清純な君よ、ふしだらであれ

 つい数か月前までは弱々しい小枝にくっついた茎の細い葉が、風に揺られて頼りなかった。しかし初夏を迎えた今では、色素の濃い青々とした立派な葉を実らせ、ソメイヨシノも夏本番を迎える準備を終えていた。窓から見える新緑は強すぎる日差しを受けてもなお、艶々と輝く。
 カーテンの隙間から漏れる点々とした光が、彼の頬や首を照らす。青白い肌は日光を浴びてなおも白く煌々と見えた。穢れのない新品の装束がくすんで見えるほど、彼の肌は綺麗すぎた。
 皺のない唇を舌で湿らせ、男は室内に響き渡るように声を張り上げた。
「この草案に反対の者は手を挙げろ」
 水を打ったようにしんと静まり返る会議室は、呼吸音も布ずれの音もしない。不気味なほどに冷たい静寂は、やはり彼の声で終わりを告げた。
「反対者なし、満場一致で賛成。よってこの草案を採択する」
 まばらな拍手と微かなどよめきが会議室に響く。反対者は居ないはずなのに、大半の議員たちは不服そうな、不満そうな表情を浮かべていた。しかし誰ひとりとしてこの場で不平不満を申し立てることはない。議長である彼は至極愉快そうに口元を釣り上げて笑っている。その表情を見た騎士は、これは彼に仕組まれた出来レースなんだろうな、と憶測を確信に変えた。

 先行く男のすぐ後をついて回るのが自分の仕事だ。まるで犬のようだなと揶揄われたことがあるが、あながち間違いでもない。自分の主人は目の前に居る彼で、従順な騎士でいることが本来の務めだ。騎士はその役割をきちんと認識して、彼に付き従い続けている。
 今この瞬間だってそうだ。絨毯を踏みしめて歩く彼の真後ろを、騎士は追うようにして付いていた。
「次の予定は」
「午後三時から協定の談義会があります」
 一国を背負う皇帝陛下の一日のスケジュールというのは、隙間がないほど毎日埋め尽くされている。一時間、数十分単位で刻まれ、組まれた予定表はさすがの彼も覚えきれない。だから都度都度、騎士が彼にこうして教えてやっていた。
 長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には大きな窓枠が埋め込まれている。それが延々と、同じ景色が続く。均整の取れ過ぎた景観は機械的で窮屈で、退屈だった。
「つかぬ事をお聞きしますが」
「なら聞くな」
 彼は騎士の問いかけを乱暴に払い除けた。しかし騎士がそんなことで怖気づくような質でもないことは、彼も承知している。むしろここで一歩退いていては、彼の従者など務まらない。
「聞かせてください。先ほどの採択は…陛下の根回しで?」
「だからどうした」
「まさか、また…」
 騎士はそこで口を噤んだ。口に出すのも憚られるような内容は、どう表現しても不適切だと思ったからだ。
 不自然に途切れた言葉に、彼は何かを察したらしく不敵に微笑んだ。騎士を嘲るような表情は憎たらしく、人を苛立たせるには十分だった。
「酒を飲ませて、少し肌を見せてやっただけだ」
 それがどうしたと言わんばかりに皇帝は宣った。振り向きざまに伸びた首筋がやけに目につく。腸が煮えくり返りそうだった。
「お前が思うようなことは何もしてないさ。スケベな老人共は誑かしやすくて困る」
 くつくつと喉奥で笑う声は、肝が冷えるほどぞっとする。まるで悪魔のようだ。
「変な噂が広まったらどうするんです。皇帝陛下が色目を使ってる、なんて」
「そういうときは騎士の出番だろう。俺の地位も名誉も守ってくれ」
「君……」
 他力本願で面倒なことは全て己に丸投げしようとする、皇帝の傍若無人さに騎士は呆れて声も出ない。そしてさり気なく論点をすり替えられていることにも気づいた。
「一国の代表として、そのやり方は間違っていると僕は思います」
「何よりも結果を重んじるお前がどの口で言ってるんだ?」
 視線は凍てつくほど冷たく、口元は歪に釣り上がっていた。騎士をわざと煽るようにして囁かれる挑発的な文句につい、ムキになりそうになる。しかしここで相手の口車に乗せられれば思う壺である。騎士は思いつく限りの反論をぐっと堪えた。
 いつもより理性的な騎士の様子に、皇帝は鼻で笑った。人を小馬鹿にするような表情と振る舞いはもはや彼の癖であり、人格でもあった。それを世間一般では性格が悪いと言うのだろう。
「話は終わりだ。早く歩け」
 緩めていた歩幅を再び大きく取って歩き出した。もうこの話はしてくるなと、彼の背中が語りかけてくる。騎士は俯きながら彼の意向に従う他なかった。

