猫のいる暮らし
日もとうに傾き、空の色が燃える時分である。
子供の声は徐々に遠ざかり、足元に伸びる影は分刻みに長く大きく、色濃くなってゆくものだ。昼間に熱せられたアスファルトは、気紛れに吹き抜ける涼風によって冷まされる。人の体には、まだ少し冷たい。卯月の半ばはまだ、朝晩と昼の寒暖差が激しいのだ。
駅前でよく目につく、ある建物には今日も変わらず多くの人が出入りしているらしい。とくにこの時間帯はかき入れ時らしく、”特売セール”と書かれた派手な色の幟が立ち、行き 交う人々はそれに目移りさせていた。
漏れなくスザクもそのうちの一人で、人の流れに身を任せて店内へ足を踏み入れた。
卵パックと食パン、豆腐ともやし、コンソメの粉末、他に買うものはあっただろうかとスザクは頭を悩ませる。お菓子や飲料のコーナーへ立ち寄るとどうしても無駄遣いの誘惑が忍び寄り、関係ないものを買ってしまう。出来るだけその付近には近寄らず、食肉や野菜のコーナーを見渡して買い忘れがないか確認して回った。
そうこうしているうちに、何となしに立ち寄ったペットコーナーで、スザクはある一角を前にして立ち止まった。
キャットフードや猫用の煮干しが陳列されている横に、猫用の缶詰が所狭しと並べられている。缶詰にも様々な種類があるようで、とくに煮干し入りのまぐろ缶は値が張るものだった。
人間相手であれば味の好みや苦手な食べ物を聞くことができるものの、動物相手にそれができるはずもない。”あれ”は何が好きそうだろうかとパッケージを見比べるが、大した違いなどスザクには分かりようがない。
とりあえず一番値が張っている、煮干し入りのまぐろ缶を手に取り、買い物籠に入れた。人間である自分用に買った食材は低価格なものばかりなのに、動物用の餌だけ高価というのも考え物ではある。
数週間前まで白い花弁を散らしていた桜の見頃もとうに終わり、そこはすでに若々しい青緑の葉をそよがせている。
昼間は汗が滲む程度には暑さを感じ始めるものの、まだ朝晩は少し肌寒い。学校終わりの夕方の時間帯は温度も落ち着き、ちょうど過ごしやすい時分であるとも言える。
買い物を済ませて学園寮へ戻ると、扉の前で行儀正しくスザクの帰りを待ち続ける、一匹の猫が臥せっていた。
「ただいま」
そう声を掛けると寝ているのか起きているのか分からない猫は立ち上がり、スザクの足元に座って毛繕いをし始めた。
顔つきは可愛いというよりも端正で、体型もスマートだ。釣りぎみの双眼は薄紫色の虹彩を持ち、艶やかな黒の毛も相まってどこか神秘的だ。だがオレンジ色の空を眩しそうに見上げる仕草は、どこか人間じみている。
「今日はちょっと奮発しちゃった」
スザクがビニール袋から缶詰を取り出すと、猫は背伸びして目当ての夕飯に興味津々な様子だ。前足をスザクの腕に乗せて、早く寄越せと催促までしてくる。
缶詰を猫の顔の近くに寄せると、そいつは鼻をすんすんと鳴らし尻尾を揺らした。恐らくこの中身が贅沢で美味なものだと感づいたのだろう。スザクは勿体振りながら蓋を明け、猫の足元に置いてやった。
猫はまぐろの表面に鼻を寄せたあと、おもむろにそれを口に含んだ。そうして尻尾を揺らめかせ、勢い良く缶の中身を平らげていった。
「そんなに急いで食べなくてもいいよ」
そう言ってやりながら頭を撫でるが、やはりスザクの言葉など理解するはずもなく、猫は相変わらずそれを美味しそうに頬張った。
この猫はすいぶんと綺麗好きな性分らしく、毛繕いなどの身嗜みの徹底はもちろんのこと、餌を食べるときも大層上品だ。口の周りは汚さぬよう器用に食べ物に顔を寄せるし、餌の器の周りには食べ散らかしたような痕跡もない。
そしてスザク的に一番助かることが、食べ物の好き嫌いがあまり見られないという点だ。今回のまぐろ缶のように食いつき方が明らかに違っていたりすることはあれど、基本的に出されたものを残すようなことはしない。あまり好きでないと思われるものでも、一応食べ残さず完食してくれるのだ。
空になった缶詰の容器の内部まで舐め、ややあって猫はスザクの顔を見上げた。もうおかわりはないのかと、視線で尋ねているのだろう。可愛いげのある反応にスザクは苦笑しながら、利口な猫の頭を撫でた。
あまり食べ過ぎても太ったり、腹を下しかねない。だから今日はこれで終いだ、という意味を込めて撫で回してやった。
猫は数度瞬きしたあと、何かを察したのか缶詰のおかわりは諦めたようであった。代わりにスザクの手のひらにすり寄り、もっと撫でろと要求することにしたらしい。顎の下を掻くように触ってやると、目を細めて気持ち良さそうにするのが憎いほど愛らしい。
美味しい缶詰を食べさせてもらえ、いつにも増して猫は上機嫌な様子であった。スザクに構ってほしそうに体を擦り付け、湿った鼻先を手の甲に押し付けてくる。もっとお前に甘えさせろと、要求しているように見えた。
猫のいつにない愛らしい行動にはスザクも骨抜きにされるが、いつまでもこうしているわけにもいかないのだ。
実はこの猫、スザクが飼っているペットではない。
ある日学校から寮へ帰ってきたとき、扉の前でじっと座っていた黒猫がいた。その猫はスザクの姿を捉えたのち、ゆっくり瞬きを繰り返し、のんびりと欠伸をした。
家で飼われているペットの猫は大抵人懐っこいが、こういった野良は警戒心が強いものが多く、大抵人間が近寄れば即座に逃げ出すことが殆どだ。だからこうしてスザクを前にして逃げ出す素振りが一切ないということは、相当人馴れしているのだろう。以前誰かに飼われていた経緯があって、元々人間に対する警戒心が薄いのかもしれない。
どちらにせよ、これはチャンスであった。
というのも、スザクは猫が好きだが、スザク自身あまり猫に好かれることがなかった。近寄れば警戒心剥き出しで唸り声を浴びせられ、撫でようとすれば指を噛まれ、抱き上げようとすれば腕を引っ掻かれるという酷い始末だ。だからある意味、いつもスザクの片想いでしかなかった。
だからこれは初めて、猫と心を通わせることができるかもしれない、またとない機会なのだ。
スザクは恐る恐る猫に近寄って、目線を合わせようとその場にしゃがみこんだ。猫はスザクのことなど視界にないらしく、マイペースに毛繕いをし始めた。
身だしなみを整えている最中で恐縮だが、スザクは黒猫のまるい頭にそうと触れ、あやすように撫でた。猫は逃げ出したり暴れたりなどの嫌がる素振りは見せず、黙ってスザクの手のひらを受け入れている。今度は、ゆっくり指を動かし手のひらを顎の下へと差し伸べてやる。そうして喉元を刺激してやると、猫は尻尾をゆるく振りながらスザクの手首に頭をちょこん、と預けた。スザクからのスキンシップを甘受する黒猫は、形容できないほどの愛らしさに満ちている。
「大人しいんだね、きみは」
初対面の人間相手にもこれだけ接触を許す野良猫というのも、なかなか珍しいかもしれない。そもそもスザクに触られてこれだけ抵抗を示さない時点で、かなりの希少価値があると言える。
依然として扉の前を我が物顔で陣取り動こうとしない猫に、スザクは温めた牛乳を飲ませてやった。
「きみはどこから来たの?」
もちろん猫に問い質しても回答が得られるはずもない。
これだけ警戒心が薄いと、どこかで飼われていた猫が逃げ出してしまったのではないかと思うが、首輪らしきものは見当たらない。だが野良猫のわりに弱っていたり痩せている様子でもなく、スザク以外にもこうして餌をやる者が居るのかもしれない。
ここは学園寮といえど、一応アッシュフォード学園の敷地内である。自動車が多く通る道路もないし、下手に敷地外へ出すよりも学園の敷地内で放しておくほうがよっぽど安全だろう。
「飼ってあげてもいいんだけど、ね……」
学園側に申請すれば、寮生でもペットを飼うことは可能であった。しかしスザクは学校に通うだけでなく、軍の仕事にもたびたび参加していたのだ。
ただでさえ日中は学校で面倒を見られないというのに、その放課後も部屋に戻れないこともざらにあり、軍の仕事で学校を数日休むことだってある。そもそもスザクがアッシュフォードへ通っているのも、ユーフェミア皇女殿下の意向によるもので、生活の主軸は軍のほうだ。
そんな多忙な毎日で、ペットを飼うとなれば世話はなかなか難しいだろう。躾もしてやらねばならないし、体調を崩せば病院へ連れて、他にも風呂などの手入れもしてやらなければならない。今のライフワークでは到底こなせそうにもないのだ。
ホットミルクが入っていた器はもう空っぽだ。もうそれで満足したらしい猫は、軽やかな足取りでスザクに背を向けてどこかへ立ち去ってしまった。
スザクが猫を飼う飼わないという話以前に、あの猫には”人に飼われる”という意思がそもそもないのだろうか。どこか風格のある堂々とした後ろ姿に、スザクは苦笑いした。
それから猫は毎日のようにスザクの帰りを待つようになった。
最初のうちはホットミルクを飲ませていたが、たまには趣向を凝らして煮干しやキャットフード、猫用のチーズやお菓子などを買っては少しずつ与えてやった。そして猫はスザクから差し出された餌を食べ、少しだけ撫でさせてやり、満足してからは何事もないように姿を消すのだ。
野良猫へ給餌をするだけの不思議な縁が続いてから、既に二か月ほどが経過していた。
今日は少し上等な猫缶を奮発してやり、猫も上機嫌なのかすぐにスザクの前から立ち去ろうとはしなかった。その態度は打算的だが、ある意味賢い猫とも言える。
もう少しこうしていたいのは山々だが、スザクとて帰宅してからやることは山積みなのだ。夕飯を食べて入浴をし、明日の課題を済ませなければいけない。
「ごめんね、また明日」
頭をぽんぽんと撫でてから、スザクはその猫に別れを告げた。もう行くのか、とでも言いたげな瞳に後ろ髪を引かれる思いがする。
猫の眼差しをなんとか振り切り、スザクは部屋の扉の鍵を開けた。
明日は何を買ってきてやろうか。あまり高い餌ばかり与えて舌が肥えられると、それはそれで厄介だ。
そんなことを考えながら玄関で靴を脱ぎ、扉を閉めた。
その瞬間、スザクの足元を黒い物体が通り過ぎていった。
「ちょっ、ちょっと!」
あまりに一瞬の、突然の来訪者にスザクは手も足も出ない。
玄関から続く居間へと、”それ”は無遠慮に土足で上がり込んでしまった。
「あっ! 駄目だって!」
スザクはその黒い侵入者、もとい先ほど別れを告げたはずの黒猫を抱え上げた。
居間のフローリングには見事に肉球の形をした泥汚れが付着してしまっている。
勝手に上がっちゃ駄目じゃないか、と一喝したあと、そのまま猫を抱えたまま玄関口へ向かった。もちろん外へ放すためだ。前述したとおり、自室で飼うにしても面倒を見きれないのだ。
「っ! いた、いたた」
猫は再び外へ出されると察したのか、スザクの手の甲にがぶりと噛み付き抵抗をし始めた。
「容赦ないなあ」
不本意であるが猫にはある意味、噛まれ慣れている自信があった。だがやはり子猫の甘噛みでもなく、ある程度成長したの猫の噛み付きというのはそれなりに痛い。その加減のない抵抗に、スザクは途方に暮れた。
「飼ってあげたいのは山々なんだよ」
