焼けを誘発する。
 普段は二重弁当の上段に野菜と魚肉類がほどよいバランスで詰められた、見た目も色とりどりな中身であった。しかし今日の弁当箱の中身はいつもと打って変わって、色どりは悪いし内容も偏りがあり過ぎている。
「うわあ、肉だらけ」
「野菜もある」
 その言葉と同時に取り出したタッパーの中には、刻まれた生キャベツがぎっしりと詰まっている。苦々しい表情を浮かべたシャーリーは、ルルーシュが果たして正気なのかと疑っていた。失礼な奴だ。
「なんか野球部の合宿メニューみたい」
 当たっているのか外れているのか分からないシャーリーの呟きを、ルルーシュはあえて聞かなかったことした。

 言うが早いが、ルルーシュは昨日の件を受け、翌日から肉体改造をすべくありとあらゆる計画を立て、これを実行したのだ。その計画のうちのひとつが、この弁当である。
「俺は食べる量がそもそも少な過ぎたんだ」
「まあ、間違いじゃないかもだけど」
 ルルーシュが体型の作り方について調べていくうち、これまでの生活習慣を見直す必要がある、という結論に至った。
 まず食事量の少なさに問題があった。代謝のいい十代のうちはたくさん食べないと、背は大きくならないし筋肉がつかない。ルルーシュは男のわりにあまり食べないほうだったから、食べる量をもっと増やす必要があるのだ。
「肉と揚げ物ばっかり……」
 ただがむしゃらに食べる量を増やしたところで、それは太るだけだ。
 筋肉をつけるのに必要な栄養素は、まずたんぱく質である。鶏肉の胸肉や差ササミなんかは脂肪が少なく、あっさりしていて食べやすい。しかしそれだけでは逆に低カロリーのヘルシーなメニューになってしまうから、揚げ物も一緒に摂るのだ。
 弁当箱の二段目は白米をぎっしり詰めた。炭水化物は体を動かす一番のエネルギー源だ。しっかり食べて、午後からの体育ではきちんと体を動かさねばならない。
 二段の弁当箱では到底収まらなかった刻みキャベツは、半透明のタッパー容器にぎっしり詰まっている。肉や炭水化物ばかり摂取していては体に悪いからだ。
「よく食べれるね……」
 若干引き気味のシャーリーの言葉は意に介さず、ルルーシュはそれらを完食した。
 単純に食べる量が増えたせいで昼食にかかる時間は増えるが、ルルーシュにとって食べること自体はとくに苦ではない。普段より十二分に満腹であるということ以外、とくに気になることはなかった。

 それから午後の体育のあと、腹を下して生徒会に出席できなかったことから、この作戦は中止となった。

 ルルーシュの体は元々、たくさんの食べ物を受け入れられるように作られていないのかもしれない。胃が小さいとか、消化が追いつかないとか、そういう理由だ。
 適当にそう決めつけたルルーシュは、別の作戦に切り替えた。


「あれ? 体調悪いの?」
 足下が覚束ないルルーシュを見たシャーリーは、心配そうに話しかけた。まだ一日の始まりの朝だというのに、ルルーシュの顔はげっそり疲れ果てていた。
「昨晩、少し、体を動かしただけだ」
「え、え?」
 体を動かすのが嫌いなあのルルーシュが! とでも言いたげに、シャーリーは驚いた様子を隠しもしない。
「腹筋と腕立て伏せ、スクワットをしたんだ」
「それだけで、そんなになっちゃうの?」
 シャーリーは何とも言えない顔を浮かべていた。呆れるような、笑いを堪えるような、突然どういう心境の変化だと心配するような、そんな表情だ。
 だが彼女の言うことは尤もである。たったそれだけの筋トレをしただけで、ルルーシュの体はガタガタだ。まだ十代の男子なのにこの有様である。いかに自分の運動量の少なさ、そもそもの筋肉量の少なさに絶望せざるを得ない。
「ちなみに、何回ずつやったの?」
「とりあえず五十回ずつ…」
「五十…!?」
 シャーリーは驚いた様子でそう呟いた。たった五十回程度でそうなってしまうのかと、今度こそ呆れられたのかもしれない。
 そんなルルーシュの悲観的な予想とは裏腹に、返ってきたシャーリーの言葉はルルーシュの体を本気で心配するものだった。
「いきなりそんなにやっちゃ駄目だよ! まずは十回とか少ない回数をこなしていって、体が慣れてから回数を増やさないと!」
「そうなのか」
「そうだよ! 五十回の筋トレを三日間続けるより、たった十回でも百日続けたほうが効果があるのは後者なんだから!」
 確かに、彼女の言うことは一理ある。さすがは現役水泳部員だ、と他人事のようにルルーシュは感心してしまった。そもそも自己流でメニューを組むより、彼女に相談したほうが安全で早かったのかもしれない。
「いきなり体に負担をかけ過ぎるのは良くないよ。あと筋トレもいいけど、有酸素運動も取り入れると効率上がるらしいよ」
 ルルーシュはこの手の知識についてはからっきしだったから、シャーリーの話は大変ためになる。
 シャーリー監修の元、ルルーシュは今一度トレーニングメニューを組み直した。題して”運動嫌いなルルーシュでも毎日こなせる運動メニュー”である。本人の悪気の有無は定かでない。