 午後からの協議会でも、先ほどの会議と同じような現象が起こった。
 その場に居る専門家や議員らが不満そうな表情を浮かべ、仕方ないといった雰囲気で賛成に票を入れる。その協定の内容は採決されれば皇帝陛下の身動きが取りやすくなる、いかにもといったものだ。
 皇帝陛下がまた裏で良くない取引でもしていたんだろう。いくら馬鹿正直で生真面目だと罵られる騎士でも、それは一目瞭然であった。しかもその取引は高価な物品や金封でもなく、皇帝陛下自身の体だ。どちらにせよやましいことに変わりないが、金銭や物品といった賄賂のほうがいくらかマシなくらいだと騎士は思っていた。
 彼は"少し肌を見せただけ"と言っていたが、彼の言葉をそのまま受け取って後悔した経験のほうが多い。いつだって正直者が馬鹿を見ることになるのだ。だから今回も、騎士は皇帝のその発言を拡大解釈していた。肌を見せるということはつまり、色艶めいた行為を指すのだと。

 皇帝の見た目は一般的に言えば中性的、顔のひどく整った美形と評されるものだった。騎士は男の顔に好みも何もない。しかし周囲が彼の容姿を持て囃すたび、言われてみれば確かに整っている顔をしているな、と思うことはあった。抱く感想はそれ以上でもそれ以下でもないが、そういう趣味のある男性には需要があるのだろう。だから彼はその需要を、自分の魅力を熟知し、餌にしているのだ。
 安易な餌に釣られる男も悪いが、皇帝の身売りのような行為はもっと質が悪い。一国を担う人物がするようなこととは思えないし、人間としても非道徳的で倫理観に欠けている。
 見知らぬ男とまぐわって得た票に、採択に、平和になんの意味があるのだろう。彼には結果を重視するお前が言うな、と反論を受けたが、ここでの意味は倫理的な問題のことだ。自分の体をもっと大切にしてくれと説得したかっただけだった。

