犬のいる暮らし

 師走も半ばを過ぎた真冬のことである。
 平年であればあまり雪の降らない日本の首都ですら、この日だけは大寒波に見舞われ粉雪がちらつくほどだ。まだまだ冬は長いというのに、体を凍てつかせるような風の冷たさにはげんなりとさせられる。

 二学期の終業式のあと生徒会のメンバーで、今年はこれで会うのが最後だからと、時期にしては早めの忘年会を行った。
 忘年会とは言ってもどこかの居酒屋を予約してソフトドリンク飲み放題や食べ放題、といった類ではない。いつもの生徒会室のテーブルに宅配で頼んだピザやオードブル、ホールケーキなどを並べた雑多な打ち上げのようなものだ。所狭しと並べられた食材の多さは、もはやバイキング形式と呼べる様相であった。
 会計係のルルーシュとしては、一体どこのお金を使って買い込んだんだと幹事のリヴァルとシャーリーに睨みを利かせたかった。だがルルーシュよりも役職が上であるミレイに、これはモラトリアムの一環だからセーフなの! とよく分からない理由で許しが下りてしまえば、ルルーシュにも口は出せまい。しかも、このケーキが美味しいと妹に微笑まれてしまえば、兄は今度こそ仕方ないとその場の空気に飲まれてしまうのである。

 どんちゃん騒ぎにも疲れて後片付けを粛々と済ませてしまえば、本当に二学期の終わりである。リヴァルは名残惜しそうにするし、カレンとシャーリー、ニーナやミレイらは冬休み中に遊ぼうと約束を取り交わしていた。最後まで騒がしい面子であったが、あれはあれで楽しかったと素直に感じる。

 ちらつく雪は量こそ然程問題ではないが、頬や手に当たるたびに刺さるような冷たさを感じる。
 あいにく折り畳み傘も携帯しておらず、かといってわざわざ傘を借りに職員室まで赴くのも億劫だ。そう感じたルルーシュは仕方なく、制服のスラックスのポケットに手を入れ、首に巻いたマフラーに顔を埋めながら下校することにした。
 制服の隙間から入ってくる冷気が体を縮こめ、歩幅も自然と小さくなる。早く帰りたくてしょうがないのに、体はこれ以上後にも先にも進みたくないと訴えるのだ。

 空を赤々と染める夕日は地平線へ沈みかけ、東の空には一番星が瞬こうとしていた。

 一日が終わる直前、昼と夜の間。つまりこの夕方の時間帯は日本で”逢魔が時”と呼ばれることがある。古来日本ではこの時分、魑魅魍魎とも言われる妖怪や魔物に遭遇する禍々しい時間であると信じられてきたらしい。
 太陽の昇る時間帯が現世、つまり生きる人間たちの住む世界であるなら、太陽の沈む時間帯が常世、つまり死んだ人間たちの住む黄泉の世界である。すなわち夕方というのはその世界が入れ替わる危険な時間帯であり、うっかり幽霊や妖怪に出会うかもしれない、と古くから言われているのだ。
 とは言ってもルルーシュもそのような昔話や神話を真に受けて怖がるような年頃は、もうとっくに過ぎたことだ。幼い子供にこういった話をすれば日が暮れる前に帰ってくるのだろうから、これは一種の母親の知恵、方便であるとも言える。

 どこかで耳にした知識を思い出しながら家路を辿っていると、ルルーシュの視界に、不意にあるものが入ってきた。
 雪が薄っすら降り積もるアスファルトに置かれた、ひとつの段ボールである。その真横に立っていた電灯から伸びる蛍光灯の光は、ちょうど段ボールに降り注がれていた。まるでその段ボールにスポットライトを浴びせるような、巧妙な位置取りだ。やけに手の込んだ演出を前にしたルルーシュは、もしやと思い、つい段ボールの中を覗き込んでしまったのである。
 段ボールの中には新聞紙が敷かれ、その中央には成犬が一匹、蹲っていた。

 いまどき犬を段ボールに捨てる飼い主がいるとは、時代錯誤にも程があるだろう。ルルーシュは軽い頭痛すら覚えた。ご丁寧に段ボールの外側には”拾ってください”とマジックペンで書かれてまである。古典的なそれに、思わず何かの罠かと身構えたが、段ボールの中は犬一匹しか見当たらない。

 びゅう、と木枯らしが吹き抜けるといよいよ体がこの寒さには耐えられぬ、と警告を発し始めた。真冬のこんな時間帯に突っ立っていては風邪を引きかねない。

 犬には悪いが、ルルーシュはその場を立ち去った。

 足が不自由で車椅子生活を送る妹のため、寮制度を敷いている学園側はルルーシュたちに、普通の生徒らよりも少し広めの一角を貸し与えてくれていた。だから犬一匹増えたところで、間取り的にも問題はさほどないであろう。犬の世話も、雇っている家政婦に餌やりとトイレ掃除を手伝ってもらえたら、どうにかなる。そもそもペットを飼うことについてだが、学園側に申請を出し許可さえ下りれば飼うこともできると、どこかで聞いたことがある。飼育条件は揃い過ぎているほど見事に揃っていた。しかし、それでもルルーシュは犬を飼おうと思わなかった。
 犬であれ猫であれ、ハムスターやカブトムシにしろ、生きているものはみな等しく平等に命がある。それを飼うということは動物の命を背負い、最期まで面倒を見る責任を負わねばならない。この捨てられた犬は、前の飼い主がその責務を放棄したのだ。どんな理由であれ、それは許されたことではない。動物の命を軽視し、侮辱したことと同義なのだ。
 ルルーシュが動物好きで、よほど犬が飼いたかった、という思いが元からあったなら拾っていたかもしれない。動物は嫌いではないが、好きかと尋ねられれば人並みである。そんな生半可な熱意と覚悟で生き物の命ひとつの責任を取れるものかと、心中で吐き捨てた。

 粉雪とアスファルトのザリザリとした摩擦音が遠ざかってゆくのを、犬は耳に入れたのだろうか。
 ルルーシュは背後でくうくうと切なく鼻を鳴らす声を耳にし、思わず足を止めた。

 いいや、いけない。確かにあの犬は可哀想で、憐れで、同情する。こんな寒い冬の夜に、狭く湿った段ボールに押し込められ、捨てられた。今日は全国的にも大寒波に見舞われ、深夜には余裕で氷点下にも達するだろう。人間でさえこんな寒空の下、着の身着のままで放り出されれば、翌朝には凍死体になるに違いない。
 自分は何一つ、悪いことはしていない。たまたまここが帰宅の道で、段ボールの真横を通り過ぎただけなのだ。諸悪の根源は飼い主にある。白々しく”拾ってください”などと書かれてあるが、そんなことに労力を割く前に譲り先を探すなりすればよかったのだ。

 再びザリザリと足音を立てながら歩みを進めると、その音を耳聡く聞きつけたらしい犬が、先ほどよりも弱々しい声で鳴き始めた。

 何かのトラップかドッキリかと思わせるほどの状況に、混乱を抑えられない。ルルーシュの足音が止むと、犬の鳴き声もぴたりと止むのだ。確実に犬がルルーシュという人間の存在を認識しているのだろう。段ボールに書かれた”拾ってください”の文字が飼い主の言葉でなく、犬の心の声のようにも見えてくる。
 寒いと誰だって人恋しくなるし、温かい場所が欲しい。それは人間だけでなく犬とてルルーシュとて同じなのだ。だからあの犬は自分以外の生き物に、興味関心が向いているのだろう。決してルルーシュがあの犬に、新たな飼い主として見定められているだとか、そういう意図や意味はないはずだ。

 ザリ、と歩を進めると今度は、くしゅんと下手くそなくしゃみの音が聞こえた。

「一体なんなんだお前は!」

 段ボールから抱え上げた犬に向かって、ルルーシュは叫んでいた。周囲に人が居なかったことが不幸中の幸いである。
 段ボールの中では暗くてよく見えなかったが、数日もしくは数週間、そいつは洗われていないのであろう。毛並みは決して綺麗と呼べるものではなかったし、所々泥のような土汚れも付着している。つんと鼻につく嫌な臭いもする。犬の両脇に手を差し込んで持ち上げたが、見た目の割にひょろっとしていて痩せている印象だ。そう思うとどことなく生気も感じられず、垂れた前脚の肉球はひどく冷たい。
 この犬がかなり弱っているということは、一目瞭然である。拾って温かい部屋へ迎えたところで、回復するという確証はない。
 前述したとおり、ルルーシュは平均以上に犬が好きというわけでも、動物愛護の精神があるわけでもない。拾ったところで面倒を見る時間がなければ飼い続けることもできず、飼い主を探すかやむを得ない場合は保健所へ連れて行くしかない。
 自分がこれを拾ったところで、最期までみてやれる可能性は限りなく低いのだ。わずかな時間、延命措置をしてやれるだけに過ぎないだろう。この犬を捨てた飼い主が一番愚かであるのは確かだが、寒さに凍える犬に同情する己もまた傲慢なのかもしれない。

 どうしたものかとここにきて考えあぐねるルルーシュに、犬は小さな反応を示した。
 抱えられたままであったその小さな生き物は首を微かに動かし、舌を出して、ルルーシュの手をちろりと舐めたのだ。
 低い体温とは裏腹に、その舌は生温かい。それがまだ生きている、という何よりもの証拠だ。
 手に残る湿った感触が、それでもまだ生きたいという生き物の願いにも聞こえた。


「おかえりな…… ルルーシュさま、それは一体…!」
「咲世子、申し訳ないが今すぐ入浴の準備をしてくれないか。話はあとだ」

 日がすっかり沈むと降雪の勢いは増した。
 犬を両腕で抱えたせいで両手が空かず、傘は段ボールの横に立てかけて置き去りにしてきてしまった。頭から冷たい雪に晒され、夜道を歩いてきたルルーシュの体はひどく冷たい。こんな寒い夜に全身濡れ鼠では、風邪をひくのも時間の問題だ。
 咲世子はルルーシュと、その腕に抱えられたみすぼらしい犬を見比べ、何も聞かずバスタオルや着替えなどの準備をしてくれた。

