未必の故意

 親指と中指の間でくるくる回るシャープペンシルをぼんやり眺めていると、不意に彼がこちらを振り向いて、ふふんと笑った。頬杖のせいで見えない口元は持ち上がっているに違いない。
「この問題分かる人」
 教卓に立つ教師が生徒全員に呼びかける。しんと静まった教室内に形容しがたい空気が流れた。どうか自分が当てられませんように、と心の中で祈るのはスザクだって同じだ。
 昼食を食べ終えた五限目、窓際後方の座席は午睡にはうってつけの位置である。もちろんスザクは誰かさんみたいに堂々と寝ることはせず、瞼を持ち上げているだけで精一杯という状況で持ちこたえていた。つまり、直近十分ほど教師の話を全く聞いていない。耳に入る音情報がすべて子守歌に聞こえるのだ。
 斜め前に座る男の後ろ姿を見遣ると、今日は居眠りせず起きている。珍しいこともあるんだな、と思っていると、彼はペン回しをしていた手を止めて、はいと挙手した。
 不真面目で、ちょっと素行が悪くて、頭がいいのにちょっと手を抜く癖のある彼が、積極的に授業に参加した。サボタージュを決めるか居眠りの常習犯である彼が、自ら挙手して難解な問題に答えている。そもそも、きちんと授業内容を聞いていたんだな、というある種の感動すら覚えた。
「y' = 3x2 - 2x + 1です」
「正解」
 意味のよく分からないグラフの傍に、彼が述べた答案をそっくりそのまま書き込んでおく。眠気のせいでミミズがのたうち回るような筆跡になってしまった。
 スザクはその関数が何を表しているのかもよく分からず、途方に暮れた。

「ルルーシュのくせにめっずらしー」
「なんとなくだ」
 五限目が終わったあと、リヴァルはさっそく彼に絡んでいた。学校の授業なんてくそくらえだ、という姿勢は彼とリヴァルに共通していた点だったから、余計気になって仕方がないのだろう。俺とお前は不真面目悪友仲間なのに! と縋りつくリヴァルに、ルルーシュは呆れていた。
「教科書読めば大体分かるだろ」
「それはルルーシュだけだっつーの」
 どこか嫌味で不遜なのに、そういう言い草も様になってしまう。正直羨ましいと思った。


 その日の放課後、教室の掃除当番だったスザクは意外な光景を目にすることになる。
 教室の掃除当番といってもその中で役割分担があって、箒で床を掃く係、机や窓を拭く係、黒板の掃除をする係などがある。その日スザクは余っていた箒で床掃きをしていて、終わったら生徒会室に顔を見せようと考えていた。
 塵取りでゴミを集めて、じゃんけんで負けた人がぱんぱんになったゴミ袋を捨て場まで持っていく。それが教室の掃除作業のおおまかな流れである。
 いつもじゃんけんでは負け続きのスザクが、今日は珍しく勝つことができた。このまま生徒会室に直行しようとしたとき、既に生徒会室へ向かったと思っていたルルーシュの姿を見つけた。
 呼び出しでもされていたのだろうか。不思議に思ったスザクがそう声を掛けようと、歩み寄ろうとしたとき、彼は別の生徒へ声を掛けた。
 大きな黒板に背伸びしながらチョークの跡を消している、小柄な女子生徒だった。どれだけ背伸びしても上の方に書かれた文字には到底届かない。背伸びしたりその場で飛んだり、黒板消しの先端で消そうと奮闘していた。
「俺が手伝おうか」
「え?」
(は?)
 スザクは危うく出かかった声を喉元で堪え、成り行きを遠目で見守る。
 突然手伝おうか、と声を掛けられた女子もひどく驚いた面持ちで、ルルーシュの顔を凝視している。なんせ、他人の掃除の手伝いどころか自分の持ち場さえサボろうとする男である。一体どういう風の吹き回しだろうか。
「届かないなら手伝うよ、そのほうが早いだろう」
「う、うん…。ありがとう」
 女子生徒の手にあった黒板消しをひょいと奪い取ったルルーシュは、率先して掃除を行っている。明日は槍でも降るかもしれない。えらく親切な彼の態度を前にして、隣に立つ彼女の頬は心なしかほんのり高潮している。
 すっかり綺麗になった黒板を前にして、ルルーシュはそれで気が済んだと言わんばかりに彼女の前から立ち去った。黒の制服に飛んだチョークの粉を手で叩きながら、彼は涼しい顔を浮かべていた。恩を売った見返りを寄越せとせびるわけでもなく、本当に親切をしてやっただけだ。