 皇帝が覚束ない足取りで執務室に入ってきたのは、その日の夜のことだった。とにかく壁伝いに歩くだけで精一杯という、いつにない様子だった。衣服に乱れはなく、彼は昼間と同様に白い装束をきっちりと着込んでいた。
「どうなさいましたか」
 手にしていた資料を机の上に置いて、よろめく体に駆け寄った騎士は彼を支えた。腰を掴んで、片腕を自らの首に巻いてやる。そして座れる場所までなんとか運んで、彼の体を安静にさせた。柔らかい大きめのソファは、力の入らない彼の体を受け止め、ぎしりと音を立てた。
「酒を、少し」
 真っ赤な顔で囁いた彼の吐息はアルコール臭い。焦点の合わない瞳はうろうろと空を彷徨っていた。
 皇帝は酒に弱い体質でもなく、むしろ強い方だ。酔わない上にどれだけ飲んでも翌日に響くことがない。達者な口で酒を注がれる機会をのらりくらりと躱し、相手を酔わせることにも長けていた。そんな彼がここまで泥酔するさまを見るのは、騎士も初めてのことだった。
「客室に招いたら変なものを飲まされたんだ」
 一体何があったんだと騎士が問うと、皇帝はそう答えた。変なもの、というのはアルコール度数がべらぼうに高い産地不明の秘蔵酒か何かだろうか。
「酩酊する俺を見て相手も喜んでいた」
「……飲んだらどうなるか、分かっていて」
「そうだな」
 彼はなんてことのないように吐き捨てた。平時は凛と釣り上がった目元も今は垂れ下がり、弱々しい印象を受ける。そんな面とまともに歩くことさえできない体で、卑しい男と二人きり。一体何をされるか分かったものじゃない。
「ご自分が何をしているのか、お分かりですか」
 騎士は冷ややかな目で皇帝を見下ろした。
「ただの接待だが?」
 騎士の冷たい視線に物怖じするような器でもない彼は、そう言って冷笑した。しかし潤んだ目尻と焦点の合わない瞳のせいで、今ひとつ覇気に欠ける。彼が虚勢を張っているに過ぎないことは一目見てよく分かった。

 騎士にとっての皇帝は永遠の忠誠を捧げる存在であり、親愛なる友で、尊敬する男だった。幼馴染であった彼に、我が騎士になれと命じられ、二つ返事で命令を受け入れた。勇敢で大胆不敵な行動力、政治も軍事も切れる彼の明晰な頭脳に、幼い頃から惚れ惚れしていた。憧れの男から一番の信頼と唯一の地位を与えられ、拒むという選択肢は存在しなかった。
 二人で国の淀みを洗い流して、誰もが幸せに暮らせる世界にしよう。それが二人で誓い合った約束で、二人の願いだった。
 だが現実はそう上手く立ち行くことはなく、既得権益や地位に固執する大人の多さと、弱い者虐めが横行する社会に何度も絶望した。目先の利益が全てで、国のことなんか一片も考えちゃいない役人や議員も大勢居た。中には皇帝の若々しい外見に興味を持つ厭らしい人間も居た。

 この世の穢れを一切知らず、箱庭という名の宮殿で育てられた美しい箱入り皇子は、年月を経て淫乱な皇帝へと成り下がった。娼婦のような彼の貞操観念は、騎士の言葉ひとつでどうにかできる問題でもないらしい。

 騎士は彼の艶やかな黒髪を撫で、頬の曲線をなぞった。こんな些細な接触、皇帝にとっては日常茶飯事で取るに足らないことだろう。騎士が初めて触れた彼の頬は既に、何人もの男たちの手が往復しているのだ。もしかすると舐られているかもしれない。
 蹂躙され尽くしているであろう皇帝の唇に、騎士は自分のものを試すように重ねた。想像以上に柔らかく小ぶりなそれは、普段冷徹な言葉を言い放つ唇と同じとは思えないほど甘かった。

 人が人を好きになるのにも、色んな種類がある。親愛、友愛、恋慕、尊敬、憧れ、愛玩。好き、と一口で言ってもそれは多種多様だ。
 騎士も皇帝のことが、ずっと昔から好きだった。しかしその種類がなんだったのか、今はもう思い出せない。

 顔の角度を変えながら唇を擦り合わせ、騎士はそろりと舌を差し伸ばした。抱えていた彼の体はひくりと震えたが、あからさまに見せた動揺はそれきりで、あとはおずおずと騎士の体にその身を預けていった。えらく大人しい反応に少し意外に思いつつ、控えめに開かれた唇の隙間から舌を突き入れ、口腔を舐めた。
「ん! んっ、う…」
 彼の強張った舌を引きずり出すと、犬のように鼻息のかかった声を上げた。やがて行き先を迷っていた彼の舌先は、騎士の動きを真似るように、その先にある口腔へと伸ばされた。
 不意に舌先が絡み合えば、ふうふうと荒い息遣いで応えている。その仕草は端的に言い表せば一生懸命そのものだ。体全体は騎士に寄り添うように預けられていたが、唇は騎士に縋るように吸い付いていた。