 猫はよく水を怖がるというが、犬も当てはまるのだろうか。浴室をシャワーで暖めていたルルーシュはそのことにようやく思い至った。
 いまだ脱衣所のマットの上で立ち竦んでいた犬に向かって、おいでと声をかけた。
 するとルルーシュと、ルルーシュの持つシャワーヘッドを見比べた犬はおずおずと、浴室のタイル床に足をつけたのだ。やはり怖がっていたのか警戒していたのだろう。しかし自分の言葉ひとつで警戒を和らげてくれるということは、相当こいつは懐いてくれているのだろうか。冷たい湿り気を帯びた体毛にノズルを向けながら、ルルーシュは人知れず面映ゆい心地になった。
 犬には申し訳ないが、この場では自分も体が芯まで冷え切っている。シャワーホースを固定させ、出しっぱなしにした湯を背中で浴びながら、ルルーシュはいよいよその土汚れにまみれた体を洗う時がきた。
 泡立たせた石鹸で体毛や皮膚を擦ろうとすると、腕の下でそいつはひどく暴れ出す。無理に押さえつけても痛そうだが、このまま抵抗されては洗い終わらない。
「少しの間、大人しくしてくれないか」
 なおも暴れる犬に向かって、ルルーシュは声をかけた。すると不思議なことに、そいつの抵抗はみるみるうちに収まっていくのだ。
 人の言葉を理解しているかのような素振りに、思わず目を瞬かせた。いやこれはきっと、人語や犬語といった言語という概念を超え、この生き物は己の感情を理解してくれたのかもしれない。そんならしくもないことを考えながら、ルルーシュは作業を再開した。

 小さくもなければ大きすぎることもない、いわゆる中型犬に属するであろうそれは、思いのほか手こずらせた。犬を洗うというのは、ルルーシュの予想を遥かに上回るほどの重労働であったのだ。いくら大人しくなったとは言え、相手は生き物である。尻尾を振ったりタイルの上をうろついたりしゃがんだり、立ち上がったりとその動きは気まぐれだ。
 その上、元から手入れされている飼い犬であれば、そこそこ擦れば石鹸も泡立ち汚れも落ちるだろうが、なかなかに汚れているこいつは二度洗い、三度洗いと手間がかかる。一度では落としきれない、とくに足元は念入りに洗ってやる必要があった。
 瞳には石鹸が入らぬよう細心の注意を払わねばならないし、体の表側だけでなく腹や足の裏も抱えて洗ってやらねばならない。時折悪戯心か、ルルーシュの胸に飛びついたり、かと思えば腕からするりと逃げ出し体を振るって水滴を払い、好き勝手浴室を動き回る。
 ようやく犬の体毛や皮膚から泡を流し終えた頃には、ルルーシュは肩で息をするほど疲弊しきっていた。
 こんないぬっころ相手にここまで体力を消耗させられるとは思いも寄らなかった。これからは犬相手であろうと、侮らないことを密かに決意した。

 思いのほか手こずった犬のシャワーもようやく終わり、ルルーシュは体についた石鹸を流したあと、ようやく湯船に浸かることができた。体の芯から末端まで冷えていたものだから、温かい湯がいつも以上に心地いい。
 全身ずぶ濡れのまま放置していては冷えるだろうからと、シャワーからは湯を出しっぱなしにしてやった。犬は上空から降り注ぐ湯水や排水口に興味を示している様子だ。

 体の緊張がようやく抜け、ふうと息をつく。慣れない肉体労働と極寒からやっと解放された心地である。命の洗濯、と喩えられるのも頷ける。
 気が付いたら犬は、ルルーシュの浸かる浴槽のほうにじっと視線を向けていた。入りたいのか、と声をかけると犬はくうくうと鼻を鳴らした。つぶらな瞳は湯船に浸かりたいとひっきりなしに伝えている(ように見える)が、この湯船はルルーシュのあとから使用する人間もいるのだ。これがルルーシュの一人暮らし、もしくは最後の湯だったら、抱き上げて一緒に浸かることができたかもしれない。
 いくら浴室が温かいからといって、濡れたまま放置していては人間と同様、犬だって体を冷やすだろう。大して温もってもいないが、渋々湯船から上がったルルーシュは、犬を抱えて浴室からようやく出た。
 自分の体を拭いたところで水滴を飛ばされれば意味がないと判断し、まず体毛から水滴がしたたる犬にタオルを巻いて拭いてやった。時折体を振って飛ばされる水滴が冷たく、タオルドライの作業もなかなかに難航する。
 身奇麗にされすっかり機嫌が良くなったのか、犬は先ほどまでのしおらしい態度はとっくに消え失せている。ひと際大きな声で鳴いたかと思えば、脱衣所のマットレスや棚に興味を示し、鼻を寄せたり室内の四隅を駆けたりしだした。このままでは床が濡れてしまうので、ルルーシュは暴れ回る犬を無理やり抱えて、無造作にその体毛の水分を拭った。

 タオルドライがあらかた済めば、今度はドライヤーだ。
 両ひざを床につけて、股の間に犬を挟み固定してやる。温風を当て過ぎないよう気を遣って、毛を乾かした。顔に風が当たりそうになるとひどく嫌がるものだから、あまり良くないのだろう。ルルーシュはそう判断して、顔にはできるだけ温風を当てないよう、首の周りなどの最小限に留めた。
 背中が大体乾いたら犬の体をひっくり返して、今度は腹を乾かしてやる。なんとも間抜けな格好だが、今だけは我慢してもらうしかない。くの字に曲げられた足も順番に乾かして、ようやく仕舞だ。

 脱衣所でずいぶん奮闘したせいか自覚していなかったが、浴室から出てからほぼ全裸のままであったことにルルーシュはやっと気づいた。手早く下着と衣類を身に着け、自分の髪の毛にもドライヤーを当てた。その頃にはもうとっくに犬は全身乾ききっており、今ではルルーシュの足元を大人しくうろついている。
 不意に素足の甲に湿った感触がした。見下ろせば案の定、蹲った犬がルルーシュの足元に顔を寄せているのが分かる。噛まれるかと思ったが痛みもなく、舌で舐めているだけのようだ。そんなところ舐めるんじゃない、という気持ちを込め、犬が舐めたほうの足を上げて追い払おうとした。しかしルルーシュのささやかな抵抗も意に介さず、犬は反対側の足首のほうに鼻先や頭を擦り寄せてくる。

 そういえばこの生き物は腹を空かしているはずだと思い当たったルルーシュは、足元でじゃれつく犬を抱え上げリビングへ向かった。
 食卓には既に自分用の夕飯が用意されており、その隣には犬用の餌もいくつか置いてあった。
「犬用の餌とトイレは先ほどわたくしが、ご用意させて頂きました」
 控えていた咲世子がそう恭しく報告した。相変わらず気の利くメイドだと、ルルーシュは感嘆し素直に礼を述べた。
 しかしルルーシュは感謝よりも、申し訳なさの感情が先立った。そういった類の物は本来、あらかじめ話し合っていたのならまだしも、である。勝手に拾ってきたのはルルーシュなのだから、本人が自分で用意するのが道義であろう。だからルルーシュは感謝よりも、関係のない咲世子に手間をかけさせたことへの後悔が強いのだ。
「ルルーシュさまはお優しい方ですから」
 ルルーシュが抱えていた犬が濡れ鼠でいて、ひどく弱っていた様子だったことから彼女は察したのだろう。なんだか照れくさい気持ちになって、しかしそれを謙遜したり否定する気にもなれず、ルルーシュは話題を変えた。
「こいつはしばらく俺が面倒を見る。飼うのもリビングじゃなく、俺の部屋にするよ」
「よろしいのですか」
「汚したり散らかしたりすると、咲世子の仕事が増えるだろう。新しい飼い主を見つけるまで預かるだけだ」
 餌が入った皿を床に置くと、犬は尻尾を振ってそれにありついた。こいつにとって一体何時間、いや何日ぶりの食事になるのだろうか。あっという間に平らげた犬は、忙しなくおかわりを要求した。
 皿にドッグフードと缶詰を盛って差し出せば、またあっという間に皿の底が見えてしまった。一体どれだけ食べるつもりなんだと、ルルーシュは呆れてしまう。
「ということは、この子は飼わないおつもりで?」
「ああ。これから先ずっと世話し続ける負担や責任を、俺は負えそうにない」
 話に夢中になっていると、犬が控えめに吠え出した。おかわりはまだなのかと、ルルーシュにせびっているらしい。何もない皿の底を舐め、餌の追加を強請っている。
 ルルーシュは仕方なく、缶詰の残りとドッグフードを少量、皿に入れてやった。その追加分もとくに味わう素振りもなく、犬はあっという間に完食してしまうのだ。元気なのは良いことだが、些か食い気が過ぎるのではないか。ルルーシュは思わず顔を顰めた。

 食欲が落ち着いたらしい犬の様子を見たルルーシュも、ようやく自分の食事にありついた。とはいってももう夕食というより、夜食と呼べる時間である。胃にあまり残らないものを少量だけ食べて、さっさと食事を終えた。
 空になった食器と犬の皿は纏めてキッチンへ運び、自分の手で洗う。学校に行っている間の家事や食事などの面倒は咲世子に任せきりであるため、最低限自分でできることを、とルルーシュは極力手伝うようにしている。
 犬を飼うにあたってもそうだ。先ほどは緊急であったから彼女に最低限必要なものを買い揃えてもらったが、ルルーシュが学校に行っている間の世話は恐らく咲世子任せになるだろう。独断で拾ってきた生き物の世話を、いくらやむを得ないからといって他人に押し付けるのは、どうもルルーシュとしては許せない部分がある。金魚やカブトムシと違って、犬は動き回るし吠えるし散歩も必要だ。そういった面倒を、ただでさえ日中家事をやっているところに加えて負担させるのは、どうしても申し訳がない。
 どうやら犬はルルーシュに大変懐いているようではあるが、飼い続けることは難しいだろう。足元で未だじゃれつく生き物に、少しの愛着と寂しさを感じた。

 歯を磨いたあと、リビングで眠そうにくつろぐ犬を抱え上げ、ルルーシュは自室へ戻った。
 明日は念のために病院へ行って、散歩用のリードやおもちゃなんかも買うべきだろうかと考えた。幸い今日は二学期の終業式で、明日からは冬休みが始まる。この冬休み期間であれば犬の面倒も自分が見ていられることだから、飼い主探しも同時に行うことができるだろう。
 ルルーシュは抱えていた犬を床に下ろし、自身はベッドの掛け布団を捲った。湯船で温もった体は少し冷え、それがひどく眠気を促す。重くなる瞼には逆らわず、もう寝てしまおうと考えた。
 シーツの間に身を滑らそうとしたところで、床についている足のふくらはぎの辺りに柔らかい感触がした。見なくてもそれの正体が何かは、ルルーシュはとっくに分かりきっている。
「お前もベッドのほうがいいか」
 そう語り掛けると、犬はルルーシュが持ち上げずともベッドに飛び乗った。その隠された身体能力に驚かされつつ、無遠慮で無作法な来訪者に呆れた。
 シングルベッドの片側に少しスペースを開け、シーツに横になると、本格的に睡魔に襲われる。寝相が決して悪くないほうであると自負しているから、寝ている間にこれを押し潰す心配も恐らくないであろう。それよりも犬の方が寝相が悪く、腹や顔に乗っかってくる可能性のほうが大いにある。ルルーシュは既に寝息を立てる犬を睨んだ。
 ベッドの壁側で暢気に眠った生き物を見遣ったルルーシュは、掛け布団を自分とそれに被せて今度こそ目を瞑った。怒涛のような半日を過ごした肉体と精神は、早急に休息を欲している。ルルーシュが深い眠りに落ちるのも、さして時間はかからなかった。