猫を抱えたまま、スザクは説得を試みた。言葉は通じずとも、心を通わせることならできるかもしれない。
スザクは猫と目線を合わせて、なおも優しく言葉をかけた。
「僕はちょっと忙しくて、あまりきみのお世話をしてあげられないんだ」
だがスザクの懸命な説得もむなしく、猫はさらに機嫌を悪くしていったのだ。当然と言えば当然ではある。それどころか猫はますます機嫌を損ねてしまい、ぐるぐると唸り声を上げ、毛を逆立て始めている。
スザクも猫も一向に主張を譲らず膠着状態が続き、これはどうしたものかと頭を抱えた。
「わっ、どうしたの」
湿った生暖かい感触に、思わず驚いてしまった。
スザクの心情を知ってか知らずか、猫は唐突に己の手をちろりと舐めたのだ。
猫に舐められた場所はちょうど、スザクがそれを抱き抱えたとき、思い切り噛みつかれた部分である。微かに血の滲むそこを労るように、ざらざらとした舌が何度もそこを往復した。
「くすぐったいよ」
なおも猫はちろちろと傷口を舐め続けた。ツンと立っていた三角形の耳は垂れ、毛が逆立っていた尻尾も力をなくしている。
「反省、してるの?」
特徴的な釣り気味の紫の双瞳は、微かに潤んでいるようにも見えた。
猫なりの謝罪なのだろうかと思い始める頃には、スザクはとっくに根負けしていた。せざるを得なかった。
「……じゃあ今日、一晩だけだよ」
この動物は実に、人の心を操ることに長けているらしい。
猫はスザクの提案に賛成するように、にゃうと一度だけ鳴いた。
とにかく汚れている足の裏を洗うべく、スザクは浴室へと猫を運んだ。猫はよく水を怖がると聞いていたが、この黒猫はそのような様子もなく、シャワーヘッドから出るお湯を何の気なしに見つめているだけだった。
泥汚れが付着している足の裏を念入りに洗い、清潔なタオルで拭いてやる。猫は既に機嫌が戻ったようで、尻尾を左右にくねらせながらリビングの方へ気ままに歩いていった。先ほどのしおらしさはどこへやらという調子である。
スザクは少し遅くなった夕飯の準備をした。卓に皿を並べ始めると、食事の匂いを嗅ぎ付けたらしい猫が足元へすり寄ってくる。
「そんな可愛いことしてもあげないからね」
スザクのそんな牽制も、そいつは知らんぷりだ。猫は膝の上へ飛び乗り、茶碗を持つスザクの腕に前足を乗せて容赦なく食事の妨害を行う。このままでは本当に夕飯を取られてしまいかねないと危機感を募らせ、手早く茶碗に盛られたご飯をかきこんだ。
「ほらもうないよ、この食いしん坊」
その言葉の意味が通じたのかは不明だが、猫は不機嫌そうな声を発しながらスザクの膝からようやく飛び退いた。
一日のやることをあらかた済ませ、あとは寝るだけとなった。いつもの平日に比べて体がどっと疲れたような感覚があるのは、きっと気のせいではないだろう。先ほどから寝室を徘徊している生き物の存在が、それを証明している。
携帯端末のアラームをセットし、ベッドへ潜ろうとしたとき、やはり例の生き物はここでも現れた。
ベッドの掛け布団を捲りそこへ体を滑らそうとしたとき、その空間へ猫が飛び入ってきたのだ。我が物顔でシーツの上で寛ごうとする猫に苦笑いをして、スザクは猫を押し潰さないよう手前に寝転んだ。
猫はやはり夜目が利くのか、スザクが手を適当に差し伸べると、自ら己の手のひらに頭をすり付けてくる。その愛らしい仕草ひとつで、一人用ベッドの片側を猫一匹に占領されている事実などどうでもよくなる。我ながら単純だとは思うが、気紛れに振り撒かれる愛嬌に心を奪われること自体、悪いことではない。悪戯好きで気紛れなくせに、時折スザクに媚びる猫のほうが悪いのだ。
そんな下らない当て付けをするくらいには、この黒い生き物に魅了されていたのだろう。
猫がゆっくりと瞼を閉じるのを見届けたスザクもまた、たいした間も置かず眠りについた。
「朝だぞスザク、起きろ」
「…………う、…」
「学校があるんじゃないのか」
「んー………」
「この寝坊助、早く起きろ」
「んん、…………ん?」
白んでいた意識が浮上してくると、己の名を呼び、起こそうとしてくる何者かの声がより鮮明に耳に入ってくる。だが問題なのは安眠を妨害してくることではなく、もっと根本的なところにある。
スザクは他の生徒と同室でもルームシェアをしているわけでもない。純然たる一人部屋である。
部屋は一人であるはずなのに、聞き覚えのない声が己を呼び、この場に居るのだ。
この異常な現状に、嫌な汗が背中を伝う。招き入れた覚えのない人間がこの空間に居るということはつまり、答えはひとつだ。
どんな目的にせよ、この人物が不審者、侵入者であることに変わりはない。
スザクは全身の力を振り絞り、体を起こして瞬時にベッドから身を離した。
?
「誰だお前は! 侵入した目的を言え!」
ベッドから飛び退き侵入者から距離を離したスザクは、その見知らぬ人間を糾弾した。
背後にある机の引き出しには護身用の銃もある。できればいざとなればこれを使って…。
「ま、待ってくれ! その、突然驚かせて悪かった」
中性的な見た目であるが、その低い声から察するに男だろう。年齢はスザクと同じくらいか、少し上くらいだろうか。
その青年はスザクの剣幕に少し驚いたような、怯えた表情を一瞬見せたが、毅然とした態度でこう述べた。
「俺の名前はルルーシュだ。お前が昨日拾った猫が居ただろう、あれが俺だ」
「……は」
「お前は忙しいから飼えないと言っていただろう。だからその、俺がたとえば、人間になれば、面倒を見る手間も省けるだろうかと」
ルルーシュと名乗る青年の説明に、スザクは途中からすっかりついていけなくなった。具体的に言えば、”己が昨日拾った猫が自分である”という男の説明のあたりから、状況が飲み込めなくなった。つまり最初から最後まで、この男の言っている意味がスザクには理解できなかった。
言われてみれば、スザクの隣で丸まっていた黒猫は忽然と姿を消し、シーツの上に居た猫の代わりにあの男が居座っている。だから、”確かにお前の言う通り、黒猫とお前は同一人物だね”と納得しろ、とでも言うのか。それは状況証拠に他ならないだろう。猫がベッドから抜け出したか、夜中のうちに寮から逃げ出した可能性も捨てきれない。
いっそのこと、この部屋に住み着いた座敷わらしか地縛霊の一種だとでも説明されたほうが納得できる。
だがルルーシュという男の話は、ある意味合理的だ。彼が”猫から人間に成った”というのが本当であれば、彼が侵入できた理由も猫が姿を消した理由も、まとめて説明がつくだろう。頭が痛くなるほど非現実的であるのが、最大のネックである。
昨日スザクが黒猫を拾ったこと、スザクがどうしても猫を飼えない理由を、この男は自ら持ち出した。そしてこれは、昨日出会った黒猫しか知りようがない話である。それだけは事実だ。
となると本当に、青年は本当にあのこ憎たらしく愛らしい黒猫なのだろうか。
信じがたい奇妙な話を冗談半分で聞いていたスザクも、思わず彼の話を鵜呑みにしかけていたその時である。
「時間はいいのか、もう三十分は経ってる」
青年は枕元に置かれた端末を手に取り、時刻が表示された画面をスザクに見せた。
「うわ、もうそんな時間!?」
そこに表示された時刻は、いつもであれば制服に着替え朝食をとうに摂っている頃であった。まだ寝起きのままで顔すら洗っていない状況に、スザクは真っ青になって部屋から駆け出した。背後から聞こえるルルーシュの声も、届かないほどに。
「あっ、おい! 説明はまだ……」
リビングに戻るとどこかで嗅いだことのある食事の匂いが漂い、自然と胃袋を刺激される。
卓には昨晩のメニューの野菜炒めとコンソメスープが並べられ、湯気が立ち上っていた。
しかしスザクは今しがたまで洗面台に居て、着替えを取りに来ただけなのだ。今朝から一度も台所に立った覚えはない。とすらなら、当然これらの食事を用意した人物は一人しか居ないだろう。
「すまない、勝手に触ってしまって」
彼は台所から食器を持って、視線を下げながらそう言った。だがスザクとしては、やはりそれと同じくらいか軽く上回るほど、重大な問題があった。
「君なんで、服を着てないんだ……」
「え、ああ……」
本人曰く、つい昨日まで猫であったらしい彼にとって、衣服の有無などさして気にすることでもないのだろうか。だが初対面の相手に全裸で部屋を闊歩されるとなると、スザクにとっては重大な問題だ。いくら同性であろうと心臓に悪いし、目のやり場に困る。
「……風邪ひくだろう。寒くはなかったの」
「まあ、少し」
そう答えた男に、スザクは今朝着ていたスウェットを着せてやった。見たところ背丈は同じくらいで、体型はスザクより少し華奢なくらいだ。同じものを着るぶんとしては不都合はないだろう。
既に温められた昨晩の残り物を、スザクは素直に口にした。毒を仕込むにしても、この男は何も身に付けていない状態だったからだ。
彼は覚束ない手つきで食器棚からコップを取り出し、薬缶から茶を注いでいた。
スザクはどこか危なっかしい所作を見遣りつつ、そういえば、と抱いた疑問を彼へ尋ねた。
「猫なのに、食事の用意ができるのか」
「昨日お前がやっていたことを、後ろで見てたから」
スザクは疑い深くじっと見つめたが、彼は物怖じせずスザクのほうを見つめ返して、そう答えた。
当たり障りがなくそれっぽいことを言ってスザクの警戒心を解くための詭弁なのかは、まだ判断がつかない。しかし本当に敵意があるなら、隣で眠っているスザクを襲うなりすればよい話だ。わざわざそんなしち面倒くさい設定を作る必要はないのである。そもそも丸腰で寮内まで侵入するなど、人間技じゃない。
スザクが考えれば考えるほど、皮肉にも彼の話が現実味を帯びてくる。しかし、彼の言うこれが設定ではなく事実だとしたら、それはそれで考え物なのだ。
手早く朝食を食べ終えたスザクは制服の上着を羽織り、猫に命令した。
「この部屋からは出ないこと。物には触らないこと。いいね?」
「……分かった」
「夕方には帰るから、大人しくして待ってるんだよ」
「ああ。いってらっしゃい」
「……いってきます」
スザクの言葉を聞いた猫は、ほんの少し微笑んでいた。
その日一日、スザクはそれこそ気が気でないほど、あの猫のことにしか意識が向かわなかった。心配過ぎてどうかなりそうだ、という意味である。
人間初心者のような振る舞いや言動から察するに、あれは世間知らずという言葉でも足りないほどの浮世離れっぷりだ。いわゆる電波、ちょっと危ない奴とも言える。言葉が通じるだけまだましだが、フライパンが置かれたコンロに火を付ける行為すらままならなさそうな様子だと、他の家電製品の扱いはてんで駄目だろう。
第一に彼は学園の生徒でも関係者でもない。そもそも彼の話を信じるとして、身分を証明できるものも戸籍も存在しないのだ。既に学園の敷地内に居る以上、警備の人間にでも見つかれば不審者として拘束されてもおかしくない。現にスザクも彼と初めて相対したときは侵入者、不審者として接した。
彼がスザクの指示したことを忠実に守っていさえすれば、とりあえずはどうということはないはずだ。
どうか彼の安否も己の部屋も無事でありますように、と祈るような気持ちで、スザクは一日を過ごすはめとなった。