「一体どうしたのさ」
「何が?」
 教室を出たルルーシュの後を追うようにして、スザクが前方に居る彼に声を掛けた。ルルーシュは首を傾げて、何のことだととぼけている。もしくは本当に、自覚がない。
「掃除を手伝うなんて珍しい」
「ああ、見てたのか」
 スザクが珍しいものを見るような目でルルーシュを見つめた。
 直後、スザクにそんな顔をさせている理由に得心がいったらしい彼は、少しかぶりを振ってこう答えた。
「今朝から少し、機嫌が良いんだ」


 頼まれていたもの買ってきましたよ、とミレイに声を掛けたルルーシュの両手には、大きなビニール袋が握られている。それを生徒会室の中央にあるテーブルへ乱雑に置いた彼は、何てことない顔をして席に着いた。
「ルルーシュのくせに気が利くじゃない! どうしちゃったのよ」
「まあ、たまにはいいじゃないですか」
 袋の中を一同で覗き見れば、中にはアイスやお菓子、ジュースの類がぎっしり入っていた。
 掃除のあと、生徒会室へ直行しようとしたスザクに、ルルーシュは”野暮用がある”と言って姿を消してしまっていた。まさかわざわざこれを売店まで買いに行っていたのかと、驚きを通り越して不気味なくらいだ。
 放課後に駄弁りながら、軽くつまめるお菓子があればいいのにねとミレイが零していたことを思い出す。それを覚えていた彼は自らの足でそれを調達してきたのだ。一体どういう心境の変化か、ルルーシュの変わりように一同は気味の悪さを覚えた。
「本当にどうしちゃったの?」
「俺は機嫌が良いんだ」
 何かあったのかと問われれば、彼は”機嫌が良い”の一点張りである。良いことがあったに違いはないが、それが何なのかは頑なに教えてくれなかった。どうせ妹のナナリーにプレゼントでも貰ったんじゃないのとリヴァルが呟いたが、そんなところだろうか。プレゼントひとつでこんなにも人当たりが良く、親切になれるなら、ナナリーには妹馬鹿の兄へ毎日プレゼントを贈ってやってほしい。
 ルルーシュが買ってきてくれたお菓子を一斉に開け、机の上に並べた。パーティー開けしたポテトチップスは至って普通のものなのに、みんなで食べるとなんだか美味しく感じる。紙コップに入れたジュースで乾杯もしたが、別に祝い事もない。ミレイ会長が”生徒会のさらなる発展を願って”と音頭を取ったが、実のところ仕事といえば雑談と、たまに行う事務処理くらいである。
「何か良いことあったの?」
 中央の席で朗らかに笑うルルーシュの隣へ、スザクは座った。話題の中心はどうやらミレイで、今までに断り続けてきたお見合い相手の話を繰り広げている。
「ん? ああ、まあ」
 彼の飲み物にアルコールは入っていないのに、いつもに比べてやけに笑顔が絶えない。歯を見せて大笑いすることもあまりないのに、今はお腹を抱えてけらけらと笑っていた。ルルーシュのこういう姿や顔はあまり見れないから貴重である。
 ミレイのお見合い断絶話を話半分に聞き流しながら、ルルーシュはスザクのほうへ向き直った。何やら可笑しそうにスザクの顔を見つけて、ふふと微笑んでいる。それは嫌味な笑い方でなく、喜色と好意が滲んでいた。
「お前には特別に教えてやる」
 ルルーシュがスザクの肩を掴んで、体を引き寄せた。紙コップに浮かぶジュースの水面がたぷんと揺れて、溢しそうになる。
 彼はスザクの耳元に手を当てて、小声で伝えた。それは優しく甘い響きで、スザクがルルーシュと秘密を共有する瞬間だった。
「好きな人ができたんだ」
 スザクは目を瞬かせながら、ルルーシュの顔を見た。彼の勝気な眉も、凛とした瞳も低い声も、甘ったるくて仕方がなかった。それは百人中百人が思えるくらい、彼の顔は恋をする人の表情をしていた。
 ルルーシュが異性に好意を抱いている。あの彼が恋をしている。舌の上で転がすだけでも気恥ずかしい言葉は、ルルーシュには何だか似合わない気がした。彼はいつも飄々としていて、他人に深く踏み入ったり踏み入られることを良く思わない。他人の惚れた腫れたといった話題は興味を示さないし、馬鹿にするような態度を取ることもある。
 そんな男が自らの恋心を自覚し今朝からご機嫌とは、珍しい話があるものだ。
「誰なのか、気になるか?」
「まあ、気にならないと言えば嘘になるけど」
 ルルーシュは頬杖をつきながら、スザクの顔を覗き込んで尋ねた。そういう聞き方をするということは、己に聞いてほしいのだろう。図々しい彼の顔を見遣りながら、スザクはそれとなく尋ね返した。
「僕の知ってる人?」
「ああ」
「…同じ学校の人?」
「そうだなあ」
「もしかして同じクラス…?」
「ははは」
 スザクはそこで、やっと異変に気がついた。ルルーシュは何が面白いのか、ニタニタといやらしい笑みを作っていた。まるで何も知らないスザクを小馬鹿にし、嘲るように嗤っていたのだ。
「ルルーシュの言ってること、それ本当?」
「さあ、どうだろう」
 すこぶる機嫌の良いらしいルルーシュは、渋面を作るスザクの顔を見てご満悦なようすだ。これでは彼の発言に信憑性など感じられないし、ルルーシュに好きな人がいる、という話すら怪しい。いよいよ彼の話をいちから信用できなくなったスザクはかぶりを振った。
「君の言うことは信用ならない」
「尤もだな」
 口元にゆるい笑みを浮かべ、自嘲気味に彼は呟いた。いつもの軽口の感覚でなんの気なしに発した言葉は、無意識のうちに彼を突き放すような言い方になってしまったかもしれない。
 真偽が曖昧なまま会話は終わり、スザクは結局ルルーシュがご機嫌な理由を聞くことができなかった。