 ややあって口を離してやると、皇帝は肩で息をして苦しそうにしていた。赤く色づいた唇は互いの唾液で湿り、その隙間から覗く舌先がやけに目について仕方がない。
「卑しい君はそうやって、男たちを悦ばせてきたんだろう」
「……何の話だ」
 涙の膜を瞳に張った彼は、こちらを睨め付けながら低い声を出した。今さら知らないふりなど白々しい。一体何をするんだとでも言いたげな彼は、なおも騎士を睨んだ。
「僕にもやってよ、接待。他の男にもしてるみたいに」
 敬語を取り払った騎士の言葉遣いは、プライベートで使われる普段の口調だ。彼と敬語無しで喋るのはいつぶりだろうかと、熱に浮かされた頭で考えたが思い出すことは出来なかった。それぐらいの期間、彼とろくに意思疎通も出来ていなかった。騎士がそのことに気づいたのは、全てが終わった後のことだった。

 細い腰を掴んで引き上げるだけで、彼は大層泣き喚く。真っ赤に腫れ上がった縁は流血こそしなかったが、痛々しいほどだ。なのに内壁の襞は精液を搾り取るようにきゅうきゅう吸い付いてくるから、呆れるほど淫らで陵辱のし甲斐があった。
「思ってたのと違うけど、これはこれで…」
 長い脚を折り畳み、真上から串刺すように容赦なく陰茎を抽挿してやる。相手の快楽や痛みを慮ることなく好き勝手に体内を荒らした。彼は喘ぎ方を忘れたかのように、声も出さずよがり狂った。
 あまりにも大袈裟に暴れるものだから、表情も声も全てが演技かと疑った。だが、もう何度目になるか分からない背中の痙攣とドライオーガズムの様子を見る限り、本気で感じ入ってるのだと信じざるを得ない。
「いま、いまの、あ! あ…っんぁ、ひッ、あっ」
「今の、何?」
「これ…だめだ、だめ、やめ、ぁン! やっあ!」
 嫌だ嫌だと腕の下で泣きじゃくる顔は、嗜虐心と支配欲を大いに煽る。普段はあんなに冷徹極まりない文句を振り撒き、鉄の仮面かのような無表情を貼り付けたあの男が、だ。まるで生娘のように裸を恥じらい、処女のように快楽に怯えていた。
 そう、彼の素振りはまるで処女そのものだった。騎士の手から与えられる刺激全てが未知のものであるかのように、ひっきりなしに驚いて痛がってよがり、声を上げ続けた。
 還暦も越えた年配や老人には、このくらい初な反応のほうが喜ばれるのだろうか。てっきり自ら腰を振って厭らしい言葉でも囁かれるのかと思っていたから、彼の反応は予想外だった。
「君はいつも、そんなセックスを、してるの?」
「っア、あ…? なに、ンぁ、あ…?」
「今、どんな、感じ?」
 腹の中側にある泣き所を擦りながら問うた。彼は白い喉仏を惜しげもなく晒しながら、呂律の回らない舌で必死に淫らな言葉を紡いだ。そのさまは騎士に媚びるというより、言わされていると表現したほうがいい。
「は、腹の、おくが、ぎゅって、ぎゅって…」
「うん」
「頭、変にな、きもちい…ッア、ひ! ンぁ、あ」
「うん…」
「ン、んう、あ…! っア…ひ! んッ!」
 騎士の言葉にもやがて耳を貸さなくなった彼は、艷やかな声を惜しげもなく部屋に散らした。股間で揺れる陰茎は既に出すものも出し尽くされ、力なく垂れている。臍の窪みに溜まる彼自身の精液を眺めながら、騎士もやがて彼の体内で吐精した。