六限目まで授業を終えたあと、スザクは一目散に寮へ戻った。
今朝かけた部屋の鍵はかかったままで、彼が寮の室内からは外へ出ていないことが証明された。
扉を解錠し恐る恐る玄関へ入ると、部屋からは物音ひとつしやしない。それは不気味なほどの静けさだった。最初からルルーシュという男は居なかったのではないかと、思い込みそうになるほどだ。
寝室へ入ると布団の上に今朝見たばかりの、しかし見慣れぬ顔が、無防備な寝顔を晒して眠っていた。今朝相対したばかりの男は、スザクの幻覚や夢でもなかったのだ。正直なことを言えば、出来れば夢であってほしかった。
こんなところで暢気に寝顔を晒すなど、何をしているんだと猫に八つ当たりもしたくなった。しかしなにもするなと指示したのはスザク本人である。彼は家の主の命令を寸分違わず実行しただけの、ある意味利口な猫だ。彼が己に文句を言われる筋合いは最初からないのである。
「ルルーシュ」
名前を呼ばれた猫はゆっくりと瞼を上げ、眩しそうに目を細めた。焦点が合わない瞳のせいで、首の据わらない赤子のような幼さすら窺わせる。
「……おかえり」
彼は舌足らずな口調で、そう述べた。肘をつきながら上半身だけゆっくり起こそうとするので、スザクは彼の目線に合わせてしゃがんだ。
「ただいま」
ルルーシュは少し驚いたように目を見開いた。それもそのはずであろう。今朝から彼を突き放していたのは己のほうであった。
「どうして寝てたの」
「お前が、ここから出ず、部屋の物に触るなと…言っていたから」
スザクの問いかけはまるで彼を試すような口ぶりだ。
ルルーシュの言うことは尤もである。そんな命令をしておいて、分かったことを尋ねるスザクのほうがよほどおかしい。だが、スザクの言いたいことはそこではない。
「寝てる間に何をされるか分からないよ」
「お前はそんなことしないだろう」
「いくらなんでも、無防備過ぎるって言ってるんだ」
ルルーシュは図星を突かれたのか、僅かに目を見張った。しかし何かを諦めるように、あるいは許すように、薄く微笑んだ。
「押し掛けたのは俺の方だし、俺の飼い主はお前だ」
ルルーシュがスザクに向けているのは絶対的な信頼でも忠誠でもなく、何の見返りも求めない一方通行な従順さだけだ。無菌室で育てられたかのような無垢過ぎる行動原理は、スザクにとって恐ろしい凶器である。
「……ルルーシュの言うこと、少し信じてみるよ」
ルルーシュはやはり驚くばかりだ。
彼はあまりに物を知らなさ過ぎる。警察に不法侵入者だと突き出すことも考えたが、この調子だとスザクまで頭のおかしい奴だと思われかねない。なぜなら彼は”スザクに飼われるために猫から人間に成った”と自称する、おかしい奴だからだ。
「どうやら君は僕に、危害を加える気はないみたいだから」
つまり彼をこのまま放り出すわけにもいかず、スザクはそう取って付けたような説明をしてルルーシュを納得させた。
そんな分かりやすく合理的な理由は、飼い主がペットに抱く感情としてはひどく素っ気ない。だが彼は黙って受け入れた様子であった。
ルルーシュが頷くのを見たスザクは、それに、と付け足した。
「それに、押し掛けてきたのはそっちじゃないか」
そう言われてしまうと立つ瀬がないと、ルルーシュは言いたげである。
元々野良だった猫を一晩だけなら、という条件付きで部屋に招き入れたら、人間になってしまった。こうなっては、外に捨てようにも捨てられない。飼わざるを得ない状況に、最初からスザクの選択肢など存在しなかったのだ。監督責任とは、便利な言葉である。
「とりあえずはルルーシュのこと、ここに住まわせてあげるよ。じゃないと君、次は何の生き物になるか分かんないしね」
「変幻自在のモンスターや珍獣と勘違いしてるんじゃないのか」
それはそれで間違いではないだろうにと、スザクは苦笑いした。
スザクが夕飯の支度をしている間、ルルーシュはリビングでのんびりと寛いでいるように思われた。思われた、というのも、スザクが台所に立っている間はリビングの様子が見えないからである。
しかし彼が居るはずのリビングからは、先ほどから何の物音もしない。
えらく大人しいんだなと、訝しく感じながら彼の方を振り返ると、ルルーシュは何も映っていない真っ黒のテレビ画面を食い入るように見つめていた。画面に触れたり、反射した自分の顔を不思議そうに、首を傾げてまじまじと凝視している。それは生まれて初めて目の当たりにした不思議な物体に、興味津々な幼児のような仕草である。
「これは何に使うんだ?」
「ここを押すと、電源が入ってテレビを観ることができるんだよ」
ここを、と言いながら液晶画面の側面にあるスイッチを押してやる。真っ黒だったはずの板がスザクの操作ひとつで途端に明るい光を放ち、音も鳴り始めた。
猫はそれに大層驚いた。そんな反応さえ見れば説明されなくとも、ルルーシュがテレビを見るのは初めてだというのは一目瞭然である。テレビを知らないということは、家で飼われた経験がないということだろうか。
間もなくして、ルルーシュはテレビ番組に意識を集中させていった。あまり近くに寄ると目を悪くすると注意しても、返ってくるのは生返事だけだ。
ローテーブルに二人分の食事を運び、いよいよ今から夕食にありつけるという段階になってもなお、猫はテレビから目を逸らさない。立ち上る湯気や温かい食事の匂いに釣られる様子もない。
何が彼の興味をそんなにも引いているんだろう、とスザクも液晶画面に視線を動かした。
「料理に興味があるの?」
それは、”今からでも夕飯の一品に加えることができる”というコンセプトの、主婦層向けの料理番組であった。今日はウインナーのチーズ焼きという、朝食や弁当のおかずにも流用できそうなメニューを特集している。
「冷めちゃわないうちに食べようか」
スザクがそう声をかけると、ようやく彼はテレビから意識を逸らし、目の前に出された食事を見つめた。
「これは…俺の分か?」
「食べなきゃお腹減るよ」
そういう問題じゃない、とルルーシュが抗議する前に、スザクは早く夕食を食べるよう催促をした。
彼はスザクの摂食風景を観察しながら、見よう見まねで食事を口にした。
食事の前には手を合わせる。右手でフォークを持ち、左手で器を支える。スープを飲むときは音を立てないようにする。そういった当たり前の動作やマナーのひとつひとつが生まれて初めての体験らしく、どこかそそっかしい。フォークに乗せた生野菜は口に運ばれる前に器の外に零れ落ちるし、ろくに冷めていないコーンスープで舌を盛大に火傷するほどだ。
この年にもなれば普通、食事を摂ってテーブルを汚すことは殆どないだろうに、ルルーシュは随分食事が下手だった。
「すまない、その」
ルルーシュはどこか申し訳なさそうに視線を下げた。相変わらずフォークを持つ手は安定しないし、食事を口に運ぶ手つきも覚束ない。
「君ってほんとに猫だったんだね」
ルルーシュは渋面を張り付けて、無言で頷いた。
彼曰く、猫の姿だとスザクに面倒を掛けるから人間に成った、と言っていた。しかしこれではむしろ、人間に成ったほうがスザクへの面倒も手間もかかっているだろう。ルルーシュはそのままならなさと己の不甲斐なさを恥じ、悔いているのかもしれない。
「君は僕のペットなんだから、気にしなくていいよ」
猫はもっと不遜で図々しい性格だと思っていたが、予想外に謙虚らしい。
人間相手にペット、と呼ぶのは相応しくないだろう。しかしルルーシュは自分を猫だと主張するのだから、彼の主張を尊重すればそのような言い方にもなろう。
ルルーシュは釈然としない面持ちであったがそれきり黙々と、相変わらず不慣れな様子で夕飯を平らげていった。
夕食のあとは入浴を済ませて寝る準備をするだけだ。
風呂から上がったスザクがリビングに戻ると、つけっぱなしのテレビから今日のニュースが淡々と流れていた。世界各地で起こるテロや汚職や飢饉、貧困問題など、ナレーションは平坦な調子で読み上げている。その無感情な語り口から発せられる惨たらしい出来事は、まるで異世界のおとぎ話のようだ。スザクは少し暗い気持ちになって、テレビを消した。
ルルーシュは先ほど座っていた位置から、一歩も違わない場所で踞っている。微動だにせず俯いているものだから、そのまま眠ってしまっているのかとスザクは思った。
食後の胃休めか、人間だろうと猫だろうと夜は誰でも眠気に襲われるのか。それは定かでないが、唯一スザクに分かるのは、このような場所で眠っていたら確実に体を冷やす、ということだ。
「風邪ひくよ」
うたた寝をしているように見えるルルーシュの元へ近寄ると、スザクの足音に気づいたのか、彼はゆっくりと顔を上げた。
「ルルーシュ、どうしたの」
ルルーシュと目が合ったスザクは、思わず彼の肩を支えて声を掛けていた。
彼の表情は切迫したような苦しさが滲み出ていて、心なしか顔色も悪い。両手は下腹部に宛がわれ、やはり何かを堪えるように体を縮こめていた。ルルーシュの様子が、明らかにおかしい。
「体調が悪いの? どこか痛む?」
下腹部を押さえているということは、腹痛だろうか。食事が口に合わなかったのか、アレルギーか、食あたりか、いずれにせよ彼の体調は芳しくない。
彼は少し言い淀む素振りを見せたが、もう我慢がならないとかぶりを振った。
「……と、トイレに…」
「あ、ああ…」
テレビの電源の付け方どころか、液晶画面がそもそも何に使う物かすら分からないのだ。ならば用を足すときにどうすればいいのかも、彼には分からなかくても致し方ないのかもしれない。外見こそスザクとさして変わらない年齢だが、未だに信じ難いことだが中身は人間一日目の初心者なのだ。
ここまで世間知らずだと確かに、昨日の今日までは猫として生きてきたという説得力は増すだろう。しかしそれに比例して、ここまで無知っぷりを徹底されるとむしろ、どこか電波で痛い奴っぽさも拭いきれないのがスザクの本音だ。
スザクはトイレの位置から電気のスイッチ、水洗トイレの使い方まで、まるでオムツを卒業できない幼児にそうするかのように、手取り足取り教えてやった。
トイレの使い方も分からないとなると、風呂も歯磨きもドライヤーも何一つ知らないのだろう。スザクはルルーシュをまず浴室に連れて、水回りの使い方を教えた。蛇口を捻れば冷水や熱湯が自在に出せること、冷たい水を浴びすぎれば風邪をひくし、熱い湯を浴びすぎれば逆上せたり火傷すること。人間はたいてい毎日風呂に入ること、歯は必ず磨くこと、髪の毛はできるだけ乾かすこと、清潔な服や下着を身に着けること。
「煩わしいな」
「自分で何でもできるって、そういうことなんだよ」
ルルーシュは釈然としない、難しい顔をしていた。
寝る場所を決める時は、お互い頑としてベッドを譲り合った。家主であり、日中動き回るお前がベッドを使わなくてどうするんだというのが彼の主張で、自分はどこでも眠れるし慣れない生活で疲れている君がベッドを使えというのがスザクの主張である。押し問答の末、飼い主特権としてスザクがベッドで、便宜上ペットであるルルーシュがリビングのソファで横になって眠ることになった。