 そりゃあ高校生にでもなれば誰だって、人を好きになったり誰かと付き合ったりしてもおかしくない。思春期、青年期を迎えた今ならむしろそれが正常だ。異性との交遊や色っぽいことに興味があるのはスザクだって同じである。
 ルルーシュに好きな人ができようと、誰かと付き合おうと、それはなんらおかしいことじゃない。今までそういった、浮ついた話が彼の口から出てこなかったことのほうがよっぽど不思議だ。

 好きな人ができた、とわざわざ己に打ち明けるということは、相談に乗ってほしいか応援してほしいか、告白を手伝ってほしいかのいずれかだとスザクは見当をつけていた。ルルーシュにとって一番親しい友人はスザクで、スザクにとってのルルーシュもそうだからだ。
 スザクだけに打ち明けるということは、つまり周りには黙っていてほしいということなのだろう。好きな人ができて恋をして、ルルーシュが毎日浮かれてるなんて知れたら、周囲には何と言われ揶揄られるか知れたものじゃない。

 相手がどこの誰なのか教えてくれたら、もちろん相談にも乗るし背中を押してあげたい。スザクは純粋に彼の恋を応援してやりたいと思っていたが、ルルーシュは頑なに相手を教えてくれないし、根掘り葉掘り尋ねたところで躱されてしまう。その話術と計算高さを行使すれば口説き落とすのも容易だろうに、ルルーシュは依然として片想いを続けているらしい。


 いつもならどこか冷たい温度をしている目が、とろりと蕩けてスザクを射抜いていた。少し気まずくなって思わず視線を逸らすと、机に寝そべる男は上目遣いで微笑んだ。その口元は人を嘲る悪魔のような表情でなく、慈しむような優しい形をしている。
 恋をすると女性は綺麗になるという。その定説は男性にも当てはまるのだろうか。スザクの目から見てもルルーシュは以前より、雰囲気がずいぶん優しくなったように思う。今だってそうだ。柔らかく微笑みスザクを見つめる甘い瞳は、何かをひっきりなしに囁いていた。彼のそんな表情を、スザクは初めて見た。
 好きな人ができたんだ、と教えてもらってから数日経ったが彼は相変わらず機嫌が良い。退屈な授業の合間の休み時間だって、スザクがルルーシュの顔を覗き込めば花が綻ぶように微笑んでいる。小テストの点数が良かったのかと問えば、曖昧な相槌を打ってどちらでもないような顔をした。
「そんなに好きなの、その人のこと」
 常に機嫌が良いということは、好きな人のことをいつも考えているからだろう。いつも考えてしまうほど、その人のことが好きなのだろう。
「ん? ああ、まあ…」
 曖昧に言葉を濁した彼は、スザクの顔を見てはにかんだ。