 ?
 明朝早く、ルルーシュは目を覚ました。
 窓の外はまだ薄暗く、夜の余韻を存分に残した空色は朝焼けも程遠い。
 枕元にある端末を目にやると、時刻は六時半を表示している。冬の朝は日が昇るのが遅い。この時期は七時前にならないと、朝日もなかなか昇ってこないらしい。

 月も星も見えない薄紫の、奇妙な夜の風景はいっそ幻想的だ。
 家の中の者はみな寝静まり、空気の振動すらひとつもない。耳を澄ませば雪の降る音も聞こえてきそうだが、あいにく積雪は深夜のうちに収まってしまったようだ。
 昨晩降った雪は溶けずに固まっているだろうから、路面も凍えるほど冷たいに決まっている。ただでさえ外気は肌を刺すように冷たいのに、足元まで冷たいというのも、犬には忍びない。昼には病院へ連れて行こうと画策していたルルーシュは、思考を巡らせた。

 そして同時に、漠然と、寒さを感じた。日が昇る直前のこの時間帯である。一日のうちで最も寒いのは当然のことだ。
 本能的に掛け布団を被り直そうと手を伸ばしたが、何も見当たらない。うっすら目を開くと、昨晩は己の体を覆っていた布団が丸ごと、忽然と姿を消していた。つまり今この瞬間まで、己は部屋の外気へ剥き出しに、無防備に晒されていたのだ。
 そう意識した途端、身震いをした。そうして、ひたすら寒いと感じざるを得なかった。
 犬の居る壁側に頭を動かすと、こんもりと布団の山が出来上がっていた。冬の寒さに身を震わせた犬に布団を横取りされたのだろうか。
 おかしい気持ちになったルルーシュは遠慮なく、そこから布団を剥いだ。
 体温の移ってある掛け布団はぬるく、しかしとても落ち着く。顔の半分まで掛け布団を被り直し、再び眠りへ落ちようとした。

「ん、寒い……」
 隣からそんな声がしたと思ったら、被っていたはずの布を剥ぎ取られた。うつらうつらと睡眠と覚醒の縁を漂っていたルルーシュは今度こそ、意識を完全に覚醒させた。
 明らかに犬の力ではないその動作と、人語と、犬ではない気配が隣から漂ってくる。ルルーシュの自室は一人部屋である。この家には他に、メイドの咲世子と妹のナナリーが住んでいる。そして昨晩、新たに犬が一匹増えた。
 隣にはてっきり犬が寝ていると思っていたが、これはどう考えても犬ではない。人間の言葉を喋る犬が居て堪るものかと、隣で掛け布団を頭まで被る山をルルーシュは睨んだ。
 そうして微妙にその山と距離を取りつつ、ベッドの上で無言の攻防戦を続けること数秒。掛け布団横領と不法侵入、シングルベッドの片側占拠の犯人は、ゆっくりと寝返りを打った。
「人間……男……?」
 布団とシーツの隙間から見えた顔は、明らかに男のものである。安らかに寝入る侵入者はルルーシュより年下、もしくは同年代くらいの顔だちだ。

「んん……」
 ルルーシュの声が耳に入り安眠を妨げたのか、その男はゆったりと覚醒の兆しを見せ始めた。間延びした欠伸をしながら、ゆっくりと上半身だけシーツから起こそうとする。だが、布団の温かさが恋しいのだろう。何度も寝返りを打ったりもぞもぞと体勢を変えて、一向にそこから起き上がろうとしない。
「動くな不審者、警察に連絡するぞ」
 ベッドから距離を取ったルルーシュは、男に冷たく脅し文句を投げかけた。
 自室には護身用の武器の類、もしくはそれに代われるものは一切見当たらない。かといって今のタイミングで部屋から離れて咲世子を呼びに行けば、何をされるか分かったものではない。自分の本名の姓が”ランペルージ”でなく”ブリタニア”であること、それにまつわる陰惨な過去を知られ、漏らされでもしたら堪ったものではないからだ。一体どこから侵入し、易々と己の寝床にまで忍び込んだのかは想像に難い。しかし、いつでも自分がこの男に寝首を掻かれてもおかしくなかった状況に、背筋が凍った。この寮に居ればひとまず安全である、という慢心が招いた事態であろうが、それでもおぞましい出来事だ。
「僕のこと、覚えてないの?」
 目を擦りながらようやく上半身だけ起き上がった男は、再びひと際大きな欠伸と伸びをした。その目は半開きで、まだ完全には覚醒していない様子である。
 そしてもうひとつ驚くことに、その男は上半身が裸であった。ルルーシュも完全に丸腰ではあるが、目の前の男はそれ以上に無防備な状態であったのだ。
 だがそれでも油断は禁物である。自害用の毒物や爆発物を所持している可能性もあるし、身体能力がべらぼうに高いのかもしれない。とにかく丸腰に見せかけてルルーシュの隙を突いてくる可能性が非常に高いのだ。ルルーシュは薄暗い部屋の中、目を凝らして男の動向を探った。

「質問に答えろ。お前、どこから侵入した」
「何言ってるの? 昨日、君が拾ったじゃないか」
 きょとんとした面持ちで首を傾げたそいつは、未だうとうとと船を漕いでいる。夜目が利かないのだろうか、その焦点は定まらずルルーシュとも目は合わない。
「拾った?」
「うん。犬、拾ったでしょ」
 ルルーシュが拾ったのは、紛れもなく犬だ。人間の男を拾ってきた覚えはない。
「それにお風呂もご飯も」
「……」
 一体この男はどこからどこまで、ルルーシュの行動を認知していたのだろうか。家じゅうに盗聴器やカメラなどが張り巡らされていたのだとしたら重大な問題だが、それを設置するにも設置するための作業および人間が必要である。そんな大掛かりなことをするくらいだったら、住人を捕らえるか、家じゅうを荒らしたほうがよっぽど早い。
「それで一言君に、ありがとうって伝えたかったんだ。起きたら一言だけでもいいから君に、どうしても感謝の気持ちを伝えたかった」
「……」
 ルルーシュは張り巡らしていた思考を一旦中断し、男が語る奇妙な物語に耳を傾けた。この場で頼りになる証言者は、目の前の彼しか居ないからだ。
「そしたらさ、驚くことに起きたら……」
「起きたら?」
「……人間になってたんだよ!」

 すっかり覚醒したらしい彼はそう言いのけると目を輝かせ、ベッドから飛び降りようとする。
「ま、待て待て、おい!」
「ありがとう、僕を助けてくれて! 君は命の恩人だ!」

 陳腐な映画のラストシーンのような、白々しい言葉だ。
 ルルーシュは動揺して、手にしていた携帯端末を床へ落としてしまった。それもそのはずである。男は上から下まで何一つ身に着けていない、言葉どおり生まれたままの姿だったのだ。

 ベッドから飛び降りた男はそんなことを言って、ルルーシュの体を引き寄せた。そうして耳元でありがとうありがとう、と飽きるほど何度も感謝の気持ちを口にするのであった。


 ?
「つまるところお前は、俺に拾われ世話されたお礼をしたくて、人間になったと?」

 ルルーシュの衣服を貸し与えられた男は、その質問に対しにこりと微笑んで肯定の意を示した。
 身長はルルーシュと同じくらいであったため、彼が着てもサイズはぴったりだ。さすがに同性とはいえど、初対面の男が全裸で自室を闊歩している光景というのはなかなか目に悪い。幸いなことにルルーシュに対する殺意や悪気は一切感じられず、それどころかルルーシュに対して大変従順な態度を取るのだ。

「一言君に、お礼を言いたかったんだ。君と同じ人間になれたら、気持ちを伝えられるのになあって思った。そうしたら本当に!」
「起きたら人間になってた、って?」
「そうそう! 話が分かるみたいで、助かるよ」
 ルルーシュは眉間に寄らずにはいられない皺を堪えながら、この男の証言を信用できるのか、まだ考えあぐねていた。

 この異常な状況から鑑みるに、彼の言うことが正しければ不本意ではあるが、辻褄が合うのだ。ルルーシュやナナリーが屋敷を空けている間は咲世子が家事を兼ねて警備を行っているし、ルルーシュ自身戸締まりには常に気を遣ってる。そもそもアッシュフォード学園に侵入するとしても学園内の警備を突破する必要があるのだ。それだけの万全な体制をこの丸腰の男一人が尽く突破し、ルルーシュの寝床に侵入できたというのは些か非現実的であるのだ。
「お前本当に、あの野良なのか」
 きょとんとする彼の甘い仕草に、ついつい毒気を抜かれてしまう。考えることが馬鹿馬鹿しくならざるを得ない。
 大きな翠の虹彩は嘘をつくことを知らない色をしているようにも見えた。栗色の癖毛はあの晩に拾った野良の毛並みを彷彿とさせる。やけに従順で物怖じしない、しかし大人しい態度は飼い主を前にした忠犬そのものである。

「僕はご主人様のこと、なんて呼べばいいかな?」
 目の前の男はルルーシュの心中などいざ知らず、あっけらかんとした声音でそう尋ねた。
「……ご主人様はやめろ」
 いくら中身が犬と言えど、彼の造りは立派な青年のものだ。そのような呼ばれ方はうすら寒く、ルルーシュの背筋に鳥肌を立てさせた。
「ルルーシュ、でいい」
「それは君の名前?」
「そういうお前の名前はなんなんだ、野良」
 質問に質問で返されたことに目を瞬かせつつ、男は律儀に主人の問いに答えた。
「僕はそうだなあ……スザク、でいいよ」
 スザクでいい、と含みのある言い方から察するに恐らく、この犬を捨てた飼い主が以前つけていた名前なのだろうか。道端に捨てられ、餓え死にかけた彼にとっては、その名で呼ぶことすら嫌悪感を与えてしまうかもしれない。

 そうやって暫く逡巡するルルーシュに、先に声をかけたのは犬のほうであった。
「何か難しいことを考えてる?」
「……いや」
「実は僕、前の飼い主のことをよく覚えていなくて。スザクって名前も、そんな風に呼ばれていたかなあっていう、あやふやな記憶だよ」
 人間の機微にはずいぶん鋭いらしい。
 伏し目がちの瞳には睫毛の影が差し込み、声色もわずかながら悲しげな音色を窺わせる。