人間一人と猫一匹ならまだしも、青年二人が横になるにはベッドの面積が心許ないのだ。そして生憎、スザクの部屋には来客用の布団というものも用意していなかった。
今の時期は凍てつくような真冬でもない。初夏に差し掛かるここ最近は、夜でも窓を閉めて毛布を被ればそこまで体を冷やすことはないはずだ。しかしそうは言っても、一年を通してソファで寝続けるというのも体に悪い。近いうちにでも、ルルーシュ用に布団を一式買ってやらねばならないなとスザクは考えた。
春と呼ぶには昼間が暑すぎるし、夏と呼ぶには早朝の風が涼しすぎる。そんなどっちかずの季節は、しかし日ごとに夏の匂いを漂わせてくるのだ。
昨晩は何だかんだと話し合った末、結局猫と別々に眠ったスザクはいつもと変わらない、健やかで暢気な朝を迎えた。
今度こそ寝首を掻かれるのではと懸念もした。しかしそんな心配も杞憂に終わり、拍子抜けするほど夜はあっさり明けたのだ。
洗面台の前に立ち、顔を洗い歯を磨き、寝癖を整える。スザクのそんな朝の様子を、ルルーシュは遠目でぼんやりと観察しているだけだ。それどころか彼に至っては、鏡に映る自分の顔にはさして興味がないらしい。これから学校があるからと忙しなく動き回るスザクの様子を、可笑しそうに眺めているだけだった。
身支度や持ち物を確認したあとは、ようやく朝食の準備である。
朝食用にと買っておいた食パンを二枚ほどオーブンで焼き、スザクは一枚をルルーシュに差し出した。
「焦げてるぞ」
「文句言ってないで、ほら貸して。バター塗ってあげるから」
焦げ臭いと文句を垂らしつつ、ルルーシュはそれをかじった。昨夜まで食事の作法もろくに分からずもたついていた男と同一人物とは思えない、不遜な態度である。
「うわ、時間が全然ない」
穏やかな朝の時間はいつだって限られ過ぎていて、唐突に終わるのだ。
ろくに噛まずに食事を終えたスザクは、あからさまに焦った調子で時計をちらりと見た。
「ルルーシュ、食べ終わった食器はこっちに置いてて。あと戸締りはきちんとしておくこと、外に出ないように。それからお昼は冷蔵庫にラップで包んで置いてあるから、レンジで温めてね。暇になったらテレビ見たり本読んだり、…」
ルルーシュはスザクの口から既に何度も聞かされていたお小言に、呆れながら返事した。
「もう分かったから、早く行け」
「うん、いってきます」
ルルーシュはバター風味の強い食パンを咀嚼しながら、スザクの去ってゆく背中をリビングから見届けた。
人というのは不思議なもので、当初はどうしても受け入れられない、耐えられない環境下に追いやられようと、生き物の本能でそれらに適合しようとするらしい。寒い環境であれば人体は脂肪を蓄えようとするし、暑い環境であれば低い温度でも発汗が起こるようになる。いわゆる寒冷順化、暑熱順化と呼ばれるものだ。
ならば、ある日突然上がり込んできた見知らぬ人間と同じ屋根の下で生活することについて、徐々に順応していく現象にはなんと名付けることができるのだろう。スザクの順応の早さもあるが、ルルーシュの堂々とした佇まい、言い方を変えれば我が物顔でスザクの部屋に居座り続ける図々しさこそが、一番の要因なのだろう。
最初こそ遠慮や謙遜する姿も垣間見れたものの、当たり前にスザクから給餌される野良猫のように、ルルーシュは当然のようにスザクの生活に溶け込んでしまった。彼と顔を突き合わせて食事することにも、本当にこれで良いのだろうかとスザクは首を傾げながら、まあいいじゃないかという彼のスタンスに流されているのが現状だ。飼い主はスザクであるはずなのに、これではまるでルルーシュのペースで生活が回される勢いである。
リビングの隅にはいつの間にか分厚い本の山がいくつも建てられ、どの表紙を見てもスザクには興味をそそられる内容のものはなかった。
日中何もすることがない猫を気にかけ、スザクは学校の図書室で適当に本を借りてはルルーシュに読ませていた。当初は部屋にある本を適当に読んでいたらしいが、もう飽きたと彼が愚痴を零したのがきっかけだ。
ライトノベルといった文庫本より、伝記や歴史書、学術書を彼は好んで読んだ。たまには世界的な有名な小説や文壇の著者が書いた作品集に食指を伸ばすこともあるが、割合的には少ない方だ。
自然とスザクが図書室に立ち寄る頻度も増え、周囲のクラスメイトからは不思議がられるどころか、悩み事でもあるのかと心配されるほどであった。
スザクが居ない間だけでなく、彼は夕食後の腹休めの最中も黙々と読書を続けることがしばしばある。今晩は歴史的人物の自叙伝らしいが、スザクにはその人物の名前すら見覚えがない。
「お前も読みたいのか」
小作りな横顔を遠目で眺めていると、こちらに見向きもしないのに彼がそう話し掛けた。
「僕はあまり、そういう本は読まないかなあ」
同じ空間で時間を共有することが増えれば、どんな相手だろうと自然と会話も増えるものだ。今この瞬間だって、その一環である。
「こっちの、シリーズ小説のほうが好きだ」
スザクは本棚を指差して、そう言った。
それらはルルーシュが日頃積極的には読まないであろう、とあるフィクションの創作小説のシリーズ物だ。
「それなら俺も好きだ」
「そうなの?」
そういうのは子供っぽくて幼稚だ、と一蹴されると思っていた。まさか肯定的な意見が返ってくるとは予想せず、スザクは目を瞬かせた。
「ああ。続編が出たらまた買ってくれ」
「他力本願だなあ」
ルルーシュは最後までスザクの方へ視線も寄越さなかったが、その口角は微かに緩んでいる。
彼のページを繰る指の動きを見届けたスザクは、本を読みながら会話ができるなんて器用な奴だと見当違いなことを考えていた。
そのうち猫は一日中部屋で何もせずぼんやり過ごすのも退屈だと訴え始めたが、スザクはあまり家事を覚えさせたくなかった。日中寮を空けている間に掃除や洗濯を済ませてもらえるというのは、スザクにとって大変魅力的な条件であろう。だからこそそうなると、スザクは彼との共同生活を本気で受け入れざるを得なくなるのだ。
学生寮での生活において、ペットを飼うならば小型の生き物や吠えないもの、日中部屋を空けて面倒を見なくても構わないものであれば構わないという規則になっている。熱帯魚などの鑑賞を前提とした生き物や、カブトムシなどの昆虫類がそれに当てはまるだろう。
しかし、どこからどう見ても人間であるルルーシュをペットと言い張るには無理があるどころか、スザクの頭がどうかしていると思われる可能性のほうが高いに違いない。不審者を匿う方便にしては、冗談が過ぎる。
規則に則るとするとこの男を寮から追放して学園本部と警察に突き出してやりたい気持ちは山々だが、ある意味彼自身は何も悪いことはしていない。ルルーシュからは悪意も下心も向けられず、だとすればスザクだって多少の情も芽生える。
彼はスザクに干渉することはなく、だからスザクもルルーシュに過度な世話やお節介をかけることもしなかった。彼に嫌われている自信はないが、好かれている確証もない。ルルーシュがスザクの元に居る理由が本気で、雨風を凌げる寝床と食糧のためだとしても、だからこそ彼を野放しにすることも出来なかった。
今思えば、それはルルーシュが外堀を埋めるためのチェックだったのかもしれない。
本人たっての希望により、スザクはとうとうルルーシュに家事を覚えさせた。スザクの居ない間の掃除や洗濯、食器洗いなどの家事全般は彼が一任することとなった。そしてやることがなくなればテレビを見たり、スザクが適当に買ってきた本を読んで過ごした。まるで専業主婦のようである。
やがてルルーシュが家事の大半を担うようになるまで、そう時間は掛からなかった。寮で独り暮らしであったスザクにとっては家事の負担が大幅に減るため、願ったり叶ったりな状況であることを、認めざるを得ない。
ある日スザクが軍の訓練から帰ってくると、当たり前のようにルルーシュが台所に立っていた。火をかけた鍋には野菜と水が入れられ、絶賛料理最中というところだ。
「僕、料理まで頼んだ覚えはないんだけどな……」
「まあいいじゃないか」
ルルーシュはおたまで鍋の中をかき混ぜながら、呑気にそう付け足した。ほどなくすると部屋には温かい食べ物の匂いが漂い、思わず腹の音が鳴る。胃袋まで掴まれると本気でルルーシュの居候を容認せねばならないじゃないかと、スザクは頭を悩ませた。
「どうした、食べないのか」
底の深い、白い陶器にはビーフシチューがたっぷり注がれ、食欲を煽る匂いと湯気をこれでもかと漂わせている。
卓の上をまじまじと見つめるスザクを他所に、ルルーシュは自分の分の食事を食べ始めた。彼はスザクへ見せつけるようにスプーンでシチューを掬い、それを口に含んだ。恐らく彼は、スザクから毒でも盛られている、と疑われていることを懸念しているのだろうか。
「何が気に入らないんだ」
いい加減苛立ちを見せ始めた彼はスザクにそう噛み付いた。
「いや、これは僕の気持ちの問題だから……」
「ならさっさと折り合いをつけろ」
全ての原因は君にあるんだけどなあ、という本音はなんだかルルーシュに負けた気がして、そっと胸に閉じ込めた。
ビーフシチューには角のない人参やじゃが芋、玉ねぎがふんだんに入れられているが、肉の姿が見当たらない。買い置きしているのは野菜類ばかりで肉をあまり買わない己が原因なのだろうな、と折角作ってくれたルルーシュには少し申し訳ない気持ちにもなる。
「この状況に甘んじてしまうと、僕は君なしじゃ生活できなくなりそうだ」
「別にいいんじゃないか、それで」
ルルーシュは至極愉快そうに笑うものだから、スザクはやるせない。
「ほら冷めるぞ」
これではどちらが飼い慣らされているのか分かりやしない。スザクはルルーシュの催促を受けながら、彼と夕食を共にする羽目となった。
器用で物覚えの良いルルーシュはとくに料理が得意らしく、料理番組で知ったメニューを実際に作ってみせたりもする。それらはスザク一人で暮らしていた頃だと、おおよそ卓には並ばない料理ばかりであった。
スザクがとくに料理が下手というわけでもない。しかし、材料や調味料にはとくに拘らず、有り合わせの野菜をフライパンで炒めたりするだけの、手抜き料理とも呼べるものしか作れなかった。だからムニエルだのホイル焼きだのソテーだのという手の込んだものは、ルルーシュがスザクの部屋で暮らし始めてから卓に出されるようになった。キッチンには知らずうちに耳慣れない名前の調味料が増えていた。
共に過ごすうちに分かったことだが、彼は機転のよく利く、聡明な男だった。悪い言い方をすればずる賢い奴だ。自分をスザクの部屋からそう簡単に追い出せないよう、上手く立ち回って足場を築き、立ち位置を強固にしていった。スザクが日中は学校へ、放課後は軍に駆り出されるというダブルワークに身を置いていたこともあり、それが拍車をかけていったのである。
そして後にスザク自身も気づいたことだが、異常な環境に体も心も慣れるのが早ければ、絆されるのも随分とあっという間らしい。
綺麗好きで几帳面なルルーシュは毎晩入浴を欠かすことなく、風呂上がりでも髪の毛をきちんと乾かしていた。むしろスザクのほうが少しルーズなくらいだ。夜に風呂へ入りそびれた日は翌朝にシャワーを済ませたり、髪の毛も半乾きの状態で放置する時もある。