 彼女の考案した運動メニューをこなす他、たんぱく質を効率よく、たくさん摂取できる食べ物を毎日摂ることにした。筋肉のもとになる食べ物を摂取し、体には程々の負担をかけて筋肉の増強を図る。理論上は完璧な筋トレ方式である。これなら誰でも数週間もすれば効果を実感できるはずだ、と彼女も太鼓判を押していた。
「早ければ一週間、遅くてもひと月経たないうちに効果が出てくるはずだよ!」
「効果っていうのは、具体的にはどういうものなんだ」
「下半身周りが引き締まったり、体力がついて疲れにくくなるよ」
 それはいいこと尽くしである。
 こういったことは無理をし過ぎず、毎日欠かすことなく継続させることが最大の近道であるらしい。

 そもそもスザクが好きだと言ったのは女性の体型のことだ。もしルルーシュが元から筋肉質な体型だったとして、スザクの恋愛対象になるのかと言えば、それはお門違いだ。”こういうのが好き”と、恋愛対象になるか否か、というのは次元の違う話だろう。
 スザクがあの場で”黒髪で清楚っぽい女が好きなんだろう”と指摘されていたときは、ルルーシュは内心ぬか喜びした。男である自分が清楚かどうかは置いておいて、黒髪であることは彼の好みと一致している。
 前述したとおり、スザクに想いを告げる気はルルーシュにはない。だがそれでも、想い人の好みの人間に近付きたいと思ってしまうのはもはや、恋をする人間の本能なのだろう。好きな男性が”髪の長い女性が好き”と言えば、ショートヘアの女性でも髪を伸ばそうとする。ボーイッシュな雰囲気が好きと聞けば、フェミニンな服を好む女性も、普段の衣服にデニムとTシャツを取り入れてみたりする。
 それらの行動の理由は至って単純だ。好きな人の好みの人間になって、今よりも好かれたいと思ってしまう、いじらしく健気な下心があるせいだ。

 最近食べる量増えたね、とおかしそうな顔をして手元を覗いてきたのは渦中の人物であった。突然の至近距離に上擦った声が出そうになったが、なんとか飲み込んだ。
「……この頃、食欲が増えたみたいで」
「珍しいね」
 スザクはルルーシュの手元にある弁当箱を不思議そうに見つめた。以前使っていた弁当箱より一回りは大きいそれには、少し多めに肉が入っている。
 ルルーシュは食べる量が増えた理由について、咄嗟に嘘をついてしまった。きっかけになった本人にそれを告げるのは、なんだか気恥ずかしい気がしたからだ。
「このおかず美味しそう」
 スザクが指したのはアスパラガスのベーコン巻きだ。
「……ほら」
 ルルーシュはそれだけ言うとフォークに突き刺したアスパラガスを差し出した。スザクもそれだけで意図を汲み取ったらしく、嬉しそうに手ずからそれを食べた。
 あっと思ったときには既に遅く、近くにいた生徒が信じられないものを見るような目でその様子を見つめていた。ルルーシュがついやってしまったのは、恋人同士なんかでよくある”あーん”というやつだ。美味しいねこれ、と呑気に感想を述べる男は痛々しい視線にも気がついていない。
「お礼にこれあげる」
 スザクはそう言いながら五十円くらいで売ってそうなスナックの駄菓子を机に置いて、涼しい顔をして立ち去ってしまった。
 その頃にはルルーシュとスザクに向けられていた視線もなくなっていた。彼から貰ったお菓子を口にすると、少し恥ずかしかった出来事はどうでもよく思えた。