 大層都合の良いことを言う犬だと、ルルーシュは思った。本当に彼の言うとおり、彼は犬であった頃の記憶があまり残っていないのかもしれない。
 だがたとえ一時的であれ、それは新たな飼い主となったルルーシュに余計な気を遣わせまいとする彼なりの嘘ではないとも、言い切れない。まだ出会って数分、数十分足らずの相手だ。いくらルルーシュの洞察力が優れていようと、人間の深層心理まで読み解く能力は持ち合わせてはいない。

「あの、悪いんだけど……」
 なんだ、とルルーシュが声を発するのと同時に、スザクの腹からくぅと間抜けな音が鳴った。
「お腹、減って……」
「ドッグフードならあるぞ」
「僕、人間だからその」
 ルルーシュはその瞬間、人間の姿となった彼を”飼う”ことの弊害を、ようやく悟った。

 寝る場所なら、彼を自室の床にでも転がせておけばいい。衣類はほぼルルーシュと身丈が変わらないことが幸いして、貸し与えれば何とかなる。しかし食事や入浴、トイレだけはどうしようもない問題だ。
 咲世子やナナリーに、”昨日拾ってきた犬が人間に変身した”とでも説明できれば良いが、とうとう頭がどうかしてしまったと言われるに違いないし、言ったところで信じてもらえるかも危うい。
 ルルーシュの場合、隣で寝ていた犬が見知らぬ人間になっていた、という実体験があったからこそ認めざるを得ない状況になったのだ。いくらルルーシュの口が上手いからと言って、到底信じてもらえそうにもない。
「お前、犬の姿に戻ったりはできないのか」
「どうだろう。やってみるね」

 その口ぶりからして、やろうと思えばできるものなのかとルルーシュは呆気に取られた。
「恥ずかしいから、後ろ向いててほしい」
 もう疑問点をいちいち突っ込む気にもなれず、ルルーシュは些か不遜な犬の言うとおり背を向けた。

 数秒待つと、背後でばさりと布が大きな音を立てた。
 まさか、とルルーシュが瞬くのと、ワン!と一際大きな鳴き声が耳に入ったのは同時であった。
 尻尾を振りながらルルーシュの足元にまとわりつくそれは確かに、昨夜己が道端で拾った生き物と寸分違わない姿だ。ふんふんと鼻を鳴らし、媚びるようにくうくうと鳴き声を上げる様子はまさに、飼い主から餌をせびるペットの手本である。
 こうすれば人間に優しくしてもらえるのだと、本能が覚えているのだろうか。
 ルルーシュは己に媚びる生き物を抱き抱え、自室を後にした。



「ふふ。くすぐったいです、スザクさん」
 くすくすと笑う妹の、絹肌の手のひらを犬は無遠慮に、ぺろぺろと舐めた。
 じゃれつく犬に手を焼くナナリーの図は大変可愛らしく、ルルーシュの心を和ませるには十分であろう。しかしあの犬の中身はルルーシュと年端も変わらない男の人間なのだ。それを思うと、犬相手とはいえむかっ腹が立つのも致し方ない。
 ずず、とわざとらしく音を立て紅茶を飲むが、犬にはそこまで飼い主の心を察することはできないらしい。ナナリーの足元や車椅子に鼻先を寄せ、機嫌良く尻尾を振っているのがルルーシュからはよく見えた。

「今日は散歩に行ってみようか」
 ルルーシュはおもむろに立ち上がるとナナリーの足元でじゃれつく犬を抱えあげた。
 昨日に二学期の終業式を迎えたばかりで、冬休み中は犬の世話を自分が請け負うと宣言していた。だからルルーシュがこうして率先して犬の世話を自ら率先して行うことはなんら不自然ではないし、むしろ当然のことなのだ。
「使いやすそうなリードが見つかれば買って、ナナリーとも散歩をしてみようか」
「それは楽しみですね。お待ちしております」
 あまり吠えない利口な犬と兄を見遣って、妹は柔らかく微笑んだ。


「今から散歩なの?」
 クローゼットの中から衣類を取り出していると、不意に背後から声がした。
 つい先程まではカーペットを踏む足音や鼻息が聞こえていたのに、ぱたりとそれらが止んだと思えば聞き覚えのある人間の声だ。
 彼は変幻自在の妖怪、或いはもののけの類いかと頭を抱え、ルルーシュは声の主の方へと振り返った。
 彼は今朝、犬に変化したと同時に脱ぎ散らかした衣類を再び身に付けていた。飼い主であるルルーシュが全裸は良くない、あまり見せるものではないと教えたからであろう。本能がそうさせているのか、彼は飼い主の言うことには忠実に従う性質があるらしい。
「外に出るのが嫌か?」
「ううん、そうじゃなくて……この姿で外に出ちゃだめかな」
 しゅんと項垂れるようなスザクの仕草は子犬のようで、ルルーシュの庇護欲を大いに煽る。
「せっかく君と同じ人間になれたから、もっと話したくて」
 先程の仕草に上目遣いも加え、スザクは健気に懇願した。

 そうは言っても、この犬が実は人間の姿にもなれることは、家の者に話していない。家の玄関に着く前に咲世子にでも見られでもすれば彼女は血相を変え、スザクを侵入者として捕まえかねない。
 となると、かくなる方法はひとつしかないだろう。



 人気のないトイレの個室に駆け込み、ルルーシュは息をついた。
 何も物を盗んだわけでも殺人を犯したわけでもないのに、どうしてこんな大罪人のような真似をしなければならないんだ。ルルーシュはそう当て付けながら、胸に抱えた大きな鞄を恨めしく睨んだ。
 その鞄のジッパーを全開にし、床のタイルに置いてルルーシュはそこから背を向けた。
 しばらくすると布の擦れる音が鳴り、それがしばらく続いた。だがそれも数分でぱたりと鳴り止み、背後の男がルルーシュの肩を無言で叩いた。それが合図となる。

 ルルーシュはこの個室のトイレに入ってから、一度も足音らしい物音を聞いていない。ということは、この辺りは最初から今までルルーシュしか使用していないということだ。
 辺りの気配に神経を研ぎ澄ませながら、そうと扉を開けた。周囲を見回し、その場を後にしたあとルルーシュに続くように、彼も後を追った。
「ルルーシュの作戦、大成功だね」
 ひそひそと耳打ちするようにルルーシュへ話し掛ける男は、ルルーシュの気苦労など知ったこっちゃないという風である。
「これはトイレで誰かに見られたら大失敗だからな」
「どうして?」
「あらぬ誤解を生むからだ」
「というと?」
「……そういうものなんだよ」
 男子トイレの個室から男二人が出てくるところを見られでもすれば、どんな疑いをかけられるか分からない。つまりそれは、そういう意味だ。
 隣を歩く人間一日目のスザクは釈然としない面持ちで、ふうんと気の抜けた相槌を返した。

 作戦とは言っても、要はスザクが人間の姿のまま屋敷から出ず、アッシュフォード学園の敷地外で人間の姿になれば良いのだ。衣類を詰め込んだ鞄に犬を入れ、そのまま鞄を人気のない場所に置いて犬は人間に戻ってもらう。鞄にはスザクに着てもらう衣類が揃っているため、その場で着替えるだけだ。
 家へ帰るときは、人目のつかないところで犬に戻ってもらい、人間のスザクが身に付けていた衣類をルルーシュが回収する、という寸法だ。

 ふんふんと呑気に鼻歌を歌うスザクに呆れながら、ルルーシュは文字通り犬と散歩した。
 人通りの多い駅前を避け、ペットの散歩コースにうってつけな人気のない街路樹の通りを歩かせた。スザクはなんの変哲もない景色にも興味津々といった様子で、あたりを忙しなく見回しながらゆっくりと歩を進めている。ちゃんと前を見て歩かないとぶつかるぞ、とルルーシュは落ち着きのないスザクを咎めた。現に”犬も歩けば棒に当たる”という諺もある。今の彼は人間だが。
「ねえ、僕やっぱり人間の食べ物を食べてみたい」
 今朝の話題を彼は今になって再び蒸し返した。
 スザクは期待に満ちた目を道の脇にある喫茶店へ向け、ルルーシュの服の裾を控えめに引っ張っている。彼は好奇心旺盛だと思っていたが、何にでも興味を示すわけでもなく、人間の生活に関心をそそられるらしい。
「今朝ドッグフードを食べたところだろう」
「……だめ?」
「……」
 喫茶店の窓ガラスからは店内で軽食を楽しむ人たちがよく見え、スザクは目を輝かせている。
「……お利口にしておけ」
 スザクはその一言を承諾の意と捉え、ルルーシュの腕を遠慮なく引っ張った。


 窓の外の景色がよく見えるカウンター席にどうしても座りたいと懇願したのはスザクであった。ルルーシュは冬休みのためこうして自由に過ごしているが、世間は平日のど真ん中だ。まだ朝方の時間帯はそれほど混んでおらず、どの客も皆仕切りのあるテーブル席で食事を摂っていた。

 メニュー表を広げて、これはどんな味だのどうやって食べるんだだの、ルルーシュへ質問攻めするスザクのもとへ、店員が皿に乗ったそれを運んできた。ルルーシュへ運ばれてきたのはカップとソーサーのみである。つい先ほど、しっかり朝食を摂ったところであったからだ。
 スザクの方へ運ばれたそれは、分厚いパンケーキの上に生クリームとフルーツ、メープルシロップをふんだんに使用したメニューであった。スザクは目前に置かれた甘味の山に目を輝かせ、ご満悦のようである。見るだけで胸焼けしそうになって、コーヒーを数口喉に流して誤魔化した。

 とりあえずナイフとフォークを持った彼は、己の手に握られた食器とパンケーキを見比べながら硬直している。
「貸してみろ」
 ルルーシュは覚束ないスザクの手からそれを受け取り、分厚いパンケーキにナイフを挿入した。途端に形を崩す生クリームとフルーツを前に少し残念そうな顔をするスザクを傍目に、ルルーシュは適当にそれを切り分けた。
「こうやって食べるんだ」
 ナイフで切り分けたうちのひと切れをフォークに刺し、ルルーシュはおもむろにパンケーキを口へ運んだ。
「甘……」
「それ僕のだよ」
「誰の金で食べさせてもらうと思ってるんだ」
 むう、とするスザクにフォークを手渡すと、早速彼は切り分けられたそれを美味しい美味しいと食べ始めた。ちゃんと噛んで食べろと注意はしたが、それでもよほど人間の食べ物が気に入ったのかみるみるうちに皿の上のものを彼は平らげてしまった。食欲旺盛過ぎる食べっぷりを横目で見つつ、ルルーシュはコーヒーを啜った。
 真っ黒の水面にはルルーシュの顔と、それを覗き込むスザクの顔も映っている。スザクは湯気の立ち上がる真っ黒の液体を、不思議そうに見つめた。
「それ美味しい?」
「人によるんじゃないか」
「僕も飲んでみたい」
 ルルーシュの手から白いカップを受け取り、スザクはそれへ口つけた。
「うあ……」
「犬にはまだ早いんじゃないか」
「僕、人間だし……」
 渋面を張り付けるスザクを、ルルーシュは盛大にからかってやった。