 ベッドまで移動する余裕もなく、ソファの上で彼を組み敷いていた。汚してはいけないからと皇帝の装束を敷き、シーツ代わりにして行為に及んだ。同意らしい同意は得られていないから強姦のようなものだ。
 とっくに気を飛ばしていた彼は四肢を投げ出し、口端から唾液を零していた。垂れ下がった眉と目尻が悲壮感すら漂わせる。赤く色付いた肉体は情事の気配を色濃く残し、濡れそぼった性器や肛門は無防備に晒されていた。あまりに淫靡な光景に、思わず目を背けたほどである。
 しかしそのままソファに捨て置くわけにもいかず、とっくに冷静になった頭は彼を介抱してやることを選んだ。具体的には濡れタオルで体を拭ってベッドまで運んでやるだけだ。彼はすっかり気をやっていて、ベッドまで横抱きにされ寝かされるまで、結局目覚めることはなかった。
 毎回ここまで気絶しているのだろうか。騎士は当然ながら疑問に感じた。ソファの上に置き去りにして、風邪でも引かれたら仕事に支障をきたす。そして微かに残っていた良心が、事後の世話をすることを選んだ。騎士が介抱してやることをたまたま選んだだけで、他の男ならどうされるか分からない。
 快楽にはあまりにも弱すぎると思った。少し体内を小突くだけで嗚咽を漏らし、体を震わせていた。穴を出入りする肉棒を見遣った彼は、もうやめてくれと哀願までしてきた。弱いというより、受け止めきれない快楽をどう対処すれば良いか分からない、と表現したほうが適切かもしれない。
 あれが演技だという可能性も捨てきれない。度重なる行為の中で得た、彼なりの媚び方なのだ。娼婦、売女と罵っても否定しなかったことがその証拠だった。それに当時の彼は大層酒が回っていた。前後不覚になるほど酔った体で性行為をして、正気でいられなかったのかもしれない。


 あれだけ不健全な夜も、何食わぬ顔をした朝日が昇れば健やかな一日が始まろうとする。明るすぎる外の景色は、いまだ燻る体内の熱を糾弾していた。
 あれから結局、適当にシャワーを済ませて自室で眠った騎士は、妙にすっきりした体を持て余していた。それもそのはずである。性欲処理のように彼の体を蹂躙し、好き勝手に出すものを出してぐっすり眠ったのだ。冷徹で苛烈で暴君であると評される皇帝を馬鹿にできないほど、思う存分ひどい扱い方をした。

 朝食を摂る卓にはすでに皇帝の姿があった。既に衣装を身に着けていた彼は、顔色も表情も昨日の朝見たものと寸分も変わらない。この国も夏めいてきたというのに、涼しい顔をしていた。
 スプーンでスープを掬い、口に運ぶ。たったそれだけで絵になり、流麗な手つきはまるで手本だ。感情のない表情は昨晩の気配を微塵も感じさせず、一連の出来事は騎士の夢幻だったのではないかと錯覚させられた。伏せがちの瞳も、白い頬も、薄い唇も、何一つ普段と違わない。
「さっきからジロジロと、何だ」
 目敏い皇帝は、盗み見するように表情を窺っていた騎士を咎めた。不快そうな顔を浮かべて言うものだから、非があるのは騎士のほうだ。
「…いえ。失礼致しました」
 それきり二人は無言で朝食を済ませた。
 こんなにも物理的な距離は近いのに、心の隔たりは果てしなく高いと感じた。