「風邪引くし、髪の毛が痛むぞ」
いいよそんなの、とスザクが突っぱねてもルルーシュはどうにも許せないらしい。
ドライヤーを片手に彼は、背を向けた状態でスザクを座らせ、髪の毛を乾かしてやろうというつもりだ。スザクは大人しく、ルルーシュの好きなようにさせた。
「お前はだらしがないんだ」
頭上から降り注がれるお小言は容赦がない。だらしがないのではなく、細かいことを気にしない大らかな性格だと訂正してほしいと思うのが、正直な所感だ。
言葉には棘があるが、髪の毛をかき混ぜる手指は思いの外優しい。たまに首の後ろに指が当たって、少し擽ったいことは黙っておいた。
「どうしてルルーシュは、僕に飼われようと?」
睡眠欲が脳内をし始めた折、スザクは何となしにルルーシュへ尋ねた。
少し高い猫の缶詰に釣られて飼ってほしくなっただけだ、なんて身も蓋もないことを言われたらどうしようか。スザクは返ってくるか分からない、ルルーシュの答えを待った。
「それは、……」
ドライヤーの送風音にかき消されて、ルルーシュの言葉の続きは聞こえない。否、初めから彼はその続きを述べていなかったのかもしれない。
「今、なんて?」
「何でもない」
スザクが後ろを振り返ると見えたルルーシュの頬は、仄かに上気していた。
「なんで照れるのさ」
「風呂上がりのせいだ。変な勘違いをするな」
ついでに背を蹴られれば、今度こそスザクはそれきり何も言わなかった。
比較的過ごしやすい春の終わりから、短いようで長い梅雨に移り変わろうとする時期になった。
紫陽花の株は紫がかる青や赤の花を咲かせ、目を楽しませる。どこかすっきりしない空模様が続くが、誰かの瞳を彷彿とさせる満開の紫を前にすれば、不思議と憂鬱さも少しは晴れるのだ。
今日も学校から寮へ戻ると、小さな備え付けのキッチンからは何やら食欲をそそられる匂いが漂っている。
「今日のご飯はなに?」
「ああ、今日はロールキャベツだ」
「美味しそうだね」
スザクはルルーシュの背後から、肩越しに鍋の中を覗いた。
「おい、あんまりくっつくな」
「お腹空いたなあ」
「あのなあ……」
ルルーシュの文句を知らん振りして、スザクは彼の肩に頭を乗せた。
ルルーシュも、背後の引っ付き虫にこれ以上構ってられないと諦めたらしい。彼は何も言い返さず、スザクの好きなようにさせた。
「なんだか、僕たち新婚さんみたい」
何言ってるんだこの馬鹿、或いは気持ち悪いとでも言い返されるであろう。スザクはその後に続けられるルルーシュの嫌味や暴言を数通り想像していた。しかし予想外のことに、彼からは何の抗議もされなかった。
「ルルーシュ?」
「な、なんでもない」
真横にある彼の顔を観察すると、僅かに血色の良くなった頬が鮮明に、目に映った。
「ああ、恥ずかしいんだ」
「…いいから早く着替えて、手を洗ってこい」
スザクは苦笑いしながら、洗面台のほうへ向かった。最後に振り返ったときの彼の横顔は、悔しそうに唇を尖らせていた。
スザクは毎晩、ルルーシュの作った夕食を食べられるわけでもなかった。放課後に軍からの召集があったり、訓練や演習、機体のシステム調整やデータ収集がある時は、ナイトメアパイロットであるスザク自身が赴かねばならない。
学業と軍事のダブルワークは身体的にもなかなか辛いものがあるが、あくまでスザクの本業は軍事に属することである。アッシュフォードには通わせてもらっている身で、実際同年代の級友たちとの交遊を通せば得難い経験も多くある。スザクにとってはどちらも無下にできない生活だった。
『本日発生致しました新宿ゲットーでのテロ事件ですが……』
その日スザクがようやく部屋に戻ってきたのは、まもなく日付を越えようかという夜更けであった。
この深夜からしとしとと降り続く雨は明日まで止むことはないらしく、スザクの気を僅かに滅入らせた。
リビングにはまだ明かりがついており、小さめの音量でニュース番組のナレーションが響いている。ちょうど今日起こったテロ騒動についてだ。スザクもちょうどこの件で召集を受け、治安維持のためナイトメアで出動していた。
「……おかえり」
「ただいま。まだ起きてたんだね」
『首謀者の容疑者であるイレブンはブリタニア軍によって取り押さえられ……』
「今日遅かったのはこれのせいか」
「ああ、うん」
ルルーシュがこれ、と言いながら視線で指したのはテレビ画面だ。テロ組織とブリタニア軍との戦闘により損害を受けた街の様子や民間人が映し出されている。
名目上はブリタニア帝国が植民地支配するエリア11の治安維持のための戦闘である。しかし実際のところ、それは支配を受ける人々によって構成された抵抗軍との武力抗争、一方的な粛清だ。そして結果的には、何の罪もない民間人が危機に晒されている。これではなんのためにテロと戦っているのか、治安維持とは名ばかりで実質的にテロ組織と同じ事をやっているだけなんじゃないかと、スザクは時々自分の行いの意義が分からなくなる。
「なんでスザクは戦っているんだ」
灰色に焼けた新宿の映像を見ながら、ルルーシュは淡々とした調子でそう尋ねた。
「人が人を憎んで、殺し合って、また復讐に繋がる世界なんて、悲しいだけだろう」
負の連鎖とはよく言ったものである。
スザク自身エリア11、つまり旧日本国の最後の首相にしてブリタニアとの開戦を推し進めた実父をこの手で殺害した過去を持つ。父さえ倒せばこの争いは終結するに違いないと信じた行動の結果、スザクの思惑通り戦争は日本の無条件降伏という形で幕を下ろした。だがそれ以降、日本は圧政を強いられる植民地国として暗澹たる歴史を歩むこととなったのだ。
「でもお前のやり方じゃ、仕組みに取り込まれるだけだ」
ルルーシュは賢い。人間一日目は右も左も分からなかったのに、今はたくさんの本を読み、様々なニュースを見て、色んな観点で物事を考えて、スザクにこんな難しいことを問うてくる。
「そう見える?」
「お前の言ってることとやってることは、矛盾していると思う。でもそうしたいお前を、俺は反対できる立場じゃない」
スザクのやり方にはどうも理解が難しいらしいルルーシュは、そう曖昧な表現で言葉を濁した。
灰色に染まる街を見つめる猫の瞳は、どこか悲しげだ。
「お前一人の力じゃ戦争を終わらせるどころか、戦争に加担してるだけだ」
「……そうかもしれない」
スザクはルルーシュの前髪をすくようにして、指先で弄った。
彼の言うことは尤もだ。封建的な実力主義であるブリタニア帝国に準じ、ブリタニア軍として戦うこと自体、人間同士で傷つけ合い悲しみの連鎖を生む戦争を容認しているようなものだ。
「僕一人の力じゃ微力だ。でも無力じゃない」
「愚かな考え方だな」
ルルーシュは大袈裟にかぶりを振ってみせた。
「兵隊になったって、自分の代わりなんていくらでもいる。乱分子はすぐ切り捨てられる。目指すなら軍師だ。ブリタニアに対抗できるくらいの、な」
「僕はブリタニアの内部から変えていきたいんだ。壊すだけじゃ、数え切れない犠牲が生まれる」
誤ったやり方で得た結果には、何も残っていやしない。スザクのこの持論は、自身の経験から成る戒めであった。ただしそれは、何が正義で何が悪なのかという絶対的な指標など存在せず、それらが己の匙加減という心許ない根拠の上に存在する空論でもあった。
ルルーシュは少し黙って、やがてぽつりと呟いた。
「意志あるところに、だ」
「……え?」
「意志あるところに道は開ける」
「なに?」
「リンカーンだ。お前はもう少し本を読め」
ルルーシュは腕を組んで、そのままそっぽを向いてしまった。
本当にこれでよかったのだろうかと、選んだ道を振り返り惑い続けるスザクに、それはルルーシュが敢えて選んだ言葉なのかもしれない。
彼らしい、素直じゃない上に分かりづらい優しさに、スザクは微笑んだ。ルルーシュはそれでも相変わらず、顔を背けてむくれている。
「ルルーシュは、僕のこと好き?」
「は?」
やっとこっちを向いてくれた、と喜ぶ場合でもないらしい。彼は途端に機嫌の悪そうな、渋い表情を浮かべた。
「誰が誰を好きだって?」
「素直じゃないなあ」
「冗談じゃない。早く寝ろ」
これで会話は終いだと言わんばかりに、ルルーシュは目の前のスザクを追い払ってしまう。
スザクは機嫌を損ねさせたルルーシュの頭を撫でて、おやすみと声を掛けてやった。
寝室の明かりを消し、布団に潜り込む。
使い慣れた枕とシーツの心地よさに意識を遠退かせていたスザクは、唐突に部屋の扉がゆっくりと開かれる音にふと気がついた。
闇夜に紛れて猫が一匹、いや人間が一人忍び込んだらしい。暗闇で唯一鈍く光る紫が、その人物を暗示している。
いつもはリビングのソファで睡眠をとるルルーシュが、その日の夜だけは珍しく、スザクの居るベッドの前へ現れたのだ。その手には、普段枕代わりに使っているクッションが抱えられている。
「……なかなか眠れなくて、その、」
「そっか。いいよ」
ルルーシュが言いたいことを全て言い終わる前に、スザクがその言葉を遮った。彼の言いかけた言葉と素振りから察したスザクは、かけ布団を捲っておいで、と手招いた。
わずかに体をずらして隙間を作ってやる。その様子を見たルルーシュは僅かに頷いて、その隙間に体を滑り込ませた。
スザクもルルーシュも同年代と見られる外見で、上背も決して小さい方とは言えない。そんな男二人がベッドに寝転べば、必然的に距離をこれでもかというほど縮めなければろくに足も伸ばせない。そうすると二人は自然に、身を寄せ合う格好とならざるを得ないのだ。
「ルルーシュ、寂しかった?」
「寂しいのはお前のほうだろう」
ルルーシュはそう言うなり寝返りを打ってスザクへ背中を向けてしまった。もう話すことはない、という意思表示だろうか。
眠れないから添い寝してくれと自ら頼むわりに、スザクが寂しい思いをしているから俺が一緒に寝てやる、というスタンスらしい。そんな彼の言動に矛盾は多々あれど、わざわざそこを根掘り葉掘り聞く趣味はない。
“君が言うならそのとおりだね”という意を込めて、スザクは微笑んだ。
だから敢えて、この話をした。
彼から何の返事も返ってこず、しかし確実にその耳には入ることを確信していたからだ。つまり、これはスザクの独り言という体である。
「僕さ、猫にはいっつも好かれないんだ。噛まれて引っ掻かれて、もう散々で」
「……」
「僕は猫が好きなのに。だから、いつも僕の片想いなんだよ」
「……」
「ねえ、君はどうかな。また僕の片想い?」
「……俺はもう寝た」
寝ている人間が声を発するはずがないだろうという言葉を飲み込んで、スザクは目を瞑った。
そこを深く突っ込むほど、己も野暮ではないのだ。
猫はスザクの元へ押しかけ、ここへ住まわせろと暗に告げるかの如く周到な行動や横柄な態度を取る。そのくせスザクの方から歩み寄ろうものなら、持ち前の器用さで全力で保身に徹し、のらりくらり逃げようとする。人間性まで猫らしくしなくても良いのにと半ば呆れつつ、もしかするとこれがルルーシュという人間の本性なのかもしれない。