 地道な努力を重ねること三週間あまりが経ったある日のことだ。ルルーシュはひとつの問題に直面していた。
「毎日メニューを続けているのに、体型が全く変わらないんだ」
「え、本当?」
「本当だ」
 下半身、とくに臀部や太腿には筋肉が集中しているから、変化があるとしたらまずその部分に表れるという。しかしルルーシュの体には、とくに目立った変化が一向に表れない。毎日行う運動メニューにも体が慣れてきて、少し回数や負荷を増やしたりもした。そういった健気な努力も虚しく、一向に変化の兆しがないのだ。
「ルルは筋肉がつきにくい体質なのかなあ」
「こうも空振り続きだと、モチベーションが下がる」
 ルルーシュは頬杖をついて、憂鬱そうなため息を漏らした。
 こういったことはダイエットと同じで、努力した甲斐が実感できないとやる気が下がるのは避けられない。今まで行ってきたことは全て無意味だったのだろうかと、思いたくなくても思ってしまうのだ。

「二人共、なんの話してるの?」
「あっスザクくん」
(げっ、スザク…!)
 深刻そうな顔つきをしながら話しているルルーシュとシャーリーの姿を見て、首を突っ込んできたのはスザクだ。ルルーシュが体型改造を目論んだ全てのきっかけの人物でもある。つまりこの話を、彼だけには聞かれたくない。
「ルルがね、体型を変えたいんだって」
 そんなルルーシュの願いも虚しく、シャーリーがあっさりとネタばらしをした。
「体型?」
 スザクが不思議そうな目でルルーシュを見つめる。お前が全てのきっかけなんだよ、と言い募ってやりたいが、到底そんな勇気はない。
「食べる量増やしたり、運動もしてるんだけどね」
「食べる量……」
 ああ、あれのことかと、何かを思い出したようにスザクは呟いた。恐らく以前彼に指摘された弁当の件だ。あのときは咄嗟にルルーシュが嘘をついていたが。
「そんなに気にしなくてもいいと思うけどなあ」
 シャーリーにも似たような感想を言われたが、本人にそう言われるとなかなかにショックだ。お前のためなんだよこの馬鹿、とこの場で言ってやりたいが前述したとおり、ルルーシュにはそんな勇気はない。
「筋トレもしてるのに、筋肉がつかないんだって」
「君、体型変わりにくそうだもんね」
 本人に悪気はないだろうが、スザクの所感ひとつひとつが心臓に突き刺さって苦しい。お前のためなんだけどなあ、と弱々しい自分の言葉が脳内で響く。
「スザクくんも何か良いアドバイスとかない?」
「アドバイスかあ」
 顎に手を当てて暫し考え込んだ末、あっそういえば! とスザクは声を上げた。
「僕の部屋、確かそういう本があった気がする。ダイエットとか、筋肉のつけ方とか、そういうのが書いてある本」
「へえ、意外だな」
「中学生くらいのとき、そういうのに興味があったんだよ。本棚と中身ごと寮に運んできたから、確か置いてた気がする」
 スザクにも自分の容姿に人一倍敏感になる時期があったんだなあ、と人知れず感慨深くなった。彼はどちらかというと個人主義で、他人からどう見られようと気にしないタイプだと思っていた。だから、人からどう見られるかを気にする時期があったことが意外で、ルルーシュは少し驚いた。
「ルルーシュ今、失礼なこと考えたよね」
「いや、まさか」
 自然と緩む口元をスザクに指摘され、本人から抗議を受けたことは割愛しておく。


 ページを捲る乾いた音と、悩ましげな、唸るような声が交互に聞こえた。
「何か参考になりそうなこと、書いてあった?」
「いや、これといって特には……」
「そっかあ」
 胡座をかいた脚の上に本を置いて、ページを捲る。その様子を隣にいたスザクが覗き込むような形で、二人で本に目を通していた。