 午後からは他国と結ぶ協定の内容について、軍部と話し合う場が開かれた。話し合う場、と呼ぶのもやはり建前で、実際は皇帝の根回しと取引が秘密裏に行われていた会議だ。基本的に皇帝の働きや思惑を阻害するような意見は上がらず、彼の筋書きどおりに進む協議は騎士も退屈だった。うとうとと瞼が重くなろうものなら、机の下にあった皇帝の足が容赦なく騎士の脛を蹴り上げた。
「賛成多数。よって、殿下の提案による和平協定案を採択致します」
 議長が締めくくると、場内からはまばらな拍手が起こった。歓声や賞賛の声は一切上がらず、異様な雰囲気が漂った。
 皇帝が自らの利になるよう、悪どい手を使っているという噂はまことしやかに囁かれ始めていた。今この瞬間も、皇帝の顔を見遣ってひそひそと話をする人間がちらほら居た。その当事者はどこ吹く風だという面持ちで、威風堂々と構えていた。
「陛下。先日はどうも、お招き頂き誠に有難う御座いました」
 違和感を残したまま議会は終わり、場内からは出席者が次々と退場していった。どの者もいけ好かない皇帝の姿を見遣っては、良くない噂話を囁いているのだろう。
 そんな中で一人の男が皇帝へ恭しく声をかけた。噂をすれば何とやらだ。相手は、先ほどの協議で議長を務めていた人物だった。腰の低い態度とは裏腹に、ニタニタと釣り上がった口元は下品極まりない。
「さっそく今晩にでも、陛下の話をお聞かせ願いたい」
「ああ、是非。とびきり美味しいお酒を用意してお待ちしてますよ」
 二人は耳元で密やかに密会の打ち合わせをしていた。真横に控えていた騎士には遣り取りが筒抜けだが、そんなことは二人にとって些事だ。男が今晩味わうのは美酒でなく皇帝の肉体だろうに、と心の中で吐き捨てた。


 夜の帳もすっかり降りた頃、執務室に皇帝の姿はなかった。昼間約束していた、男との密会で席を外しているのだ。
 騎士は昼間の議会で決定された、和平協定の概要を読み込んでいた。眠気のせいで、話し合いの内容はこれっぽちも覚えていなかったからだ。この協定を結んだ両国は、戦争を放棄する、巨大兵器の保有をなくしていく、互いの人種や民族差別の撤廃に尽力する。実に彼らしい、平等を尊び平和で優しい世界を目指す内容だ。体は穢れ、貞操観念は歪んでも、皇帝の尊い信念だけは変わらなかった。

 感慨深さを感じつつ騎士が議事録に目を通していると、不意に部屋の扉が開いた。現れたのは紛れもなく皇帝陛下であった。
 彼はワインボトルを片手に、しっかりした足取りで執務室に入った。そうして部屋の中央にあるローテーブルに置かれたボトルは、中身が半分ほど減っていた。先ほどの密会で開けたものなのだろう。僅かに衣服が乱れていた彼は、はだけた襟に指を入れて外気を取り込むような仕草をしている。
「また、接待ですか」
「そうだが」
 なんてことのないように、皇帝はぶっきらぼうに答えた。昨晩ほど酒が回っていない彼の受け答えはしっかりとしている。

 あの男も、皇帝が身悶えよがり狂う姿を見たのだろうか。騎士はそんなことばかりを考えていた。それどころかあの男は、以前にも皇帝からの"接待"を受けていたと話していたのを思い出す。騎士が皇帝の体を知るよりも早く、あの男は彼の体を蹂躙していたのだろう。そして皇帝は、顔と名前くらいしか知らない男たちに色気を振りまき、媚び諂うのだ。
 騎士はその事実に、言い様のない苛立ちと怒りを覚えた。
「私にもして頂けませんか、接待とやらを」
 ソファの空いている場所を手のひらで叩きながら、騎士は皇帝を誘った。一瞬驚くような表情を見せたが、皇帝は騎士の誘いを拒むことなくその隣に座した。彼はそのまま、流れるような動作でテーブルに備え付けで置かれていたコップを手に取った。二人分の透明なグラスに、静かな音を立てて赤ワインが注がれる。
 グラスに口をつけた彼は、飲むというよりワインで唇を湿らせた。そうして流し目で騎士の瞳を見つめながら、太腿にそっと手を伸ばしてきたのだ。惑うように彷徨う視線は騎士の瞳から外され、目下に注がれる。微かに朱に染まった頬は惜しげもなく晒されていた。
 するりと撫でられた手のひらの感触に虫唾が走る。どこか躊躇いがちな仕草は、騎士を苛立たせる要素にしかならない。