スザクは根拠のないそんな疑問を、この夜をきっかけに夜毎確信へと変えていったのである。
誰かが己の名を、呼んでいる気がした。
だが意識を浮上させようにも、指先に感じる温かさ、頬から伝わる柔らかさ、心の落ち着く優しい匂いに包まれているような錯覚を失うことが、どうにも惜しい。このままじゃいけないと理性では警鐘が鳴り止まないのに、本能は極楽浄土のような休息が、安眠が、恋しくて仕方ない。
「……スザク、早くしないと」
鼓膜を揺らすテノールが心にさざ波を立てさせる。声の主には申し訳ないが、自分はもう少し、こうしていたい。その意思を込めて、腕に力を入れた。腕の中のものは微かに己へ反発し、身動ぎしたように思えた。
「いい加減に離せ。遅刻する」
柔らかな髪の毛が首元でぱさぱさと音を立て、揺れている。少しくすぐったい感触でさえ、今はただひたすら心地よい要素のひとつにしかならない。
「んー……」
「暑いし重いんだ、どいてくれスザク」
「…………」
「いつまで寝ぼけて、………二度寝するな、っこの!」
その瞬間、スザクの腕の中でもがくルルーシュが渾身の一撃を放った。その肘鉄は見事スザクの鳩尾を抉り、意識は一気に現実へと引き起こされた。否、現実どころか一線飛び越えて黄泉まで連れて行かれるところであった。
「……痛いよルルーシュ」
「自業自得だ」
「というかなんで君、こんなところに……」
「覚えてないのか? どう考えてもお前が犯人だろ、馬鹿」
目を覚ましたとき、目前にはなぜかルルーシュの後頭部があり、どうやら彼は自分のせいで身動きが取れないらしい。
「こんの馬鹿力……」
スザクはいつの間にか、眠っている間にルルーシュの体を抱き枕のように抱え、そのまま朝を迎えてしまったようだ。息苦しさや暑さに耐えかねて先に目を覚ましたルルーシュに、強烈な蹴りを食らったのがつい先ほどの出来事だ。
「っ、どこ触って…ふ、ふふ、ははは!」
脇腹を掠めた手をそのままに、指先で周辺を擽るとルルーシュは笑い声を上げた。脚を絡ませて足裏を指で掻くと、そんな些細な刺激でも彼は身を捩らせた。
「くすぐったい?」
「み、耳元で喋るな…っふふ、はは」
何となしにそう尋ねると息が耳に当たって、それですら彼にとっては耐え難い刺激となるらしい。
だからこれはちょっとした出来心だ。
魔が差した、とも言う。
脇腹を擽る指の動きはそのままに、耳の裏へふうと息を吹きかけてやった。
「あ、……」
その瞬間、背筋がぴくんと震えたのがよく分かった。背を向けて寝そべるルルーシュは、この腕の中に閉じ込めている。それゆえ、彼の反応や動揺は文字通り、手に取るように分かるのだ。
「しつこい、馬鹿」
「馬鹿って言うほうが馬鹿なんだよ」
わざと耳の穴へ吹き込むように囁いてやれば、彼はひどく動揺して耳まで赤くさせる。ルルーシュの背中越しに伝わる鼓動がますます速くなるのを感じ、スザクは知らずうちに微笑んだ。
「ドキドキしてる?」
「し、てない」
「嘘は良くないよ」
「な、……ぁ、やめ、あ」
耳の裏に唇を寄せると、それだけで彼は驚いて体を硬直させてしまう。それを解すように、スザクはしきりに縁や軟骨のあたりに唇を押し付けた。
「も、やめ」
「どんな感じ?」
「うる、さい……。調子に、乗るな!」
ルルーシュの怒号と同時に、大音量の着信音が部屋に響いた。
ベッドサイドに置いていたスザクの携帯端末が音源らしい。恐る恐る受話器ボタンをタップし、もしもしと電話に出た。
『ちょっとスザクくん、今何時だと思ってるの!?』
その声はクラスメイトのシャーリーのものだ。電話口だというのに、彼女の声は快活でよく通る。そんな大きな声で話さなくてもよいのに、と心の中で付け加えた。
「何時って、えっと」
『ホームルーム始まるまで、あと十分もないよ!?』
「え、えっ、あ……」
頭に冷や水を浴びせられたように、スザクは冷静な思考と理性を取り戻した。
今日はいつもどおりの、平日の朝である。当然、ルルーシュの体を擽ってじゃれ合っている時間などあるはずがないのだ。
スザクの学業成績および授業態度、出欠状況なども軍の上司たちの手に渡ることになっている。この日はペットと遊んでいたら学校を遅刻してしまいました、という舐め腐った幼稚な言い訳が通用するはずがない。
スザクはベッドから飛び降り、とにかく制服だけ羽織って寮を飛び出した。寝癖も直さず、朝食を摂っていないどころか昼食も持ち合わせていないという始末だ。
生まれ持った運動神経に合わせて軍で鍛えていることもあって、体力だけは人一倍ある。これほどまでに己の体力に感謝することは、後にも先にもしばらくは訪れないだろう。
朝の号令が終わる直前に教室へ飛び込んだスザクは、クラスメイトから揶揄われつつ、担任からの情状酌量もありなんとか遅刻だけは免れたのであった。
「……面目次第もございません」
スザクは仁王立ちするルルーシュの前で情けなく正座し、頭を垂れた。
今朝は自分が遅刻寸前だったため、あの場では有耶無耶となってしまったからだ。スザクは帰宅するまで、ルルーシュに一度も今朝のことを謝ることができていなかったのだ。
嫌だ、やめてくれと体を捩らせる彼にしつこくちょっかいをかけた己が全面的に悪い。弁明の余地もなく、スザクは頭を下げることしかできなかった。
いくらペットと言えど、ルルーシュは人間の姿かたちで、知能や精神構造も一般的なそれと同程度だ。どれだけ気心の知れた男友達相手にでも、耳の裏に口付けたりするスキンシップはふつう、しないだろう。ルルーシュが本気で怒るのも、無理はない。
「だから、今日からお触り禁止令だ」
「……は? え?」
夕方は愛機であるランスロットのメンテナンスとシステム調整のため、スザクは特派へと駆り出されていた。
帰宅直後にルルーシュから”お触り禁止令”なるものを発令され、スザクはその意味や意図を尋ねる前に部屋から追い出されてしまった。彼の口から何も聞けず終いのまま作戦本部へとやって来たが、正直今すぐにでも帰ってその真意を聞き出したいくらいだ。
今日はランスロットへ、新システムを導入するとか何とからしい。
忙しなくコンピューターにデータ入力を進めるセシルを傍目に、スザクはデバイサーデータの提供に尽力した。
ルルーシュには少しそっけないというか、冗談が通じない部分がある。彼の性格がお堅く真面目という意味でなく、純粋過ぎるがゆえになんでも真に受けてしまうという意味だ。
人間生活を始めて数か月、まだ季節をひとつ巡ってすらいない時期である。しかし、彼は多くの本に触れ、ニュースを通して世界を見て感じて考えて、スザクにも分からないような難しい質問を多くしてくる。年相応の学生より多くの知識を、彼は有していると言っても過言ではないほどだ。
それでもルルーシュの欠点をひとつ挙げるとするなら、それは一度も外に出たことがないということだろう。知識はいくらあっても、世俗や人付き合いなど、彼には人間らしい行動基準が今一つ足りない。むしろ彼はそれを補うために、知識を蓄えているのだろう。
「今日はこれでおしまい、かいさーん!」
ほどなくして、今日はこれでおしまいだとロイドに言われてしまい、スザクは肩透かしを食らった。ここのところ出撃続きだったため、また今日も戦闘かと無駄に気を張っていたからだ。
だが出撃命令が下りないことに越したことはない。戦う必要がないということは、それだけ平和であるということなのだ。
パイロットスーツから私服に着替えていたところ、背後から己の名を呼ぶ声がした。
「久しぶりだな、スザク」
「ああ、ジノ」
彼はスザクのほうに駆け寄り、肩に腕を回して体を引き寄せた。ジノがよく同僚や仲間に対して行うスキンシップのひとつだ。最初こそスザクも戸惑ったものの、ジノのこれは大型犬が人間にじゃれつくようなものである。
「もう着替えは終わったのか?」
「うん、まあ。どうかした?」
そう問われたジノは歯を見せて笑いかけたのち、更衣室の外へ向かって声を上げた。
「おーいアーニャ、入っていいって!」
彼に回された腕を振りほどき後ろを振り返ると、確かにそこにアーニャが立っていた。
いつもの携帯端末を操作しながら、彼女が歩み寄ってくる。歩きながらの操作は危ないといつもスザクが注意しても、なかなか直そうとしないのが悪い癖だ。
「スザク、彼女できたの?」
いつもの平坦な調子で彼女から告げられた内容は思いもよらぬもので、スザクは目を白黒させた。その背後で腹を抱えながら爆笑するジノには苛立ちすら芽生える。
「最近スザクの付き合いが悪いから、彼女ができたんじゃないかって……ジノが」
「然り気無く私に責任を押し付けるなよ、アーニャ」
二人の押し問答に、スザクはため息をついた。
付き合いもなにも、この二人はつい先日までヨーロッパ地方の反乱軍の鎮圧のため駆り出されており、こうやって顔を合わせたのも数ヶ月ぶりなのだ。元々、軍の仕事以外のプライベートでも時間を共有すること自体少なかった。
「いや、付き合い悪いのは私たちにじゃなくて、特派の人たちにだって」
スザクの主張に対して物申したのはジノだ。
彼いわく、スザクは以前なら、仕事のあとはセシルたちと雑談したり宿題を教わってもらっていたりした。なのに最近ではそれもなく、スザクがあまりにもさっさと帰ってしまうものだから、ロイドを除いた特派の皆々が寂しいと主張している、ということらしい。
「で、結局のところ彼女というのやらの真相は?」
「……」
スザクは渋い顔を作って、無言を貫いた。
二人は期待外れだという調子で、残念そうな声を上げた。居たら居たで冷やかされそうだが、こういった反応も何だか不服ではある。
「最近、知り合いから猫を預かってるんだ」
「猫ぉ?」
「猫……」
テンションに違いはあれど、二人の声が重なった。息はぴったりらしい。
「その猫の世話で忙しいから、最近そっけなかったってこと?」
そっけないという自覚は、スザクには全くなかった。ジノの言うことが本当なら、セシルを含めた特派の職員たちに申し訳がない。
「じゃあ来週からは、その知り合いとやらに猫を返さないとならないんじゃないか」
「来週……?」
首を傾げるスザクに、ジノとアーニャが不思議そうな顔をした。
「来週からニ週間ほど、特派は出征命令が出てる」
「ニ週間!?」
「ニ週間」
アーニャは呑気に鸚鵡返しするだけでなく、事前予告のなかった突然の出征命令に驚くスザクの様子を、端末で撮影し始めた。人の顔を無闇に撮影するもんじゃないとスザクが何度注意してもそれを直さない彼女だが、スザク自身今回だけはその突っ込みも追いつかない。
「あのプリン伯爵から聞かされてなかったのかあ」
ジノは困った上司を持つスザクへの同情を込めて、苦笑いを漏らした。
寮へ戻ると、室内には仄かに香ばしい匂いが立ち込めていた。胡麻油と焼き肉たれの匂いだと気付いた頃には、腹の虫が鳴いた。
食事を用意してくれた彼への労いと、今朝の件での謝罪の意を込めて頭を撫でようとしたが、スザクの右手は寸でかわされた。
呆気に取られるスザクを尻目に、ルルーシュはいつもの調子でフライパンの焼肉を皿に盛り付け始めた。ここまで見事に無視されると、まるでルルーシュには己の姿が見えなくなったのかと錯覚するほどである。