 あのルルーシュがこれほど夢中になって想いを寄せる相手とは、一体どんな人物なのだろう。そんな疑問は真っ先に浮かぶが、そもそもルルーシュが好きになった相手が身近な人間とは限らない。今をときめく芸能人か、よく行くコンビニの店員かもしれない。もしくは最近読んだ漫画のヒロインや、映画の主人公の可能性だってある。
「お前が考えていることはたぶん、間違っていると思う」
 スザクは何も言ってないのに、ルルーシュは突然そんなことを言い出す。適当なことを言って、スザクの出方を窺っているのかもしれない。
「じゃあ正解は何なのさ」
 だからスザクも試すように、ルルーシュへ尋ねた。
「それは…い、言えない」
 まだ言えないんだ、と消え入りそうな声でルルーシュは付け足した。やけに赤くなった頬は髪の毛で隠しきれておらず、スザクの方まで照れくさくなってしまう。なんで照れるんだよ、と問い質した声はチャイムの音でかき消されて、彼の耳には届かなかった。

 恋というのは、本当に人を変えてしまうんだなあとスザクは感慨深くなった。その上、あの頑なで飄々としている、自尊心の高い男をそこまで変えてしまった女性に興味すら湧く。スザクも知らなかったルルーシュの一面を、その女性はこんなにも引き出してしまうのだ。同時に、スザクの知っているルルーシュの表情は、ほんの僅かでしかなかったんだと知らされた。それが少し寂しくて、何となく悔しかった。
 しかし、男友達か好きな異性なんて、優先順位は比べるまでもない。ルルーシュに彼女が出来たら遊べる機会も減るのかなあ、と置いて行かれた気分になった。


 なあ、あれどう思う? とリヴァルに耳打ちされたスザクは首を傾げた。リヴァルの視線の先には、生徒会室のテーブルの端の席で本を読むルルーシュがいる。彼は分厚い歴史書か自叙伝のような書物に読みふけっているようで、静かな手つきでページを捲っていた。読書している彼の姿に何の違和感も感じられないスザクは、何のこと? と尋ねながら目を瞬かせていた。
 本日の放課後、生徒会活動に出席しているのはルルーシュとリヴァル、スザクの三名のみであった。ニーナとカレンは体育の補修、シャーリーは兼部している水泳部に顔を出していて、生徒会長のミレイは野暮用と言って姿を消していた。
「どうも何も、最近のルルーシュだって! なんかフワフワしてるっていうか、上の空じゃん」
「そうなの?」
「スザクお前、変に思ってないの?」
「リヴァルがそう言うなら、そうなのかもしれないけど…」
「なんだよそれー!」
 スザクは苦笑いしながらとぼけてみせたが、もちろん彼の変化にはとっくに気づいていた。やけに上機嫌でなんでも率先してやるし、かと思えば妙に抜けていて、どこか上の空だったりする。以前の神経質な彼からは想像つかないほど、警戒心が緩く少し鈍臭い印象が近頃感じられるのだ。
「今だって、オレたちあいつの噂話してるのに、ちっとも気づかないじゃん」
「それは、まあ、珍しいかも」
 地獄耳なのか察しが良すぎるのか空気が読めすぎるのか、ルルーシュは自分にとって良くない話をされると、全部聞こえているぞと横槍を入れることがよくあった。別にスザクたちが交わすルルーシュにまつわる話は、あからさまな悪口ではない。ただ、普段はスカして格好つけな彼だから、昔の恥ずかしい写真とかエピソードとか教えてよ、なんていう話題になることが多々ある。そのたびに彼は、一体何の話をしているんですか? と愛想笑いを浮かべて会話に混ざろうとするのだ。
 今交わされているスザクとリヴァルの会話だって、ルルーシュにしてみれば良く思わない話題だろう。なのに澄ました顔で本から目を離さない。警戒心が緩く随分と鈍くなった彼の顔を、スザクはちらりと盗み見た。
「スザクはなんでだと思う?」
「さあ、なんでだろうね」
 物分かりの悪い振りをして、鸚鵡返しで答えた。スザクはルルーシュが上機嫌な理由も、浮き足立っている雰囲気を纏っている理由も、全部知っている。でもこれはルルーシュがスザクにだけ教えてくれた禁断の秘密だ。そう易々と友人を裏切るような真似はしない。
「オレの予想では、ルルーシュはたぶん、好きな人がいる!」
 ああ、大当たりだ。リヴァルだって伊達にルルーシュの悪友を自称しているわけじゃない。普段は調子よくおちゃらけているが、リヴァルはきちんと彼の本質を見抜いた上で友人付き合いをしているんだな、と感心してしまった。
「スザクは俺の予想、当たってると思う?」
「どうだろうな。僕はそういう話、聞いたことないし」
 適当な嘘をついて、先ほどから核心を突きすぎるリヴァルの言葉を躱した。背中に伝う嫌な汗が止まらない。
「あいつってどんな人がタイプなんだろうなあ」
「……真面目で清楚な感じの人とか?」
「一理ある!」
「それで案外、おっちょこちょいな一面なんかに弱そう」
「世話焼きでお節介っぽいもんな、ルルーシュのヤツ」
 男だけが集まった空間だとどうして下世話な話で盛り上がってしまうのだろうと、スザクは心中で苦笑した。