「った、痛、い!」
「誰にでもそんなことを、するのですか」
 騎士は皇帝の肩を鷲掴み、ソファに押し倒した。加減なく加えられる握力のせいで細い肩はへし折れそうだった。彼の持っていたグラスは手から落ち、中身がテーブルに溢れていた。
「ああすると、みな、機嫌が良くなる」
 苦痛で顔を歪めながら、そんな言い訳をする。その内容は騎士の怒りを助長させる材料でしかなかった。
 はだけた襟口から見える首筋は真っ白で、たったひとつの跡もついていない。毎晩様々な男たちの腕の中を渡り歩くから、あえて痕跡を残さないようにしているのだろうか。
「っぐ、あ、いッ!」
 降り積もった新雪を蹴散らすように、騎士はそこへ歯を立てた。薄い皮膚は獰猛な男の犬歯に切り裂かれ、鮮血を垂らす。傷口を労るように舌でなぞれば、彼は駄々を捏ねるように暴れた。

 騎士の腕を振りほどき立ち上がった皇帝は、逃げるようにその場から立ち去った。
 テーブルに零されたワインは床に滴り、鮮血のように見えた。


 来る日も来る日も、皇帝は毎晩別の男と酒を飲み交わし、夜更けまで部屋に戻ってくることはなかった。彼の場合、夜遊びなんて子供騙しのような言葉では済まされない。皇帝は自らの体を政治道具にし、票を集めるように働きかけているのだ。
 皇帝の無節操な行動に、正義感の強い騎士は怒りを覚えていた。しかし今ではそれだけでなく、明らかに違った理由でも憤っていた。騎士は皇帝に触れる男たちに、嫉妬していた。
 手を変え品を変え、見知らぬ男に毎晩陵辱される彼の痴態を想像するだけで、腹の底が煮えくり返るような怒りを感じた。皇帝陛下という公へ対する一面は誰のものでもない。しかし、ルルーシュという一人の人間として彼を見たとき、それは自分だけのものであってほしいと、心のどこかで願っていた。
 スザクを騎士として選んだときの彼は皇帝ではなく、ルルーシュとして見初めてくれた。だからスザクは皇帝陛下やお国に仕えるというより、ルルーシュという男に忠誠を誓おうと決めたのだ。


 騎士は寝室に戻り、就寝する準備をしていた。執務室で皇帝の帰りを待っていたら、日を跨ぐのは目に見えていたからだ。山積みになっている相談事や報告は明日の朝に持ち越しだ。
 明かりを消して寝台の掛け布団を捲ったところで、突然、部屋の扉が大きな音を立てて開かれた。敵襲か不審者かと身構えたが、予想にない人物がそこに立っていた。
「陛下、一体…!」
 部屋の明かりをつけるとそこには皇帝が居た。ぜえぜえと肩で息を切らし、上半身の衣服は肩にかけられているだけで身につけていなかった。いつかのときのように彼の傍へ駆け寄り、体を支えてやった。
「お前のせいだ」
 足元の覚束ない彼は、騎士にそう吐き捨てた。
「お前がこんな痕、残すから」
 皇帝は自らの首筋をなぞった。その部分はちょうど、数日前に騎士が噛み痕を残した部分である。幾日か経っているため薄くなりつつあるが、それでも一目見ればそれが歯型であることは判断できる。
「抱かれることに興味があるのかと、言われて」
 目の前の体に縋り付きながら、皇帝は事の顛末を吐露した。震える指先は白くなるほど、騎士の衣服を握り締めていた。
「ないと答えたら、抱きすくめられて、服を」
 震える語尾は消え入りそうで、最後は何を言っているのか聞き取れなかった。それでも彼が何を言いたいのかは、何となく伝わる。
「突然襲われると思わなくて…、俺は男なのに」
「君が、誘ったんじゃないのか」
 騎士は感じていた違和感を、つい口に出してしまった。
「何を言ってるんだ。俺が誘ったのは酒の席だ」
「"接待"だろう? 相手の体を触って、肌を見せて」
「あ、あれは……!」