「どうした?」
無言で突っ立ったままのスザクが邪魔だと言わんばかりに、ルルーシュは言葉を発した。その眼光は鋭く、声色も心無しか不穏である。そこまで警戒されてしまえば、スザクとて立つ瀬がなくなってしまう。
「いや、はい……」
ルルーシュは眉をしかめながら、ふんと鼻を鳴らした。彼が言っていた”お触り禁止令”というやつはしばらく続けられる模様である。
どことなく気まずい雰囲気の中、会話もそこそこに、二人は食事を始めた。気まずいというのはスザクの感覚の問題で、目の前にいるルルーシュは至って平常運転に見える。
急遽出征命令が下った件について、スザクはいまだ言い出せずにいた。己のせいではあるが、ルルーシュの機嫌は今朝からあまり良くない。そして同時に、もしこれを告げたところで反応が薄かったらどうしよう、とらしくもなく女々しい心配事もしていたからだ。
嫌われている自信はないが好かれている確証もない、というのが彼から己へ向けられている心象だと、スザクは勝手に解釈していた。しかし今朝の一件で、ルルーシュから好かれている自信はないが嫌われている可能性こそ大いにあるな、という印象に変化していた。全くもって情けない話である。
最初はフォークの持ち方も怪しかったのに、今ではルルーシュもスザクの真似をして箸を使い始めたところだ。まだ食べ物を挟むことは難しいらしいが、彼なら大して時間もかからずに箸を使いこなしてしまうだろう。
頬にかかる長い毛を耳にかけ、流麗な手つきで食事を進める彼の摂食風景は絵になるほど美しく、静かだ。白い歯が肉を噛み切るのをぼんやり見つめていると、視線に気づいた彼が顔を上げた。
「スザク、どうかしたか」
やけに口数の少ない自分を、ルルーシュは訝しく思ったらしい。ばっちりと目まで合ってしまえば、上手い切り返しも冗談文句も咄嗟に思いつかない。
スザクは思っていたことを正直に、ルルーシュに話した。
「食べるの、上手になったなあって」
白ご飯を頬に収めたルルーシュは、そんな言葉に箸を止めた。やや視線を卓に彷徨わせる仕草は恐らく、なんと返そうか言い淀んでいるのだろうか。
「……お前に比べれば、俺なんておままごとみたいなもんだろう」
「謙遜なんて、君らしくないね」
渋い顔を作った彼はあからさまに嫌そうな素振りをしながら、スザクの発言を受けてもそれきり黙り込んでしまった。いつもの、どこか小憎たらしく威勢のいい彼なら何か言い返してきそうなものを、とスザクは少し不思議に思った。
それは隠していても、いずれバレることである。
来週から二週間もの間、出征によりこの寮には帰らない。一日や二日ほどなら何度か経験したことがあるが、これほどの長期間は初めての事態だ。
スザクは素直にそのことについて、包み隠さずルルーシュへ説明した。
「来週から? 急な話だな」
彼はひどく驚いたような顔を声を出した。当然と言えば当然の反応だろう。
「まあ、仕方ないだろ」
ルルーシュはそれきり黙り込んでしまった。俯きがちの瞳は相変わらず静かで、スザクの顔など映しやしない。
仕方ないという言葉は確かにそうだし、そうやって納得せざるを得ない状況もスザクだって同じだ。何も、ルルーシュだけが聞き覚えの良い人間ではない。だからこそ、それを告げるスザクの前でくらい、聞き分けの悪い猫で居てくれても構わないのに、というのが都合の良い本音であった。
スザクはその晩布団の中で、先程の夕食での会話を回想していた。ある程度予想はしていたものの、ルルーシュの素っ気ない反応に、スザクは心中で嘆き悲しんだ。
確かに仕事で出張、ニ週間会えないと告げられても仕方ないと言えば仕方ないだろう。軍の仕事はスザクが自ら望んでやっていることである。そして軍隊では個人の意見よりも、集団での統率力と上層部の意見こそが絶対的だ。個々の感情など歯牙にもならず、むしろ集団行動においてそんなものは邪魔になる。だからスザクもこれだけは仕方のないことだ、と受け入れた。
だがスザクはルルーシュにそれだけの期間会えないことに落ち込んだし、言い出すのもなんだか勇気が要ったほどだ。それだけに、淡白な彼の反応にほんの少し、寂しくなっただけなのだ。
自分だけが好きみたいだ、と枕を濡らすほど純情でも女々しくもないつもりだ。それでもやはり、淡々とした彼の反応にどうしても、言い様のない焦燥感を覚えるのだ。
出征への出発当日の朝、スザクはルルーシュが起きるよりも少し早めに寮を出ることにした。
突然の二週間に及ぶ出征ということもあり、スザクはこの日まで東奔西走することを強いられた。学校では特別に休学手続きを取り、二週間穴を開けることによる学習内容の遅れを少しでも埋めるため、毎日のように課外授業に呼び出された。
そんな慌ただしい一日一日に身を投じれば、あっという間に時間は過ぎ去っていく。結局彼は、昨夜も相変わらずの無頓着、無関心ぷりを発揮していた。ルルーシュに寂しいと泣きつかれるなんてことは期待せずとも、少しはスザクの顔色を覗ったりみせてくれないかと、傲慢なことを願ったりもした。そんな己だから罰が当たったのか、彼は冷たく素っ気無いままだった。
相変わらずリビングのソファをベッド代わりにするルルーシュは、この時間帯はまだ眠っているらしい。だからそっと、無防備になっている彼の頬に唇を寄せた。これはブリタニア式のいってきますの挨拶だからセーフだと、自分の心に言い訳を繰り返した。
自分が居ない間は寝室のベッドを使っても良いと、ルルーシュに伝えてある。せめてこのニ週間くらいは、寝心地のよい布団の上で安息を取ってほしかった。
「いってきます」
寝息を立てる彼の、安眠の邪魔にならぬようスザクは声を潜めて、そう告げた。
「スザクくん最近、猫を飼い始めたんですってね」
ランスロットの起動テスト中、セシルはスザクにそう話しかけた。
なぜ彼女がそのことを知っているのだろう。
スザクは猫の話を特派の人間に持ち出したことがなかった。まず第一に、あれは猫でなく人間である。仮に猫を飼ってい る体で話をしたとしても、目敏い上司に感付かれでもしたら、いろんな意味で取り返しがつかないことになるに違いない。スザクはそう考えていた。
だから話題に出したこともなかったが、そういえば先日会ったジノとアーニャには猫のことを打ち明けていた。となると恐らく話の出処は彼らだろう。スザクはおおよそ当たっているだろう推測を確信に変え、セシルに言葉を返した。
「はい、そうなんです。なかなか懐いてはくれないんですけど」
もうバレたものはしょうがないと腹を括り、スザクはルルーシュが”猫”である体で話を進めた。
「人見知りな性格とか?」
「人見知りというか、照れ屋なんですよ」
スザクは苦笑いしながらそう答えた。
「ということは、スザクくんが猫を可愛がり過ぎてるのかもしれないわね」
可愛がり過ぎている。
セシルが”照れ屋”と揶揄しているのはあくまで猫のことで、当然ながら決してスザクと暮らす人間であるルルーシュのことではない。もちろんそのことを織り込み済みで、スザクは今彼女と会話している。
だがそうは言っても、話の主題を猫に変換する前にルルーシュのことが脳裏を過ぎってしまって、どうしようもない。
「そうかも、しれません……」
そうして彼女に助言を貰い受けると、確かに己は彼を少々甘やかせ過ぎていたのではないかと、スザクは考えてしまうのだ。
「なら、帰ったら今まで以上に甘やかしてあげないと」
「僕が居ない間、寂しいと思ってくれれば少しは、嬉しいんですけどね」
セシルはスザクの口振りにくすりと笑った。
「でもきっとその猫、もうとっくにスザクくんに懐いてくれてるんじゃないかな?」
それはどう意味だろう。
その先の真意を彼女に問おうとした刹那、コックピットのメインモニタに”出撃準備完了”の文字が表れた。
「ランスロット、出撃準備完了!」
セシルが他のプログラマーや機体技師にそう告げると、いよいよ雑談はここで終わりらしい。
今回の作戦目的を確認したあと、スザクは任務を遂行させるべく、思い残すことなく出撃した。
スザクを乗せた純白の機体は地を駆け空を縫い、目標以上の戦績を持ち帰ったという。
二週間にも及ぶ中規模作戦を無事完遂し、疲労と軽い外傷を負った体を引きずるようにしてようやく寮へ戻ってきたのは、もう二週間目の深夜のことであった。
そんな遅い時間であれば一晩くらい泊まっていけと提案されたが、どうしてもルルーシュを心配させたくないという気持ちのほうが勝った。それに、ルルーシュには例の一件以来、あからさまな距離を置かれているままだ。心のわだかまりを解決するには早いに越したことはない。
「待って、スザクくん」
唐突に己を呼び止めたのはセシルの声であった。
彼女は抱えていた救急箱から湿布を取り出し、それをスザクの頬へ貼った。
「すみません」
「怪我はしていない?」
セシルは心配そうにスザクへ尋ねた。
戦闘時に機体が損傷した際、コックピット内で体を激しくぶつけるなどして出来た打撲痕や擦り傷くらいしか、己の体には見当たらない。そんなものは怪我のうちに入らないだろうと、スザクは首を横に振った。
最後まで面倒をかけさせた彼女に礼を言い、スザクは作戦本部を後にした。
二週間前に施錠した部屋の扉はやはり鍵がかかったままで、スザクはひとまず安堵した。
もう普通の生徒らは寝静まっているであろう夜中である。他の寮生に迷惑を掛けぬよう、スザクは出来るだけ音を立てず玄関の扉を開けた。
たった二週間、されど二週間である。それだけの期間離れていただけで、ひどく懐かしい気分になった。
フローリングも綺麗なままで、自分が不在の間、彼が部屋の掃除を行ってくれていたのだろうと容易に想像がつく。自重によって軋む床の音にさえ注意を払い、スザクは寝室を目指した。自分が教えたとおりにしていれば、彼は今頃寝室のベッドで眠っているはずなのだ。
スザクが居ない間、部屋の家事を一任してきたルルーシュをまずは労ってやりたいという気持ちが強かった。眠っている彼の顔の横でただいまと一言、声を掛けたかったのだ。
寝室の前に立ちドアノブを握ろうとした手前、薄い壁の向こうから微かに声が聞こえた、気がした。
自らの呼吸音すら邪魔で息さえも止めて、ドアに耳を寄せる。こういうのはあまり良くないと頭では分かりつつ、そうしてしまったのは無意識的なものだ。
細切れな啜り泣く声がする。
それがルルーシュの声なのか、もっと別の音なのかは音量が小さ過ぎて判断しかねた。
細心の注意を払い、ノブを回して扉を開けた。
光源のない暗がりの部屋では、何も見えない。あたり一面真っ暗闇の室内に目を凝らし、スザクは寝台に横たわるルルーシュの姿をようやく捉えた。部屋の入り口からは背を向けるようにして臥せる彼は、寝ているのか起きているのかすらも分からない。
「う、あ……」
そうと寝室に足を踏み入れようとした瞬間、微かな呻き声が耳に入った。蚊の鳴くようなか細い音は、何かの聞き間違いかと思うほど頼りなく、現実味がない。
「……ん、ん」