 屋敷に戻ったあと、玄関で出迎えてくれたナナリーに犬は遠慮なくじゃれついている。彼女に頭を撫でられる犬はくうくうと鳴き、尻尾をばたばたと振っていた。大層彼女を気に入ってるようだが、何度も言うようにあの犬の中身は人間の、れっきとした男だ。つまり彼に下心が全くないとも言い切れず、ルルーシュは今日こそそれを問い質そうと決意した。

「ナナリーや咲世子さんは撫で方がとっても優しくて好きなんだ。君はちょっと雑」
 ルルーシュの自室に戻り、犬は人間の姿になったあと無遠慮に部屋の主のベッドで寛いでいた。掃除機をかけたり本棚の整理をする主人の背中をぼんやり見つめていた彼は、退屈そうに欠伸を漏らした。
「雑って、どういうことだ」
 直後返ってきた返答は癪に触るもので、ルルーシュは素直に困惑していた。
「掃除の邪魔をせず、利口にしてたら優しく褒めてやろう」
 ルルーシュはそう言いながら、スザクの寝転ぶベッドへ数冊、本を投げやった。乱雑に放られたそれらは音を立ててシーツの海に沈む。
「それでも読んで、もう少し勉強をした方がいい」
「これはなんの本?」
 興味津々にそれを手に取ったスザクは表紙をじいと凝視し、首を傾げた。
「学校の教科書だ。家庭科と、保健体育。分からない言葉があれば電子辞書で検索すればいい」
 先程の散歩で立ち寄った喫茶店で、スザクはナイフとフォークの使い方すら分からない様子であった。これからも出先でルルーシュが手取り足取り彼に教えるのも面倒だし、周囲からは異様な光景だと見られかねない。
 家庭科の教科書にはこういったテーブルマナーから掃除の仕方、食事の必要性や栄養、人間の健康についても書かれてある。保健体育の教科書にも家庭科の内容と重複する箇所はあるだろうが、怪我をした際の応急処置の方法、人体の仕組みや心の健康、道徳についての記載もある。まさに、人間一日目の彼にはうってつけの教材なのだ。

 スザクが熱心にそれらの教材に目を通している一方、ルルーシュは部屋の片付けに精を出していた。
 なんと言っても、一人部屋だったのが二人部屋になるのだ。元から散らかっていたわけでもないが、来客用の布団を敷いてスペースを空けざるを得ないとなると家具の位置を変えたりした方が過ごしやすいだろう、というのがルルーシュの考えである。 
 平日の間は屋敷の家事掃除を咲世子に一任させているのが現状だ。せめて長期休みの時くらい手伝わせてくれと、彼女に頼んだのはルルーシュの方からであった。
「じゃあ僕はしばらくお留守番ってこと?」
 家庭科の教科書から顔を上げたスザクは、夕飯の買い出しに出掛けようとするルルーシュの背中にそう問うた。
 犬のスザクを連れ出したところで、どのみち店の前で待ってもらうことになる。また先程の作戦を慣行しようにも、それにかかる手間や時間を考えれば少し億劫なのが本音だ。なら少しでも本に目を通して勉強していたほうが有意義ではないかと、ルルーシュはスザクへ提案した。
「暇ならこれでも見ればいい」
 ルルーシュはそう言いながらテーブルに置かれた端末を手に取り、ボタンを押した。
「わ、すごいね」
 真っ黒だった液晶に電源が入り、途端に賑やかな映像が映し出される。昼のドラマやワイドショー、教育番組などに切り替えながらルルーシュはテレビのリモコンの簡単な説明を行った。
「この矢印のボタンで音量調節と、数字のボタンでチャンネルを変えられるから」
「この動いてる人は本物の人間?」
「飼い主の話を聞け」
「聞いてるって。明日の天気は晴れらしいよ」
 あのなあ、と小言を言い出しそうになるルルーシュの手から端末を奪い取ったスザクは、ルルーシュの真似をしてチャンネルを操作したりし始めた。どうやらテレビの内容よりも、ボタンひとつで画面が切り替わることが楽しいらしい。
「夜にはまた戻るから、大人しく待っておけ」
 液晶画面に釘付けなスザクの様子に微笑ましいような、少し寂しいような気持ちになったルルーシュはその栗毛をくしゃりと撫でた。
「いってらっしゃい、ルルーシュ」
 ようやく視線を上げたスザクははにかみながら、主人の背を見送った。



 午後からは夕飯の買い出しと風呂掃除を済ませ、夕飯のあとは食器洗いを手伝い、あれやこれやと忙しなく肉体労働を請け負っているとあっという間に夜更けだ。明日からはそろそろ冬期休業期間の課題に手をつけ始めなければ、また追加課題に追われる日々がやってくるかもしれない。夏期休業の課題の提出期限を壮大に破った前科がルルーシュにはあるため、二度目ともなれば痛い目を見るのは明らかだ。

 夕飯の満腹感と家事の疲労感で眠気に苛まれ始めた折、ルルーシュは自室の扉を開けた瞬間訪れた出来事に対処が出来なかった。
「…おかえりルルーシュ」
「……スザク、これは何の真似だ」
「おかえりのキスだって。好きな人とするらしいよ」
 扉を開けた途端、待ち伏せでもしていたらしいスザクに抱きすくめられ、柔い口づけをされたのだ。突然のことに硬直するルルーシュをよそに、スザクは悪戯が成功した子供のように、無邪気に笑っている。
「テレビか……」
 ルルーシュはスザクの背後に映されている画面を見遣って、そう結論付けた。
「スザク。これは付き合ってる者同士がやることだ。俺たちはそうじゃない」
「僕はルルーシュのこと好きだよ?」
「好きにも色んな種類があるんだ。教科書にもそういうこと、書いてあっただろう」
 ルルーシュはベッドの隅に追いやられた教科書の山を視線で指した。しかしスザクは釈然としないのか、相変わらず首を傾げている。
「僕の好きは種類が違うからいけないの?」
「いけないというか……あまり良いものではない」

 シーツの上に積まれた教科書類を退け、未だに納得のいかないスザクを尻目に、ルルーシュは就寝の準備に入った。日中スザクがごろ寝したせいで皺になったシーツを敷き直し、枕を掛け布団を正しい位置へ直す。室内の暖房は朝まで付けっぱなしにならないようタイマーをセットし、テレビなどの家電の電源もきちんと消した。
 まだ寝るには少し早いが、明日も朝からスザクの散歩をしてやらなければならない。
 自然に口から漏れ出る欠伸を抑えもせず、ルルーシュはベッドに潜り込んだ。

「……なんで隣に居るんだ」
「違うの?」
 平然とスザクも後を追って布団の中へ割り込もうとするので、ルルーシュは慌ててそれを制した。
「このベッドは一人用だ。床に来客用の布団が」
「昨日は隣で寝かせてくれたじゃないか」
「なら俺が床で寝るから、お前はベッドを」
「じゃあ僕も床で寝る」
 聞き分けの悪い子供のように、犬は断固として飼い主の言うことを聞こうとしない。従順に見せかけて意固地な男だと、ルルーシュはスザクに対する評価を変えねばならないらしい。
「……もう勝手に、どこでも寝ろ」
 先に折れたのはルルーシュの方である。不毛な言い合いを続けるよりも今すぐ眠ってしまいたいと、体がルルーシュの理性にせがんだからだ。お前が床で寝る用のスペースを作るためにわざわざ部屋を片付けたのに、とルルーシュは内心文句をつけた。
 張本人である男はルルーシュの言葉を受け、すこぶる機嫌を良くし、その隣へと遠慮なく体を滑り込ませた。
「狭い、もう少し向こう行け」
「これ以上は落ちちゃうよ」
 なら落ちればいいじゃないかと言いかけたが、その文句は口から出る前に胸の奥に仕舞われた。

 スザクの居る方とは反対向きに寝転がったルルーシュは、先ほどから寝間着の裾を引っ張る背後の存在にはとっくに気付いていた。しかしルルーシュもそちらへ振り向く気にはなれなかった。昼間にあまり構ってやらなかったから、この時間になって駄々を捏ねているのだろうと予想をつけていたからだ。
「ルルーシュ寂しいよ、無視しないで」
 スザクの言葉の内容と、涙声に釣られて思わず寝返りを打ってしまうルルーシュもまた、単純であった。

 ルルーシュと目を合わせたスザクは柔らかく微笑み、吐息を漏らした。
「おやすみルルーシュ」
 スザクの顔が近づく瞬間、ルルーシュは思わず目を瞑って身構えた。自室へ戻った先程のように、再び軽々しく接吻を寄越してくるものだと思ったからだ。
「おでこだよ」
 柔らかい感触を額に感じたあと、スザクはそう言い残した。
「恥ずかしい?」
「恥ずかしくない」
 即答してしまったあたり、言葉とは逆に、肯定を示しているようで居たたまれない。それを見越しているのかいないのか、スザクは何も答えず微笑むだけであった。

 犬は微笑みを湛えたまま、まるで内緒事のように声を潜ませて飼い主に問い掛けをした。
「ペットの役割って何だと思う?」
「……」
「僕はね、飼い主を癒してあげることだと思うんだ」
 ルルーシュの目にかかる前髪を掻き分け、緑の目は紫を覗き込んだ。
「僕は君の癒しになってる?」
「どうだろうな」
「……素直じゃないな、ご主人様は」
 まるで子守唄のように流れるスザクの声に、ルルーシュは眠りの波に翻弄され始めていた。自然と伏せがちになり、やがて閉じられようとする視界の中、ルルーシュが眠りに落ちる間際に見た男の表情はどこまでも優しかった。



 人間の姿で外出したいと、スザクの方からたまに言い出す時意外は基本的に犬のまま散歩に連れ出し、リビングでドッグフードを食べさせてやった。そもそもスザクが人間の姿を得た理由が”ルルーシュに一言、拾ってくれたお礼を言いたい”というシンプルなものだ。本人的には人間の姿で居続けることには大して執着心もなく、犬として生活することもさして嫌気があるというわけでもないらしい。
 ただルルーシュの部屋で二人きりになる時はほぼ常時、彼は人間の姿をとった。その理由も”ルルーシュと話したいから”というシンプルなものである。
 単純そうに見えて掴み所がなく、案外複雑そうなスザクの心中であったがこれといって不自由も障害もない。むしろ、普通の犬とは違って人の言葉をきちんと理解できるのだ。それだけ利口なため世話にも手間が掛からず、飼い主としてはその方が助かるくらいである。


