穏やかな時間
これが穏やかかそうでないかと聞かれたら、おそらく後者だ。断言できる。その程度に、雰囲気はすこぶる悪く息苦しいくらいだ。
「……おい、ジュダル。どこへ行く気だ」
だからすかさずこの場所から逃げようとした。午睡を決め込んだあと執務室へ戻るや否や不機嫌な男に出迎えられてしまったので、気まずくなり、部屋から出たかった。
とっくに仕事の時間は始まっていたが、何故自分はこの時間まで目が覚めなかったのだろう。体内時計が狂っていたんだろうか。あるいは昼食の後だからか、あまりにも外の気温が心地良過ぎたからか。
理由が何にせよだ。自分は始業開始を大幅に越えてから目が覚めて、それとなく仕事をする振りをしながら執務室に戻った次第である。
「なんか白龍の顔色が、穏やかじゃないから……俺が居たら邪魔かと思って……」
執務室に戻るや否や、機嫌の悪さを周囲に撒き散らしながら仕事をする白龍に遭遇した。これが運の尽き、というやつか。今日は間違いなく厄日である。
「穏やかじゃない?」
「その、なんか疲れてるっぽいぜ? 少しは休めば……?」
彼の体調を気遣う振りをして必死に機嫌を取ろうとした。自分はおべんちゃらだけは得意だ。
「へえ。俺を気遣ってくれるのか」
「それか、俺が仕事の邪魔なら出て行くけど……?」
このまま穏やかにフェードアウトさせてほしい。明らかに不穏な声色をしている白龍と、これ以上会話を長引かせたくない。有り体に言えば、今すぐこの場を去りたい。
直後、白龍はふっと鼻で笑った。
「珍しく殊勝なことを言うんだな、ジュダル。しかし安心しろ。俺はお前が邪魔だと思ったことは一度もないぞ? たったの一度もな?」
「う、嘘ばっかり! なんか様子がおかしいぞ、お前! 今、俺をどういう口実で摘まみ出そうか考えてただろ!?」
堪え切れなくなってそう叫ぶと、彼はとうとう額に青筋を浮かべて叫び返してきた。
「なわけあるか! その逆だ、ジュダル。覚悟しとけよ!」
「ぎゃ、逆……? 逆って……」
彼は踵を返すと部屋の一番奥に鎮座する皇帝の執務机に早足で歩み寄った。机上には天高く積まれた書類が置いてある。気のせいだと思いたいが、書類の山が視界に入ってしまった。
「ジュダルにはこの書類の整理をしてもらう」
「なっ! んなもん本人にやらせろよ、俺は下僕じゃねーんだぞ!」
「陛下はお忙しい御方だ。多少の雑務は手伝って差し上げろ」
「ヤダね! 俺は今から、あの、あれだ! 市街地の見回りに行ってくる!」
これは要するに体のいいサボりなわけだが、白龍にはとっくに見抜かれていた。長い三つ編みを素手で掴まれて、その場から動けなくさせられた。
「どこへ行く気だ」
「どこって、だから市街地へ」
「なら出歩けなくなるまで俺がこき使ってやろう」
「かっ勘弁してくれよ! おい誰か! 他に誰か居ねえのか!」
外に向かって呼び掛けてみた。足音はするものの、誰も執務室に入ってこようとはしない。
それもそのはずだ。二人の騒々しい会話の内容を聞いて、敢えて入って来られる第三者は早々居なかった。喧嘩腰の二人は仲裁役すら逃げ出すほど殺気立っており、誰も手が付けられないと専ら評判だ。まともな判断力を持つ家臣は勿論、どんなお人好しであれ、二人の仲を取り持つ役など貧乏くじを引くも同然なのである。だから二人の間に割って入る愚か者は宮中にそうそう居ない。
「安心しろジュダル。俺は優しいからひ弱なお前に肉体労働は課さない」
「バカでも出来る仕事ってか? やかましいわ!」
「そこまで分かってるなら手伝え阿呆!」
「誰がアホだボケ!」
「うるさい馬鹿! 幼稚な言葉遣いは止めろ!」
自分は手近にあるわら半紙を折って紙飛行機の形にし、白龍の顔めがけて投げつけた。すると紙飛行機は放物線を描き、見事なまでに相手の頭上に突き刺さってしまった。
「アハハハ白龍のバァーカ!」
「貴様……」
思わず大笑いすると、当然だがあちらはますます機嫌を損ねていた。
「明日から庭木で昼寝禁止、市街地の見回り禁止、大声を出すのも禁止だ! 粛々と執務に励め!」
「嫌だ、絶対嫌だ! 昼寝だけは許せよ白龍!」
「うるさいな、口を動かす暇があるなら手を動かせ!」
騒々しい午後の白嶺宮には定期的に二人の声が轟く。その会話の内容はどこか物騒で物々しいが、二人の関係性は何故だか良好なのだという。これを宮中の人々は、二人の穏やかじゃない会話を揶揄して『穏やかな時間』と呼んでいるとか、いないとか。
完