啜り泣くとも呻いているとも言えない声は、どこか熱っぽくて苦しげであった。だからこの時のスザクは、もしやルルーシュの体調が芳しくないのではないかと心配をしたのだ。
自分が不在の間に運悪く熱でも出して、苦しんでいるのかもしれない。あるいは良くないものを食べて食あたりでも起こしたのではないか。
「す、すざ、く」
「……」
だからこの場で名前を呼ばれるとは思わず、息を飲んで、出かかった声を寸で堪えた。
「あ……、ん」
ひくりと震えた肩を見て、ようやく察しのついたスザクは、自分の間の悪さを呪う他なかった。
普段はどこか警戒心の強く、人の気配には敏感な方なルルーシュは、その口で名を呼んだ男が立っていることに、まだ気が付いていないらしい。それだけ注意散漫になるほど、彼はその行為に没頭しているのだろうか。
知らぬうちに乾く喉と唇を潤し、スザクは喉を震わせてその名を呼んだ。
久しぶりに見た顔は暗がりのせいで、その輪郭すらも朧げだ。表情もよく見えないが、恐らく潤んだ紫をめいっぱい開いて驚いているだろう。暗闇でも分かるほど赤みがかった頬ならば、よく見えた。今はそれだけで充分だ。
「なんで、お前、ここに」
「……ごめんね」
掠れたルルーシュの声は震えている。
ベッドから上半身だけ起き上がろうとしたルルーシュの動きを制するように、スザクはその痩身を抱きとめた。
「俺を辱めたいのか」
「違うよ」
「惨めな奴だって、馬鹿にすればいい」
腕の中の体はとくに抵抗を示さず、スザクに身を委ねている。それはスザクへ心を開くどころか正反対の、悲壮に満ちた諦念観を纏っていた。
声色は痛々しいほど冷たく、なのにその肉体は温かい。鼓動は早鐘のように響き、スザクの胸まで伝わっていた。
「なんで嘘をつくの」
「本当のことだろう」
「そんなこと、思ってもないくせに」
スザクがそう言うと、腕の中の彼は微かに身じろいだ。
スザクの発言に対する否定か、はたまた彼の図星であったかは知りようがない。だから都合よく解釈することにした。
これはひとつの仮定である。ルルーシュは最初から嘘つきで、狡い男だった。脆い自尊心を守るため、薄氷のような頼りない言葉でスザクを責めるのだ。彼が器用な男だという印象は、スザクの見込み違いだった。
「ルルーシュ、君は最初から僕のことが好きだったんだろ?」
「…自意識過剰も大概にしろ」
「答えになってないよ」
彼の長い睫毛が目の下に影を作る。そのせいでさまよう視線の先に彼が何を見ているのか、スザクからは見えないことがひどく惜しい。
スザクはルルーシュの肩を支えるように掴み、その顔を覗き込んだ。潤むアメシストは暗闇の中で陰り、彼は今何を見ているのかも分からなかった。
彼が何を考え、何を見ていて、どんな思想を持ち、何を畏れているのか、スザクは何一つ知らない。ただひとつの可能性として言えることは、ルルーシュは初めからスザクのことが好きで、だからスザクに飼われたくてその機会を窺っていたのではないか、ということだ。
以前、なぜ自分に飼われたかったかを問うたとき、らしくもなく恥ずかしがるような素振りを見せていた。証拠としてはそれだけでは不十分だが、可能性として有り得ない話でもない。
「猫には片想いしてばかりだと、前に言ってたな」
ルルーシュは俯いていた顔を上げ、言葉を紡いだ。しかしこの暗闇では彼が今どんな表情をしているのかも、よく見えない。スザクはそれを覗き込むようにして、彼と目線を合わせた。
「それならお前のほうが分が悪い」
「どういうこと?」
「俺のほうがずっと片想いしてばかりだった」
ルルーシュはそう言うと、目の前にあるスザクの唇に、唇で触れた。
「……あ、…」
粘液を伸ばすようにそこを擦ると、ルルーシュはもう堪らないといった面持ちで、刺激を甘受していた。壊れた涙腺はそれだけでほろほろと涙を零し、真っ赤な頬に滴り落ちる。それを勿体無いと舐め取ってやれば、思いの外塩辛かった。
スザクは股座にルルーシュを座らせ、その背を自らの胸に凭れかけさせていた。
突然何をするんだと全力で暴れられると、いくら体力には自信があると自負するスザクとて、骨が折れる。それに、どれだけ自分は彼から信用がないのだろうかと、少し傷つく。
続きしようか、とスザクが提案すると、それこそ借りてきた猫のようにルルーシュは大人しくなった。
下着をずらし、隙間なく閉じられた太腿を僅かに開かせる。するととっくに兆し始めていたそれが、ふるりと顔を覗かせる。同年代にしては薄い陰毛を指先でかき混ぜると、あからさまに嫌そうな素振りをされてしまった。
スザクはルルーシュの肩に頭を乗せ、背後から覗き込むようにして中心へ触れた。
「ルルーシュも触って」
彼はスザクに言われるまま、右手を自身のそこに宛てがった。やがて慣れない手つきでそこ擦り始めると、腰を震わせるようになった。
彼の好きにさせてやろうと、スザクはそこから手を離した。それでもルルーシュは思春期のひとつ覚えのように、行為に浸っていた。普段は色気を感じさせるどころか、そういったことに興味も示さない淡白な彼の、それはとんでもない痴態だった。
「僕が居ない間、そうしてたの」
ルルーシュの耳がひどく弱いことは、既に実証済みである。スザクはその弱い部分に向かって、湿った声を流し込んだ。
「に、においが」
ルルーシュは空いた左手でシーツを握った。恐らく、ベッドの残り香のことを指しているのだろう。だとしたら、何ともいじらしい動機である。ベッドの残り香に釣られて気が昂ぶった彼は夜毎、己を夢想して自身を慰めていたのだろうか。
「も……で、る」
「……うん」
ティッシュを先端に宛がえばややあってぴゅく、と液体が放たれる感触が手に伝わった。
熱っぽい息を吐き出したルルーシュは、脱力させた四肢をしどけなくスザクの胸へと預け、瞼を閉じてしまった。
「ルルーシュもしかして、寝ちゃった?」
規則的な呼吸音が聞こえてくるまでには、さほど時間もかからなかった。
眉間に皺を寄せて難しそうな顔をする、普段の表情からは想像もつかないほど、その寝顔は優しい。こうして見ると案外、彼は柔らかい顔つきをしているんだとスザクは初めて気がついた。
スザクは身動きの取れないこの状況をしかし、前向きに捉える事にした。以前はスザクが寝ぼけてルルーシュを抱きしめていただけで、あの仕打ちを食らったのだ。これを役得と呼ぶのだろう。
ルルーシュを起こさぬように支えながら、そっとベッドに背をつけて寝転んだ。微かに彼は身じろいだが、それでも起きることはなかった。
涙の跡が残った頬に口づけ、スザクも同じように瞼を閉じた。
カーテンから差し込む日差しも、柔らかいベッドの感触も、けたたましいアラーム音も、すべて久しぶりに感じたものだった。そういえば寮で一夜を明かすのも二週間ぶりであることに気づいて、スザクは枕に顔を埋めながら嘆息した。
「あれ?」
スザクは枕を抱えながら寝返りを打ったところで、ようやく違和感に気がついた。
昨夜まで胸にあったはずの心地よい重さや体温も、人の気配すらも残っていない。一人分のベッドはスザクの居る場所しか温もりが残っておらず、シーツはとっくに冷たかった。
彼はもう先に起きて朝食の準備をしてくれているのだろうかと思ったが、寝室に居ても台所から物音ひとつしない。気味の悪いほど静かな朝だ。
洗面台で顔を洗って、歯を磨く。
所狭しに並べられた洗面用品はどれも二組ずつ置いてある。スザクと、ルルーシュの分だ。
先に起きているのだとしても、ルルーシュの歯ブラシやコップは使われた形跡がない。なんとなく、嫌な予感がした。
リビングは相変わらず片付けられていて、掃除も行き届いている。スザクが居ない間も、彼が手入れを怠らなかった証だろう。
だが肝心の彼がどこにも居ない。まさか出て行ったのかと思ったが、玄関の鍵は施錠されたままだ。ルルーシュに鍵を渡した覚えはないし、スペアキーなども作っていない。
床に置かれた買い物袋から食パンを一枚取り、オーブンで焼いた。一人で摂る朝食はいつぶりなのか、考えるのも億劫なほど、ルルーシュとの生活は濃いものだった。
食パンが焼けてくると、リビングに香ばしい匂いが漂う。長閑で静かな朝だというのに、スザクはどこか落ち着かず、食欲も進まない。
少し焦がした表面にバターを塗り、口に運ぼうとしたところで、台所の奥から声が聞こえた。
「……え?」
にゃう、と鳴いた生き物はどこに隠れていたのか知れぬが、パンの匂いに釣られて出てきたらしい。スザクのよく知ってる、やけに毛艶の良いあの黒猫だ。淡紫の虹彩は昨夜見た彼の色と、まったく同じものだった。
猫は気ままにフローリングの上を歩き、やがてスザクの足元に擦り寄った。その仕草は甘えているのかと思いきや、スザクの手にある焼きたての食パンに視線が釘付けであった。腹を空かせているから何か寄越せ、ということなのだろう。
冷蔵庫から適当に選んだ鰯の缶詰を皿に移し、床に置いてやる。猫は相変わらず上品にそれを口に運び、咀嚼した。機嫌はすっかり良いらしく、長い尻尾を左右に揺らしている。
「君はルルーシュなの?」
猫は無論、人の言葉を話せなければ理解することも凡そ出来ないだろう。嬉しそうに餌を頬張る猫は、スザクのことを見向きもしない。
「……猫に、戻っちゃったってこと、なのかな」
丸い頭を撫でてやれば、気持ち良さそうに目を細めた。
皿には何も残っていやしないのに、猫は陶器の底を舐めている。スザクが皿を持ち上げて片付けようとすると、ようやく猫は顔を上げた。
自分の朝食の食器と重ねて台所へ運ぶと、猫もスザクの後を追ってくっついてくる。こんなに人懐っこい奴だっただろうかと、不思議な気持ちになった。
足首のあたりに纏わりついて、頭を擦り寄せてくる仕草がなんとも愛らしい。構ってほしいのかと思い、しゃがんで抱き上げてやる。猫は大きな双眼を瞬かせ、スザクの顔を見つめた。
「何も言わずに居なくなったら、だめだよ……」
スザクはぽつりと、そう呟いた。
猫を抱き締めると、自然と涙が出た。
頬を伝う涙と同時に、湿った感触を覚えた。
寄せていた身を離すと、間近に黒い顔があった。猫がスザクの涙を舐めていたらしい。昨夜己がやった、彼の目尻に溜まる水を舐めたお返しのように思えた。
猫はスザクの顔を見たあと、ひょいと腕から抜け出した。もう構わなくてもいいと言いたげな表情で、ひんやりとしたフローリングに臥せてしまった。
「君を飼えるかどうか分からないけど、学園の先生とも相談してみるよ。いい子にして、待ってるんだよ」
人の言葉を理解しているのかしていないのか、猫はまるで返事でもするかのように、にゃうと鳴いた。
その瞳はあの夜に見下ろした闇色の紫と、同じ表情をしていた。
梅雨はいつの間にか終わりを告げていたらしい。二週間もの間、この島国を離れていたスザクにとって、今年の梅雨はあってないようなものだ。
梅雨が明けた途端、雲ひとつない空に太陽がさんさんと輝き、肌をじりじりと炙る。いつ見ても雨粒に濡れていた紫陽花はすっかり乾き、もう今年の出番も終わりだという顔をしている。
冷たく優しいあの男にとっては、この暑い季節はひどく生きづらいだろう。
スザクはそんな見当違いなことを考えながら、陽炎の揺らめきを忌々しく思った。
完