 スザクにもそろそろ服の二着や三着、買ってやらないといけないとルルーシュが思ったのは程なくしてからのことだ。
 体格に差はあれど、背丈がほぼ変わらないから、という理由でルルーシュの服を適当に着せていた。しかしそれではルルーシュが着る服がクローゼットからみるみるうちに減ってゆき、着るものがなくなるのだ。洗濯物が乾きにくい冬という季節のせいもあって、衣服の消費に拍車がかかる。

 だから今日は少し人混みの中を、ルルーシュは人間の形をとったスザクを連れて歩いていた。
 テレビでしか見たことないファッションビルや婦人服のショーウインドウに、スザクはどう見ても興味津々で舞い上がっている。少し目を離すとどこかで立ち止まったりルルーシュの行き先と別の方向へ歩き出すものだから、人間用のリードが欲しいくらいだ。ルルーシュは仕方なくスザクの腕を引いて誘導すると、犬はさらに機嫌を良くして飼い主の背中を追った。

 どんな服が好みだと尋ねても、スザクはそういったことに疎いらしく首を傾げているばかりであった。だからこの場ではルルーシュが主導権を握って、スザクに似合いそうなものを見繕ってやらねばならない。
「これはどうだ」
 ルルーシュが手に取ったのは入荷したばかりらしい、深緑色のダッフルコートだ。トレンチやチェスターなどの品のあるデザインよりも、カジュアルめのほうがきっと彼には似合うだろうと、ルルーシュは感じた。
「サイズはぴったりだよ」
「色違いもあるけど、どうだ」
「うーん、こういうのは……僕には難しいかも」
 姿見の前でコートを羽織る彼は照れ臭そうに微笑んでみせた。
 結局、あれやこれやとスザクに合わせてはこれも違うあれも違うと、ルルーシュが吟味に吟味を重ねる形となった。最終的にルルーシュが選んだのはフード部分にファーの付いたモッズコートだ。

 正直スザクはこの時点で既に疲弊していたが、飼い主の命とあらば付き従うまでだ。服の入った紙袋は存外重く、ルルーシュもいくつか分担したが、それでも持ち歩くとなるとなかなかの負担である。
「あとはインナーと靴を揃えたら終わりだ」
「まだ買うの!?」

 もはや本日何軒目になるか分からない服屋に入り、ルルーシュは早速スザクに着せるインナー選びに勤しんでいた。いつになく買い物に熱中する主人に、犬は素直に尋ねた。
「ルルーシュは買い物、好きなんだね」
「まあ、嫌いじゃない」
 鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な横顔に、スザクはしばらく見蕩れていた。

「ペットは飼い主を癒すことが仕事なんだろう」
 服が掛けられているハンガーをいくつか手に取り、ルルーシュはそれらを見比べながら話し始めた。
「ならとことん、俺に付き合ってもらうぞ」

 ルルーシュにとことん付き合ってもらう、と宣言されたのだからある程度覚悟はしていたのだろうがそれでも犬は疲労困憊、という風である。
 日は傾き茜色に空が染まり始めたころ、ようやくルルーシュの買い物欲は満たされたらしく、二人は帰路へと歩を進めた。
 スザクもルルーシュも両手に買い物袋をぶら下げていたが、ルルーシュの方は足取りが幾分軽やかである。それは恐らくスザクに重い紙袋を持たせているだけで、ルルーシュはさして重くないものばかりを持っているのであろうことは明白であった。
「僕、ちょっと疲れちゃったよ……」
 主人の後ろをついて来ていた犬はそう弱音を漏らし、その場に立ち竦んだ。
 ルルーシュは仕方ないな、と言葉を漏らしながらスザクの腕を引いて、ゆっくりとした歩調で歩き始めた。
「帰ったら、褒めてくれる?」
「何をだ」
「いっぱい荷物持って、お利口にしてたこと」
 スザクはルルーシュの方に頭を傾け、幼子のようにそうねだった。

 スザクはルルーシュに頭を撫でられるのがいっとう好きで、何かにつけてそう言い寄ってくることがままあった。今の仕草もそうだ。頭をこちらに向けるときは、彼がルルーシュに撫でてほしいときのサインだった。
 だが往来のど真ん中で男が男の頭を撫でるなど、それなりに人の視線を集めそうではある。二人きりの自室ならたまにそうしてやっていたが、ここでそうする気にはどうしてもなれない。
「ルルーシュ?」
 翡翠が寂しげに細められ、ルルーシュの顔を覗き込んだ。
「帰ったら、いくらでも撫でてやるから」
 ルルーシュは微かに血の上る頬を髪の毛で隠すように、そっぽを向いた。
 だがスザクは、ちょっと目敏く賢い、利口な犬だ。ルルーシュの付け焼き刃な、下手くそな照れ隠しなどお見通しなのかもしれない。その証拠に、ルルーシュの仕草を見たスザクはくすりと微笑んでそれきり何もねだらなかった。



 その日を境に、スザクはやたらとルルーシュに対してスキンシップを取りたがった。常にルルーシュの背に引っ付き、不意打ちのように抱きすくめたり、顔や髪の毛にキスをしてくることもある。元が人懐っこい犬だったせいで、その性質が人間となった姿でも受け継がれているのだと思えば納得する余地があるかもしれないが、言い方を変えれば軟派な男、とも形容できる。


 そうやって二週間ほどが過ぎた、ある夜のことだった。
 相変わらず一人用のベッドの片側を占領してくる男の存在にも正直、いい加減体が慣れ始めていた。それどころか、ルルーシュよりも体温が高いらしい彼はまるで巨大湯たんぽのようで、冷たい布団の中を温めてくれるほどだ。意図せぬ形で彼の添い寝にささやかであれ恩恵を受けることになるとは、ルルーシュも予想だにしなかった。

「ルルーシュ、起きてる?」
 温い布団に包まれ眠りの淵をさ迷っていたルルーシュとしては、起きていたというより、スザクの声に起こされたと表現する方が正しい。普段は飼い主の安眠を妨げるような言動は一切しない忠犬の、それはいつにない行動であった。
「……寝てる」
「ルルーシュ、なんか僕、おかしいんだ」
 主人の返答を聞き流した彼は、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
 ぐいぐいと裾を引っ張る力も強く、ルルーシュは仕方なしにスザクの方へ体を捩らせた。一体真夜中に何なんだと、安眠を妨害されたことによる軽い苛立ちすら募り始める。
「どうしたんだ、またトイレか」
「ちが……」
 ルルーシュが重い瞼をようやく開けると、明らかに様子のおかしいスザクがそこに横たわっていた。
 夜目はあまり効かないが、目にはうっすら涙を溜め、はくはくと荒い呼吸を繰り返している。高熱だろうかと湿った額に手のひらを当てるが、そこは人並みの体温であった。顔色を見ると、白っぽかったり青ざめたりはしていないものの、微かに頬が上気しているのが微かに見えた。
「どこか痛いところは?」
「痛くは、ないんだけど……」
「だけど?」
「その……」
 スザクはそこで言い淀む素振りをすると、自ら掛け布団を少し捲った。
「体が、変で」
 尻すぼみになる語尾では、スザクの体の症状や言いたいことが伝わらない。ルルーシュは寝間着の上からスザクの体を見分するが、とくに変わったところは見られない。
「なんだか、ドキドキして、あつくて」
「……ん?」
 スザクはそう言うと同時に、両脚をすり、と擦り合わせた。
「……お前のそれは多分、病気じゃない」
「そ、なの?」
 潤みきったスザクの瞳に見つめられ、ルルーシュは気まずく目を反らした。

 そういった男性の体に起こる生理現象の類いは、先日貸し与えた教科書に記載があったはずだ。保健体育の性教育のページを読み聞かせる趣味なぞ、ルルーシュには当然ない。だからルルーシュの口から説明せずともスザクに理解させるべく、教科書を貸したというのも目的のひとつだった。
 ルルーシュが貸し与えた教科書を、スザクはあたかた目を通した様子であった。その証拠に、ルルーシュの居ない間に洗濯物の片付けや部屋の掃除などの家事から、外出する際の基本的な交通ルールや金銭の勘定の仕方など、生きていく上で最低限必要となる知識は備えることが出来ていた。
「こないだ貸した保健体育の本、人体の仕組みについて書かれてあっただろう。覚えているか」
「う、うん」
 スザクはルルーシュの発言に、気まずそうに顔を背けた。
「体の断面図みたいで、なんか気持ち悪くて……実は、そこはあまり、読めてない」
 そういうことかと納得すると同時に、なんてことだとルルーシュは内心頭を抱えた。つまりスザクはこういった生理現象が男性にはあることも、その対処法も知らないということなのだ。

 今からでもスザクに本を読ませるかと、ルルーシュがベッドから立ち退こうとした時だ。
「どこ行くの」
 掛け布団の隙間から腕を伸ばしたスザクに、ルルーシュは突如として手首を掴まれた。
 ルルーシュがその手を振りほどこうとすれば、余計に拘束の力は強まる。恐らく未知の感覚に体を犯され、彼は不安なのだろう。唯一頼りになるルルーシュに傍に居てほしいと、ルルーシュがどこにも行かないという確証が欲しいのか。
「分かったから、もう離せ」
 どこにも行かないよ、と付け足すと、スザクはふにゃりと笑ってようやく手の力を弱めた。

 ルルーシュが黙って再び布団の中へ戻ろうとする様子を、スザクは上目で追いかけた。
 しかし依然として、体内で暴れ回る熱の正体も、どうすれば治まるかも彼は知る由もない。ルルーシュの監督責任だと指摘されればあながち間違いでもないだろうが、こんな世話まで請け負わねばならないというのも不服ではある。