 一冊や二冊くらいだったら学校に持ってきてもらおうと思ったが、数冊あると言われたから、ルルーシュは学校帰りに直接スザクの部屋へ赴いていた。読みきれなかった分はルルーシュが自分で持ち帰って、借りたほうが早い。ただでさえ重い教科書類に加えてこれらの本を持ってきてもらうのは申し訳がない。
 三冊目まで読み終えて、二人は同時に欠伸と伸びをした。どれも書いてあることは似たようなことばかりで、目新しく参考になる手掛かりはひとつも掴めない。強いて挙げるなら、”効果が出るまでには個人差があります”という注記くらいだ。体型が変わりにくい人、筋肉がつきにくい人向けの説明はないのだろうかと、ルルーシュは頭を悩ませた。
「そういえば、どうして突然体型を気にするように?」
 ローテーブルに置かれた麦茶で口内を湿らせたスザクが、なんの気なしに問うた。
 ”だからお前のためだ!”と喉から出かかった言葉を堪えて、ルルーシュは適当な言葉で濁した。
「な、何となくだ」
「……ふうん」
 スザクは気のない返事をして、まだ手を付けていない四冊目に手を伸ばした。自分から尋ねてきたくせに、素っ気ない相槌だ。
「……好きな人でもできたのかと思った」
 ルルーシュは口に含んだ麦茶を吹き出しかけた。人様の部屋で粗相など許されるはずもなく、口元に手を宛てがいながら器官に入りかけたお茶を取り除こうと躍起になった。
「最近の君、雰囲気違うし」
 スザクは何やらぶつぶつ呟いているが、ルルーシュには今ひとつ意味が分からない。
「そういうお前こそ、なんでこんな本を買ってたんだ」
「……話逸らさないでよ」
「なっ」
 お前の方はやけに根掘り葉掘り聞いてくるくせに、俺の質問は一切受け付けない気か。ルルーシュは言外にそう言い含んだ視線をスザクに投げつけた。
 スザクはその視線も意に介さず、透明のガラスコップに残った麦茶をいっきに煽った。反り返った首筋と顕になる喉仏がやけに目について、何となく顔を逸らした。
「なんか健気だよね。恋する女の子みたいで」
「お、おまえ」
「あはは、図星だった?」
 スザクは人好きのする笑顔を浮かべていた。表情は優しいのに、言うことはちっとも優しくない。わざとなのだろうが、今のスザクはちょっと意地悪だ。
「お前が、そういうのが好みだと言うから」
「……へ? えっ、僕?」
 調子に乗って人をおちょくった罰だ、ざまあみろ。
 ルルーシュは内心そう毒づきながら、スザクを謗った。ただしこのやり方だとルルーシュにも相応のダメージがあるのは否めない。
「更衣室で前に言ってただろ。黒髪清純派のエロい体の女が好みだって」
「あっ、あれは関係ないって! なんで君聞いてたの!」
 スザクは顔を赤くして反論し始めた。まったくいい気味である。否定すればするほど肯定の意味が強まるというのに。
 ルルーシュは口角を持ち上げながら、麦茶の残ったコップに口付けた。
「……って、あれ?」
 猛抗議を続けていたスザクは唐突に言葉を切って、そっぽを向き続けるルルーシュの耳の裏を眺めた。
「なんで僕の話と、君の筋トレが関係あるの?」
「……馬鹿じゃないのか」
 なんでそこまで懇切丁寧に説明する必要があるんだと、ルルーシュは呆れて吐き捨てた。
「だってそれじゃあ、君が僕の好みに合わせてるみたいじゃないか」
「……」
 ルルーシュの沈黙はつまり肯定を意味していた。
 スザクの視線に収まっている耳も首の後ろも、きっと真っ赤だ。背後の声はそれきり何も言わず、気まずい雰囲気だけが部屋を満たした。

 束の間の沈黙を先に破ったのはスザクの方だ。それじゃあ、と言葉を切り出した彼の思わぬ提案に、恥も外聞もなくルルーシュは慌てふためいた。
「なんでそんな話になるんだ!?」
「僕のために頑張ってくれてたんだよね」
 見せてよ、としきりにせがむ男はルルーシュの服の裾を引っ張って離さない。

 ――それじゃあ見せてよ、ルルーシュの体。
 斜め上過ぎるスザクの提案に、さすがのルルーシュも断固拒否した。そもそも、ひと月ほど経ってもなかなか体型が変わらないから解決策はないかと、そういう目的でスザクの部屋を訪れていたのだ。役に立つ本があるかもしれないというスザクの提案のもと、ルルーシュは情報収集をしていただけなのに。
 見せたところで何ら変化のない貧相な体だ。いくらなんでも趣味が悪いぞと凄んでも、彼はあっけらかんとしている。
「恥ずかしいなら、僕も一緒に脱ぐから」
「はっ?」
 ずるずると後退していた体はとうとう狭い部屋の壁に追いやられ、ルルーシュは逃げ道を失った。そんな状況で突拍子もない的外れな提案をされ、もう思考が追いつかない。なんでお前が脱げば俺が脱ぐと思うんだよ、と頭の冷静な部分が突っ込みを入れた。
「だからって、し、下まで脱ぐ必要…!」
「あるよ」
 スザクは何の躊躇いもなく上半身の肌を晒したあと、ベルトに手をかけた。
「わ、分かったから、お前はちょっと落ち着け」
 スザクの言葉も心理も何一つ理解できずにいたが、咄嗟に出た言葉は抑止力になったらしい。
 ルルーシュの言葉に微笑んだスザクは、金具が解かれたベルトから手を退けた。