 ルルーシュがどこの誰を好きになったのかは、スザクも聞かされていない。だからつい、リヴァルの問いかけに素で答えてしまった。ルルーシュの想い人が誰でどんな人なのかは、スザクもずっと気になるところだった。
 どんな異性がタイプだとか誰が好きとか、そういう惚れた腫れたの話題が二人の間に上がることは少ない。最近流行りのモデルが可愛いとか、やっぱりこの女優さんは綺麗だねとか、その程度だ。偏った趣味嗜好も持っていない。だからスザクの述べた見解は何の裏付けもない、ただの想像と勘である。ルルーシュは清楚系が好きそう、というスザクの勝手なイメージは彼の妹の印象に影響を受けている。
 ルルーシュの妹であるナナリーは生まれつき体が弱く、弱視でもあった。だからなのか、ルルーシュの妹に対する思いやりは溺愛ぶりは並大抵のものじゃない。
 ナナリーは生粋の箱入り娘かのように奥ゆかしく、育ちの良いお嬢さんのような振る舞いを欠かさない。兄であるルルーシュはそんな妹を常日頃大事にしてやっているから、自然とそういう異性を好きになるのではないか。浅はかながら、スザクはそう考察した。
「でもルルーシュってシャーリーと仲良いし、ああいうそそっかしい奴が好きなのかもよ?」
 言われてみれば確かに、ルルーシュはシャーリーと仲が良い。というかシャーリーは明らかに、ルルーシュへ対して恋心を抱いている、ともっぱら噂だ。彼女は現時点で認めていないが、周囲からは指摘され続けている。
 シャーリーは清楚で真面目な女の子、という表現とは正反対の、快活で元気な女の子だ。少し強引で無鉄砲な面もあるが、何より表裏のない素直な性格が誰から見ても好印象だった。誠実で頑張り屋さんな彼女の姿を見て、彼も心が惹かれたのかもしれない。

「じゃあ直接聞いてみようぜー!」
「え、えっ」
 リヴァルは立ち上がるなりスザクを道連れにする勢いで腕を引っ張り、こちらの思惑に気が付かないルルーシュに声を掛けた。
「ルルーシュってさあ、最近好きな人でもできた?」
「ちょ、ちょっとリヴァル…」
「……なんだ、急に」
 渋々といった調子で本から顔を上げた彼は渋面を張り付け、仰々しく腕を組んだ。見るからに機嫌の悪そうな態度に、スザクはまあまあとリヴァルを宥めようとした。
「だってさ、ルルーシュこの頃、ぼーっとしてること多いじゃん?」
「気のせいだろ」
「まさか! スザクもそう思うよ、な?」
 突然リヴァルに話を振られたスザクは、ええと、と口ごもった。この状況ではまるで、スザクがリヴァルに”ルルーシュは好きな人ができたから最近上機嫌なんだよ”と告げ口したかのようだ。リヴァルが真相に辿り着いたのは彼自身の洞察力と勘のおかげであって、スザクは一切ヒントを出していない。
「ふん、くだらない」
 ルルーシュはリヴァルの問いかけも威勢の良さもその一言で一蹴して、そっぽを向いた。一貫して黙秘を続けるルルーシュの顔を何となしに覗き込んだが、スザクからはよく見えない。
「本人が話したくないなら、仕方ないんじゃない?」
「ちえー、また今度教えてもらおっと」
 リヴァルはぶつくさ文句を言いながら元居た席に着いた。スザクもその隣に着いて、それきりこの話題はなくなった。