 掛け布団を少し捲った状態で、ルルーシュもスザクと向かい合わせになるように寝転んだ。スザクはただただ不思議そうに、目を瞬かせるだけである。
「俺に背を向けて、あっちを向いて」
 どうしてとスザクが疑問を噴出させる前にルルーシュは治してやるから早くしろ、と念押しした。
 スザクは有無を言わさないルルーシュの態度を前にして、とりあえずは大人しく言うとおりに従ってくれた。だが問題はここからである。
「下、脱げ」
「脱げって……?」
「下着ごと、ほら」
 彼の身に付けていたスラックスに指をかけ、ずり下ろそうとすると自分でやるから! と慌てふためき始める。一体これから何が始まるんだとスザクは気が気でないだろうが、ルルーシュとて出来れば避けたかった状況なのである。
 膝くらいまでスラックスと下着を下ろし終えたあと、ひと息つく間もなく今度はスザクの右手を掴んだ。おっかなびっくりな反応をする彼にわずかな同情をしつつ、ルルーシュは次の指示を背後から行った。
「それで前、触るんだ」
「え、えっ、あ……」
 スザクの手の甲に己の手のひらを添え、股座に導くとあからさまに彼は動揺し始めた。それも当然の反応だろう。何の説明も知識もなくやらされるスザクの身としては、ルルーシュの気がおかしくなったと思われても仕方ないと言える状況だ。
「俺の言うとおりにすればいい」
「う……」
 導かれたスザクの右手は兆し始めた中心に触れ、間もなくしてそれをやわやわと握った。スザクの手は先ほどよりも熱く、目前にちらりと見える耳は真っ赤に染まっている。
「な、なに、これ」
「もしこれから同じようなことがあったら、こうするんだ」
「う、ん……」
 くちくちと粘着質な音が鳴り始めると、スザクも次第に息を乱し始めた。
 こういうことは一般的に、一人で行うものだ。好き合ってる者同士でそういった趣味があるならともかくとして、スザクはルルーシュのペットで、謂わば家族のような存在だろう。若しくは友人、とも表現できるかもしれない。
 スザクに背を向けさせたのはせめてもの心遣いであったが、これだけの至近距離で、そもそも同じ空間に居るという時点であまり意味はないだろう。
「あ、……う、あ」
「……出せばすっきりするはずだ」
 ベッドサイドに置かれてあるウエットティッシュを数枚取り、そこへ宛がうように差し出した。
「出すって、な、なに……?」
 彼は上ずった声でルルーシュに問うが、自分でも何を口走っているのか理解できていないのだろう。しばらくすると喃語のような、意味のない母音と息遣いだけが忙しなく響いた。

 ルルーシュはスザクに背を向けて、何も見ておらず、何も聞いてない振りに徹した。スザクは元からルルーシュに背を向けるようにさせているため、こちらがどう動こうと知られることはない。
 ただ何となく、いやきっと、ルルーシュが本来ならこの場に居るべきでないと罪悪感を感じ、後ろめたさがあるからだ。

「ん……ん、……っ」
 影が数度揺れたあと、はあはあと荒い息遣いだけが静かに漏れた。断続的に鳴っていた粘着質な水音も悩ましげな声音も、途端に鳴りを潜める。ようやくそれを終えたらしい彼は、深呼吸をして乱れた息を整えているらしい。
「……君も、こういうことが、あるの」
「男なら誰にでもある」
 それが一般的で普遍的な事象であることを、敢えて強調するような言い方になってしまった。自分もそうだと素直に肯定するのは、どうにも気恥ずかしかったからだ。
「そうなんだ」
 スザクはもう熱が収まって落ち着いた様子であるのに、今度はルルーシュの方がとくとくと鼓動が早まっているような感覚に陥っていた。まるでスザクの熱がルルーシュに伝染したかのようだった。

 だからルルーシュは気が付かなかった。背を向けて寝転んでいると思ったスザクが膝立ちになり、ルルーシュの方へ距離を詰めていることに。

 不意に視界が暗くなった。
 その暗さの正体がスザクの影であることを悟った頃には、とっくに彼に先手を取られていた。
「スザク?」
「君もなんだね」
 彼がうっそりと微笑んだ刹那、背中に重いものがのし掛かり、体の自由がまるで効かなくなっていた。
 己の体に馬乗りになり、両手を拘束する者などこの状況ではこの男しか有り得ない。
「っ、おい!スザク、何、して」
 ルルーシュが拘束から抜け出そうと抵抗を試みるが、それ以上にスザクの腕力が圧倒的だった。動かそうとすればするほど、それ以上に容赦なく圧をかけてくるのだ。きりきりと痛む手首に構っている場合ではないが、指先ひとつでも動かそうとすればスザクは目敏くそれを見つけ、許そうとしない。
「僕も君に触りたい」
 熱っぽく囁かれた言葉は耳に吹き掛けられ、頭の芯が焼かれるような錯覚に陥る。
 スザクの右手がルルーシュの臍の下あたりを這い、やがてスラックスの中に侵入していった。まさか、と危機感を募らせるルルーシュの胸中を嘲笑うかのように、彼の手は無遠慮に中心へと触れた。
「ちょっと、かたくなってる」
「っ、おい離せ、な、何」
「もっと触ってあげる」
 その宣言通り、スザクは僅かに兆していたそれに指を絡めて、柔らかく上下に動かし始めた。
「やめ、やめろスザク、話を聞け、っこの」
 ルルーシュが抵抗しようにも、それを容易に上回るスザクの力に捩じ伏せられてしまう。どこにこんな力があるんだと背後の男を恨めしく睨むくらいしか、今のルルーシュに出来る抵抗はろくに存在しない。
 ただでさえ人体の弱点を握られている状態で、下手に暴れては良くないかもしれない。しかしこの現状を迎合するのかと言われれば、それはもっと出来ないことだった。
「ぬるぬる、してきた」
 ぬちぬちと耳に悪い音が下半身から響く頃には、ルルーシュも抵抗らしい抵抗は出来なくなっていた。強いて言えば、手短にある枕に顔を埋め、ふうふうと熱い息を吐き出し快感をやり過ごすくらいだ。
「熱いね」
 耳に流し込まれるスザクの声も、心臓に悪い。湿った低い声音が三半規管に届くたび、頭がぼうとして何も考えられなくなる。

 自分のからだが今どうなっているかなど、嫌というほど本人が一番よく分かっている。なのにスザクはその右手の感触からルルーシュのそれがどうなっているかまで、逐一報告してくるため激しい羞恥に襲われるのだ。
「ン、ぁ……あ、」
「また、おおきくなった」
「…っあ、ひ……!」
「とろとろしてる」

 スザクの親指が先端を撫でた時、ルルーシュの一際高い声が部屋に響いた。
「ここ好き?」
「……ちが、それは、ア、」
 くちゅくちゅと絞られながら先端を抉られると、腰が跳ねるのをどうにも抑えられない。
 水を求める魚のようにルルーシュの下半身が跳ね、太腿の内側が戦慄いているのはスザクからもよく見えていた。
「やめ、すざく、や……」
「可愛い声」
「うあ、あ、も……離せ、ぁ」
 ルルーシュの意向は一切聞き入れず、スザクは一方的に快楽を植え付けようとする。屈辱的でやるせなくて恨めしくて、しかしそんな感情と同じくらいスザクの手淫が気持ちよくて、どうしようもなかった。
 そんな心の内側から見え隠れする浅ましい本音を認めたくなくて、ルルーシュは尚も懸命に首を左右に振ってスザクの行いを否定し続けた。
「出していいよ」
 流し込まれた言葉はまるで魔法か、あるいは呪いのようにルルーシュの体を犯した。全身が数度戦慄いたあと、ルルーシュはスザクの手のひらの中でぴゅくぴゅくと精を放った。



 呼吸が整ってくると同時に、体内で這いずり回っていた浅ましい熱も一気に引いてくる。ようやく正常に回り始めた思考回路は、何時にも増して冷たく静かである。
 体液で濡れた手を拭うスザクを視界の端にも入れず、ルルーシュはベッドから突っ伏したまま微動だにしない。
 枕に顔を埋めたまま、飼い主は犬に命令を下した。
「出ていけ」
「……る、ルル、」
「犬に戻って、この部屋から出ていけ」
 彼は今どんな顔をしているのか、ルルーシュは見ようともしなかった。
 スザクは利口な犬だ。基本的に飼い主であるルルーシュの言うことには従うし、教えたことはきちんと覚えて、勉強もする。
 だから先程の自分の行動は飼い主のルルーシュを辱しめる行為で非人道的であること、自分の行いが間違っているため叱られて当然であること。それは追い出されても致し方ないほど酷い行いであったことを、賢い彼は瞬時に理解したのだ。
 するりと布が擦れる音がしたあと、床を踏み締める音がややあって、部屋の扉が開いて、閉まった。

 何となく気だるい身体を反転させ、ルルーシュは窓の外を見遣った。風が窓ガラスを叩く音がして、雪が豪雨のように降り注いでいる。明日はずいぶん冷えそうだと、ルルーシュは体を縮めて再びベッドに潜った。
 いつもなら隣にあるはずの温もりがなく、シーツはひんやりとしてルルーシュの体温を容赦なく奪おうとする。思わず身震いしたあと、ぼやける視界と重くなる瞼に身を任せて意識を少しずつ手放した。
 微かに腹の底で燻り続ける熱には、気づかぬ振りをした。



 漆黒の夜空が深い藍色の朝焼け空に移ろい始める時分、ルルーシュは浅い眠りから意識を浮上させた。あれから結局深く眠れず、うたた寝のような半覚醒状態であった。
 あまり眠れた気はしないが、どうにもこのまま寝直す気力もなかった。
 窓ガラスが嵌め込まれたサッシは外の風によって音を立てながら揺れ、大粒の雪がそこへ叩き付けられている。文字通り大荒れの天気だ。外は凍てつくほど寒かろう。

 何の気なしに上着を羽織り、階下のリビングへ下りた。まだ朝日も昇りきらない冬の時間帯では、さすがに誰も起き出していない。靴下越しでもじゅうぶん冷たいフローリングは、日中の暖かみのあるそれとは別物のようだ。
 キッチンスペースへ行くといくつかのゴミ袋が隅に置かれ、そういえば今日はごみ収集の日だったかとルルーシュは思い出した。外の様子を確認するついでにごみ出しも請け負ってやろうかと、いくつかある袋のうちの二つほどを掴んだ。

 玄関に降り、外へ続く扉を開けようとするもなかなか開かない。恐らく風圧のせいであろうが、ここまでとなると足がすくみそうにもなる。
 全身の体重をかけてようやく扉を開けると、びゅうびゅうと吹き荒れる風と雪が肌を刺し、鳥肌が止まらない。玄関の向こうは一面真っ白の雪化粧で、まるでどこかの北国の景色だ。

 適当な靴を履き、ゴミ袋を掴んで持ち上げようとしたルルーシュは、門扉の手前にこんもりと雪が積もった”何か”を見つけた。不自然にそこだけ雪が積もり、小さな山を形成している。
「……」
 ルルーシュはそこへしゃがみこみ、新雪を払い除けた。まだ積もったばかりの雪は柔らかく、はらはらと埃のように散ってゆく。
「お前、おい」
 雪に覆い尽くされたそれはルルーシュにとってよく見覚えのある毛色をした、一匹の獣であった。