 しかしこれは何となく、雲行きが怪しい気がする。
「ほら、ルルーシュも見てないで」
「みっ見てない!!」
 部屋の照明の逆光になった彼の体にほんの少しだけ見惚れていたのは事実だ。無駄がなく均整のとれた体は同性から見ても惚れ惚れするほど美しく、可愛らしい顔つきからは想像つかないほど色っぽい。なだらかな腹筋の凹凸や、薄いがしっかりした胸板に視線がつい吸い寄せられてしまう。
「好きな人の裸に興味があるのは、普通だよ」
「え、あ」
 ルルーシュが一瞬動揺したすきをついて、スザクが詰め襟の金具に手を伸ばした。
「僕に脱がされるのと、自分で脱ぐの、どっちがいい?」
「……自分で、脱ぐから」
 その返答を聞き入れた彼はくすりと笑って、手を引っ込めた。


 蕩けた緑はルルーシュの一挙一動をまじまじと見守り、監視した。いっそ痛い視線は体に穴を開けるのではないかと思えた。
 ワイシャツのボタンを外す指先は頼りなく、まるで赤子のようにもたついた。その様子に彼は何も言わず、柔らかい表情も変えず、ただ静観し続けた。それが逆に恐ろしく、ルルーシュをひどく緊張させた。
 ボタンをひとつ解くたび、素肌が外気に触れて、彼の目に晒される肌の面積が増えて、体が震える。そういうちょっとした身体の変化にも彼は目敏く気づいているのだろうかと思うと、じわじわと羞恥が込み上げてきて仕方がない。変な汗が背筋を伝って、流れるのを感じた。
 シャツの前ボタンを全て外し、ゆっくりと裾から腕を抜いた。身じろぐたびに起こる布擦れの音にすら敏感になって、脱衣すらままならない。
「綺麗だ」
 惜しげもなく晒された素肌に、スザクはそう呟いた。何を見て綺麗だと、お前の目は節穴かと叫びたくなる。薄っぺらくて白いだけの、平らな男の胸のどこがいいんだ。
「下も自分で脱げるよね」
 スザクは制服のスラックスの裾を引っ張った。絶句するルルーシュの様子を他所に、彼はしきりに脱ぐよう指示した。
 ルルーシュは黙ってスラックスのベルトを解いて、座ったまま腰を上げた。折畳んだままの脚はせめてもの抵抗で、下着ごとするりと引き抜いたスラックスを体のそばに置いた。
 体育座りのように体を縮こめて、局部が見えないように両足をぴったり閉じた。そんなルルーシュの様子を見たスザクは何かを思い出したかのように、途中まで手をかけていた自らのベルトに再度手を伸ばした。
「ああごめん、僕も脱ぐね」
 別に頼んでもないのに、スザクは謝りながら立ち上がった。
 なんの躊躇いもなく、潔く下着ごとスラックスを脱ぎ捨てる動作に、ルルーシュはぎょっとして言葉を失った。彼は何も言わずルルーシュの隣にしゃがみ込んだかと思うと、ようやく口を開いた。
「見せて」
「なっ、な…!」
「さっきも言っただろ。好きな人の裸に興味があるのは普通だって」
「だからって、こんな」
 スザクが距離を詰めてくると、彼の柔らかいそれがルルーシュの太腿に当たって、思わずひいっと声を上げてしまった。
「ルルーシュの成果、僕が見てあげる」
「い、いいって」
「僕が見たいんだよ。ルルーシュ、頑張ってくれたんだろう。褒めてあげたいから」