「さっきはごめん、ルルーシュ」
「何だ?」
「ほらリヴァルが聞いてただろう、好きな人がどうのこうのって」
「ああ」
 リヴァルが教室に忘れ物をしたとかで席を立った間、スザクはルルーシュに先程のやり取りを謝った。リヴァルに引きずられる形といえど、からかったのは事実だ。それに、あの状況では彼の秘密をスザクが吹聴したと疑われてもおかしくない。誤解されていたら嫌だな、とスザクは思った。
「あいつは変なところに目敏いからな」
 呆れるように呟いた彼の横顔はずいぶん爽やかで、不愉快だったり怒っている様子もない。意外にもあっけらかんとしていた様子に、スザクのほうが拍子抜けした。
「どうせ俺が誰が好きなのか、当て合いでもしてたんだろう」
「そ、それは」
 短絡的な会話内容まで見抜いてみせた彼は、からかうように笑っていた。以前の彼なら馬鹿にするな、と眉を顰めていただろうに、ずいぶんと寛容的になったものだ。ルルーシュの言う"最近はゴキゲン"効果がこんなところにも表れていた。
「ルルーシュは今もその人に、片想いなんだよね」
「…そうだけど」
「告白とか、しないの? 相談なら乗るよ」
 厚かましいかもしれない、と思いつつ、スザクはルルーシュに提案してみた。スザクだって一人や二人くらい、女子との交際経験はある。長続きもせず、そもそも恋愛感情がそこにあったのかも定かではないが、付き合っていたという事実は残っている。何の参考にもならないだろうが、客観的な助言くらいならできるだろう、とスザクは考えていた。
「スザクはどんなところで告白されたいとか、あるか?」
「え、僕?」
 ルルーシュの瞳が惑うように揺れたのは、たぶん照れくさいからだ。自分がちょっとおかしくて、恥ずかしいことを尋ねている自覚はあるらしい。だからスザクは努めて冷静に、なんてことないように答えた。
「相手の部屋とか」
「うん」
「遊びに行った帰り道とか、放課後の教室とか…」
 言っているうちに自分でも気恥ずかしくなったスザクは、そこで言葉を止めた。しげしげと興味深そうに顔を見つめてくるルルーシュの視線が、ますます居心地悪くさせた。
 もしや今、自分はとんでもなく恥ずかしいことを言わされたんじゃないか。スザクが疑心暗鬼になり始めた頃、生徒会室の扉が開かれた。
 そこには、教室に忘れ物とやらを取りに行ったリヴァルと、今まで姿を消していたミレイが立っていた。

 教室から生徒会室へ戻る途中、ミレイとばったり遭遇したリヴァルは彼女に備品運びを手伝わされ、散々肉体労働をさせられた、と愚痴を零した。
「リヴァルが丁度いいところに来てくれて助かったのは本当よ?」
「重い物運びたくないからってオレに押し付けただけじゃないすか!」
 それでもミレイの言うことを聞いてしまうあたり、リヴァルは彼女に到底頭が上がらないのだろう。そしてミレイはそんな彼の扱い方をよく心得ているのだ。
 そんな二人のやり取りに一同が笑っていると、ふいに校内放送が流れた。放課後の部活動時間の終わりを告げる、下校アナウンスだ。"校内に残っている生徒は帰る準備をしてください"と無機質な録音音声と管楽器のクラシック音楽が流れる。あと十五分もすれば学園を巡回する警備員が戸締まりを確認して回り、もし生徒が残っていれば早く帰りなさい、と咎められるのだ。
 その場にいる全員が鞄や持ち物を片付けていると、ミレイが声を上げた。
「今日の戸締まりジャンケン!」
 声高らかに拳を掲げた彼女は、部屋の真ん中でそう宣言した。一方の手には鍵が握りしめられている。
 一日の終わりに生徒会出席者でジャンケンをして、負けた者が窓閉めと出入り口の扉の鍵締めを行い、ごみ捨てをして、鍵を職員室に返却する。いつの間にか始まっていたルールはすっかり定着し、今では当たり前のように毎日行われていた。
「ああ、俺がやりますよ」
 が、今日はルルーシュが自ら戸締まり当番を買って出た。
「いいの、ルルーシュ」
「はい。このあと少し、用事があるんでついでにやっておきます」
 雑用を自ら率先して行うのは以前の彼なら想像もつかないが、最近のルルーシュを見ていると、積極的な行動も腑に落ちる。ミレイは、なら任せたわと鍵を手渡した。