 ルルーシュはそこで口ごもって、言い淀んだ。スザクに痛いところを突かれて弁明のしようがないのだ。二人きりの空間で酒を酌み交わしながら、厭らしくボディタッチしたり、わざとらしく服をはだけさせれば、そういうふうに捉えられかねない。
 それにルルーシュは最初からベッドへ誘うつもりで、酒を用意している。今さら被害者面して何なんだと、スザクは訝しく思った。

「あんなの、本当にするわけがないだろう!」
 ルルーシュは真っ青になっていた顔色を真っ赤にして、そう言い連ねた。
「肌を見せるなんて、ただの冗談だ」
「じゃあ君は今まで、何をしていたの」
 切羽詰まったスザクは矢継ぎ早に、彼へ尋ねた。自分は何かとんでもない勘違いをしていたのではないかと、ようやくここで思い至ったのだ。たとえば、毎晩見知らぬ男と姦淫に浸って枕営業のようなことをしていたのではなく、実は本当に酒を飲んで談義をしていただけだった。そんな勘違い、あってたまるか。

「酒を飲みながら意見交換や討論をしていただけだ、たまにチェスで遊んだりもしたが…」
 後頭部を思い切り殴られたような、衝撃の告白だ。だがスザクはまだルルーシュに尋ねたいことがあった。
「でも会議で採決をするとき、いつも君の案が通っておかしな空気になったじゃないか」
「俺のことはいけ好かないが、提案には文句の付け所がなくて嫉妬でもしてるんだろう」
「ま、まさか」
「本当に俺が裏で糸を引いていたなら、一人や二人くらいマスコミに情報を売るか、その場で抗議する者くらい現れるだろうな。学級会じゃないんだし」
 彼は呆れるようにそう言った。
 スザクはとんでもない勘違いをしていたし、おまけに取り返しのつかないこともしていた。
 ルルーシュに強姦紛いの不貞を働き、彼を散々痛めつけたことがある。あの件は、彼が男に抱かれ慣れているという前提で、スザクが勝手に嫉妬心を育たせ、衝動のままに彼を襲ったことが要因だ。しかしその前提が崩れ去った今、残る可能性はひとつだ。

 ルルーシュは宮殿という名の箱庭で育てられた、穢れも知らない純真な男だ。そんな箱入り息子に、男どころか他の異性と容易に親しくなれる機会も時間もそうそう訪れない。

「ルルーシュ、聞きたいことがあるんだけど」
「……聞きたくない」
 何を問われるのか察したルルーシュは、スザクの腕に顔を埋めた。赤くなった頬はもうとっくに見えていたのに、何を今さら、と不思議に思った。
「キスやセックスをした経験は、どのくらいあるの」
「……お、お前だけだ…」
「…なんであの時、何も言わず抱かれたの」
「……お前だから」
 微かに顔を上げた彼は、吐息だけでそう答えた。

 どおりで彼を抱いたとき、処女のように恥じらい泣きじゃくっていたわけだ。あれは演技でも何でもなく、素の彼が本当に恥じ入っていただけだった。しかも男に抱かれるどころかセックス自体初めてなのに、スザクはそんな彼を乱暴に扱ってしまった。
 取り返しのつかないことをしてしまったと、スザクは頭を抱えた。
 罪悪感に苛まれる情けない男を前に、ルルーシュは全てを許すような口調で囁いた。
「今度は優しく、してほしい」
 酒の力を借りることなく、ルルーシュは今度こそ、スザクを甘く誘ってみせた。