 熱を孕んだ瞳はルルーシュの拒否権を奪い、従順にさせる魔力があった。でないとこんなこと、させるわけがない。
 壁に手をついて膝立ちになったまま、背後から覆い被さる影にルルーシュは怯え、心のどこかで微かに欲情していたのかもしれない。下半身を這い回る逞しい手指の感触に気を取られていると、耳にかかる熱い吐息に頭の芯が溶けそうになる。
「見た目では分かりづらいけど、ちゃんと筋肉はついてると思うよ」
 揉み解すように触れる手のひらは、今は太腿を撫でていた。武骨だがしなやかな指は、ルルーシュの白過ぎる太腿の外側と内側を行ったり来たりしている。その動きがどうしても擽ったくて、しきりに膝頭で床を擦ってしまう。その仕草を見つけた男は、吐息だけでふと笑った。
「あ、どこ触、や…」
「お尻はまだ柔らかいね」
 臀部と太腿の境に触れた手は、尻の肉を持ち上げてやわやわと揉んだ。己の肌が彼の手のひらに吸い付くような感覚がして、ごくりと唾を飲み込んだ。
 人の筋肉は太腿と臀部に多くついている。だから筋肉トレーニングをすると、まず真っ先に筋肉がついて引き締まりやすい場所でもあるのだ。上半身よりよっぽど痩せやすく、効果が表れるらしい。
「お尻小さいなあ」
「何、言っ…あ…」
 褒められているのか馬鹿にされているのか辱められているのか、もう分からなかった。
 不意に腰に腕を回され、何事かと思っているうちにそのまま外側に引かれた。つまりは壁に体を向けつつ膝立ちのまま、尻を突き出すような格好にさせられている。想像するだけで憤死ものだ。
「あっ、何して、お前!」
「背中には筋肉ついてるね」
 呑気な声が聞こえて、ルルーシュは首を横に振った。そんなのはどうでもいいから、この体勢はどうにかしてくれと、そう乞うた。
「僕のために頑張ってくれたんだよね。嬉しい」
 喜色を滲ませた声に聴覚を刺激されると、ルルーシュの抵抗も途端に鳴りを潜めてしまう。
 満足のいく成果は得られなかったが、それでも本人に褒められると嬉しくなってしまう。我ながら現金だと思う。
 スザクは臀部に触れていた手を腰から背筋に動かして、するすると撫でた。あまりの擽ったさに身悶えると、可愛いね、と湿っぽい声が背後から聞こえた。
「ねえ、もっと体力つくかもしれない運動、僕知ってるんだけど」
「っ、え?」
 上半身を撫でていた不埒な手が、今は再び下半身のあちこちを這い回っていた。太腿の内側をなぞられるたびに腰が震えてしまって、どうにもならない。裏返ったような、変な声が飛び出そうになるのを堪えるだけで精一杯だ。
「ちょっとお尻が小さくて、入るか心配だけど」
「……何の話をしてるんだ」
「ううん。君は何もせず、じっとしてて」
 耳元で囁かれた言葉はとびきり甘く切なく、艶めいた吐息が三半規管を麻痺させた。ルルーシュはもう何も考えられなくなって、自分より一回りは逞しい腕にその身を任せる選択肢を選ぶ他なかった。
「あ…うぁ、あ」
 妖しい手つきは先程よりひどく苛烈に、ずいぶん大胆になって、ルルーシュの体を舐め回すように動いた。
 ルルーシュは壁に額を擦りつけて、壁面を爪で掻くくらいしか羞恥を往なす術がない。これから訪れる未知の熱源においては、恐怖と期待の狭間で体を震わせるしかなかった。



 翌日、ルルーシュの手元にある弁当箱を見遣ったシャーリーは、あれ? と首を傾げながら尋ねた。
「食べる量、元に戻したの?」
「ああ、それは、その」
 ルルーシュは気まずそうに視線を右往左往させている。やっぱり筋肉がなかなかつかなくて、諦めてしまったのだろうか。
 シャーリーがおおよその見当をつけると、隣にいたスザクが話に混ざってきた。
「昨日、ルルーシュにぴったりなトレーニングがあったからさ、試してみたんだよ」
「あ、そうなんだ」
 スザクの部屋にあったという本の中に、ルルーシュに合う筋トレ方法でもあったのだろう。素人目線であれこれ提案するより、そういった専門書を元にして本人に合う方法で続けたほうがよっぽど効果を得られるに違いない。
「良かったね、ルル」
「……」
「まだルルーシュは慣れてないみたいで、昨日もちょっと疲れてたんだよ」
 スザクは眉を下げながら、そう付け加えた。言われてみれば確かに、どことなく疲労感が滲み出ていたし、表情も硬い。スザクは一見優しそうだが、案外こういったことには妥協がなく、容赦がないのかもしれない。
「大変そうだけど、頑張ってね。継続は力なりだよ、ルル」
 シャーリーの言葉を聞き入れたルルーシュはますます顔を顰めて、苦々しい表情を作っていた。