 リヴァルとミレイが先に出て行ったあと、スザクは窓閉めを手伝っていた。ルルーシュはこのあと用事があるからついでに、と言っていたが、下校時間まで残り少ない。一人で戸締まりをしていたら、あっという間に時間ギリギリになってしまう。
「窓閉め終わったよ」
「ああ、すまない」
 ルルーシュは片手にゴミ袋と鍵を持って、もう準備を終えていた。スザクも机に投げ出していた自分の筆記用具やらを、急いで片付け始めた。

 昼間はあんなに騒がしかった生徒会室も、この時間になればすっかり静かで物悲しさすら感じられる。とっくに聞き慣れた、でも曲名は知らないクラシック音楽は優しいのにどこか寂しい。それは一日の終わりを告げる合図だからだろうか。
「なあスザク、俺には好きな奴がいる」
 やりかけていたプリントをファイルに挟んでいると、ちょうどスザクの隣に立っていたルルーシュが口を開いた。
「うん、知ってるけど」
 ちらりと彼の顔を窺うと、どことなく真剣な顔つきをしていた。少しぎょっとして、スザクは思わず正面に向き直った。
「これはお前にしか教えてないんだ」
「僕なら口が硬そうだから?」
 彼曰くこのあと用事がある、と言っていたのは、もしやこのあと想い人へ告白しに行くためか。スザクはルルーシュからの脈絡のない話を半分聞き流しながら、そう予想した。今はちょうど放課後だ。学園内は人も疎らで、まさに絶好のタイミングである。
「違う」
「僕に相談したかったから?」
「違う。まだ分からないのか、お前」
 え? と目を瞬かせた直後、ルルーシュは何かを隠すように俯いた。窓から差し込む西日で足元の影がゆらゆら揺れて、まるで今の彼の心のようだと思った。
 ルルーシュはスザクに何かを言おうと、大切なことを伝えようとしている。それは何となく察せた。しかしルルーシュは一歩踏み出す勇気がなく、スザクは残念ながら察しが悪く、彼が言いたいことを把握できない。
「俺には好きな人ができたんだ、なあスザク」
 ゆっくり持ち上がった瞳は燃えるように熱く、夕日のオレンジ色と混ざって赤紫に染まっていた。
「まだ分からないのか?」
 これではまるで、ルルーシュがずっと好きだと言っていた相手は自分のことのようじゃないか。
「ま、待ってよ」
「俺の好きな奴、誰だと思う?」
 室内に流れる下校アナウンスのクラシックは静かで寂しくて、少しセンチメンタルな気分にさせた。
 ルルーシュがスザクの顔をちらりと窺って、また瞼を伏せた。そのいじらしい行動に言いようのない感情を覚えて、喉から漏れそうになった。
「スザクは放課後の教室で、告白されたいんだろう」
「ああ言った、言ったよ。言ったけどさ」
「……お前顔、赤いぞ」
 それは君が言えたことか! と叫びそうになったところで、それは声にならなかった。


「君たち、もう下校時間だから早く出て行きなさい」
「は、はい」
「……すみません」
 廊下を巡回していた警備員に注意を受けた二人は大人しく生徒会室から出た。時計を確認すると、下校時刻をほんの少し過ぎていた。


 答え合わせをしよう、と機嫌良く提案してきたのはもちろんルルーシュだ。スザクは恥ずかしくて顔も上げられない。彼が密かに蒔いて埋めていた種がようやく芽生え、スザクの中で知らぬ間に花を咲かそうとしているのだから質が悪い。
「未必の故意だよ、スザク」
「みひつ?」
 ルルーシュはこんな時にも難しい言葉を使って、スザクをからかい、はぐらかそうとする。そんな据わった性格だから自分くらいしか親身になれる友達が居ないんだと、心の中で抗議した。
「俺のことが気になってしまえばいいと思ったけど、意外と効果があったらしいな?」
「……君って本当に可愛くない」
 唇を尖らせるスザクの横顔を、ルルーシュは心底愛しそうな目で見つめていた。

「で、俺が誰を好きなのか、結局分かったのか」
「あーもう、僕のことだろ!」