 自分の服が濡れるのも指先が凍えるのも構わず、ルルーシュは雪まみれになったその生き物を抱き抱えて家の中へ運んだ。
 水をしっとり含んだ毛は重く冷たく、同じくらいそれの体温も冷えているのは確かであった。ルルーシュはぴくりとも動かないその生き物の姿にぞっとして、無我夢中で浴室へ放り込んだ。
 ルルーシュも着の身着のままという状態であったが構っている余裕もなく、すぐさま湯沸し器の電源をつけたのち、シャワーから温かな湯が出るのを待った。
 毛に付着した水滴の一部は凍っており、どれだけ外気温が低かったのか、そしてそんな環境でどのくらいの時間ああしていたのか、想像するだけでルルーシュの方が生きた心地がしない。すっかり冷たくなった生き物に湯をかけ、冷たくなった毛並みを懸命に撫で鋤いているとようやく、ぴくりと耳が揺れた。
 ルルーシュはシャワーの湯が体にかかるのも厭わず、まだ少し冷たい犬を腕の中へ引き寄せた。微かに瞬く犬の頭を撫で、鼻先に唇を触れさせた。
 浴室から出たあとは体温の戻った犬にタオルを巻き、ドライヤーでしっかりと乾かしてやった。
「お前が来たときも、寒い夜だったな」
 あの日ルルーシュに拾われ初めて世話をしてやった時、ずいぶん暴れまわって手こずらされたことがあった。人懐っこい犬だから初対面の人間に接せられてはしゃいでいるのだろうと思っていたが、今思えばあれは拾ってくれたことを喜んでいたのだろうか。
 初めてのシャンプーやドライヤーはルルーシュの足元で動き回るから、なかなかさせてくれなかった。しかし今ではあの時とうって変わってすっかり大人しく、何にも抵抗する素振りを見せない。

 だがルルーシュが犬を抱き抱えようとすると、するりと腕の隙間を縫って逃げ出してしまうのだ。それどころかルルーシュが近寄ろうとすれば犬も同じだけ距離を取ろうとする。明らかな拒絶の意思に、ルルーシュもほんの少し傷ついたような気持ちになった。
 そんな些細な攻防もすぐに終わりを告げる。ルルーシュが巧みに部屋の隅に犬を追いやり、その体を捕らえたのだ。
「こら、暴れるなって」
 犬はルルーシュの腕のなかで、なんとか脱出しようと抵抗し始めた。
 リビングから自室へ続く階段を上ろうとすると今度は手の甲に噛み付いてくる始末だ。牙が皮と肉を抉る感触に顔をしかめながら、それでもルルーシュはその生き物を手放さなかった。
「もう怒らないから、噛むなよ」
 痛みを堪えて微笑むルルーシュと目を合わせた犬はようやく、手の甲からおずおずと口を離した。白い肌には鮮血が伝い、くっきりと歯形が残り痛々しい。

 部屋に入り、犬を床に下ろしてやった。しかしそいつはその場から一歩も動こうとせず、しゃがみこんでしまった。
 ルルーシュはスザクの着ていた衣類を犬の傍に畳んで置いた。

 未だに手の甲から流れる血をティッシュで拭っていると、背後からルルーシュ、と名前を呼ぶ声が聞こえた。弱々しい声色は彼の心情をよく表しており、顔を見ずともどんな表情をしているかなど、手に取るように分かった。
「ルルーシュ、ごめん」
 スザクは立ち竦んだまま、静かにそう述べた。
「僕は君がされたくないことして、嫌な思いをさせた」
 まるで子供の言い訳のような告解である。しかしその飾り気のない単純な言葉だからこそ、彼の本心を如実に表しているとも言える。
「君は嫌だって言ってたのに」
 目にはうっすら涙の膜が張られ、言葉尻も弱々しい。
「僕、ルルーシュのこと好きになっちゃったんだ。好きに、なっちゃったから……」
「そうか」
 しゃくりあげるスザクに、もういいよと語りかけながらその頭を撫でて、抱き締めてやった。
「好きになってごめんね」
 その言葉の寂しい響きに、ルルーシュはどうしようもなく泣きそうになった。だから悲しい言葉を紡ぐ唇を、己のもので塞いだ。
「ん、ふ…」
「っ……」
 スザクのそこはまだひんやりと冷たく、凍てつく冬の夜の気配を漂わせていた。

 唇を離したあとスザクの顔を窺えば、まさに絵に描いたような、目を見開き驚いた表情を張り付けていたのだから、ルルーシュとしてはこれ以上に愉快なことはない。
「俺の方こそ出ていけなんて言って、すまなかった」
 あくまでルルーシュが言ったのは部屋から出ていけという意味で、階下のリビングで反省していろというつもりだった。まさか大荒れの天候の真夜中に、雪に埋もれて凍えているとは思いも寄らない。だがそれも言葉足らずな己の責任であるのだ。

 ごうごうと窓を叩く風の音が静かになったと思えば空はとうに白んでおり、水のなかに一滴青色の絵の具を垂らしたような、淡い清んだ空色に移り変わっていた。太陽が徐々に昇り始め気温が僅かに上昇したせいか、深夜ほどの猛烈な降雪はすっかり収まり、しんしんと静かな粉雪が降り注いでいる。

 部屋のなかにも陽の光が差し込み、ようやく互いの表情が窺えるようになった折、スザクはルルーシュの名を静かに呼んだ。
「おかえりのキスを、してほしいな」
 雪の降る音に掻き消されそうなほど、その願い事は静かでささやかなものだった。
 スザクは人懐っこい犬でも軟派な男でもなく、ただ甘えたがりな奴なんだと、ルルーシュはようやく気づかされた。
 まだまだ甘え足りないスザクのために、ルルーシュはとびきり甘く、優しい口付けを施したのだった。



 屋敷に来客者の訪れを知らせるチャイムが響いたのは、その日の正午のことだ。
 アポイントメント無しの来客の対応は基本的に咲世子が請け負っているが、その彼女はルルーシュに用事のあるらしい客だと告げた。
「私たちの探している犬を、ルルーシュ様が連れておられたと、お客様が仰っていました」
 スザクのことであろうと、瞬時に察しがついた。

 ルルーシュはスザクを連れ、玄関へ降りた。そこにはブリタニア様式の軍服を身に纏う、騎士のような人間が二人立っていた。
 ブリタニア本国の軍人がここへ近寄られるのは出来れば避けたかったが、今回用事があるのはルルーシュ自身のことではない。下手に抵抗すれば余計に怪しまれるだろうから、一先ず話を聞くことが先決だと判断した。

「おっスザク、久しぶりだな」
 二人の騎士のうちの片割れ、金髪で長身の青年が犬を見遣った途端、そう声を上げた。
「元気そうで、良かった」
「いい人に拾われて良かったなあ、うんうん!」
 青年はその場にしゃがんで犬と目線を合わせているようだが、スザクは知らんぷりだ。そんな辛辣な反応にもめげず、青年は快活に言葉を続けた。
「いやちょっとうちの事情でさ、内部の誰かがスザクを捨ててきちゃったか、逃がしちゃったみたいで。なあスザク、私のことは覚えてる?」
 詳細はよく分からないが、この犬はブリタニア本国のお膝元で飼われていた由緒正しきロイヤルペットだった、ということなのかもしれない。
「ジノのことは覚えていないみたいだけど、スザクはこのまま、私たちと帰る?」
 明るい毛色の少女は中腰になって、犬にそう尋ねた。
「スザク、元の飼い主の方たちだ。帰った方がいいんじゃないか」
 ルルーシュは自らの足元で踞る犬に向けて、そう語りかけた。だが犬は何やら機嫌が悪いのか不満なのか、その場から一歩も動こうとしない。
「スザクは貴方のこと、すごく気に入ったみたい」
「なんだか私たちが悪役みたいで、やだなあ」
 からからと笑い声を上げる青年はその口振りから察するに、どうやらスザクを連れ帰る意思は毛頭ないらしい。隣の少女も薄く笑って、犬の頭を撫でた。
「でもこいつは、貴方たちの飼われていた……」
 ルルーシュは食い下がり、彼らの真意を探った。
「飼われてるというか、研究対象」
「まあ私たち的には、きちんとした飼い主に育ててもらえた方が有り難いってことだ」

 スザクはぴくりと耳を動かしたあと、ルルーシュの手の甲を舐めた。そこは先程、スザクが噛み付いて傷痕を残した場所だ。
「ちなみに、研究というのは……」
 ルルーシュが恐る恐る質問すると、二人は分かっている範囲で答えてくれた。
「人の言葉を、理解できる」
「人の言葉……」
「そいつ、やけに賢いだろう? 本当に言葉を分かってるんじゃないかって、思われてもおかしくないくらい」
 言葉を理解するどころか人間になることも出来るのだが、そのことはまだ研究段階で判明されていないらしい。ルルーシュが想像していたより大層複雑な出自である。

「仲の良い飼い主とペットを引き裂けるほど、私も非道じゃないからさ。なっ、アーニャ」
「……そうなの?」

 なんだか噛み合っているのかいないのか分からない不思議な二人組は、結局スザクを連れ帰ることなくルルーシュの前から立ち去って行った。
 本当に良いのだろうかと疑問は残るが、スザクは尻尾を振って玄関の向こうへ行ってしまったものだから、ルルーシュも深く考えることはやめにした。

 リビングへ戻るとナナリーと咲世子が午後のお茶を楽しんでいた。淹れたての茶と焼きたての菓子の芳しい香りに、後ろをついて歩いていた犬も鼻をすんすんと鳴らした。
「スザクの飼い主らしい人たちが、このままこの家で飼ってもいいと仰っていたよ」
「まあ、そうなんですね。ということは、これからも私たちと一緒に、ここで住まわせてあげられる」
 ナナリーが手を差し伸べると、そこへ向かってスザクは顔を寄せた。相変わらずスザクはナナリーに撫でられることが大層気に入りらしい。
「ルルーシュ様とは仲良しですからね」
 咲世子はくすくすと微笑みながらそう漏らした。そう改めて他人から指摘されると、ルルーシュはどうにも気恥ずかしい。

「お部屋から楽しそうな声も聞こえますし」
「ええ。本当に、お友達のよう」
「そ、それは……」
 ルルーシュは二人の言葉の内容に、激しく動揺した。犬に話し掛けているんだと説明しても、それはそれで何だか恥ずかしい。
「何だか私たちには言えない、隠し事でもあるみたいですね」
 彼女らは目を見合わせて、くすりと笑い合っている。
 そして言葉が未だ見つからない兄に、ナナリーは微笑みながらこう告げたのだ。

「お兄様、ご存知でしたか。女の子の勘は、すごーく当たるんですよ」


 一体どこからどこまでがバレているんだろうと、ルルーシュは頭を抱えてベッドに踞った。
 お気楽なスザクは”説明する手間が省けて良かったね”とでも言うんだろうかと、いっそ忌々しい気持ちにもなる。
「どうしたの、ルルーシュ」
 部屋着を身に付けながら背後に忍び寄る影に、ルルーシュはため息を漏らした。そうして彼は案の定、こう言ってのけるのだ。

「ああ、二人にバレてたこと? まあ、説明する手間が省けて良かったよね」
 そんなことよりも構ってよ、と甘えたがりな犬はあっけらかんとした調子で、ルルーシュの背中を抱き締めるばかりであった。