憧憬の温度

 人気の少ない廊下には格子状の影が幾重も重なり、連なり、延々と続いていた。黒漆で塗られた窓枠飾りから昼下がりの柔和な光が差す。右半身を覆う日光は温かくて心地よくて、気が抜けるほど呑気な色をしていた。
 足元には自分ひとりの影が薄っすら伸び、足の裏からついて回る。その動きはどこか覚束なく、ゆらゆらと幽霊みたいに床や壁に蔓延っていた。目の覚めるような朱色の壁も、金箔が埋め込まれた天井の梁も、目に入る絢爛な光景すべてが今はただ雑音でしかない。神経を逆撫でる色彩は心の底をざわつかせるのに十分だった。
 視界の先にはらはらと、黒っぽい束が揺れていた。一本、二本、三本、体の動きに合わせて揺蕩う。そうするうちに先端が眼球にぶつかる直前、白龍は垂れた毛束を顔の前で掴んで立ち止まった。
 今朝頭上で結って固定した髪の毛が、簪をすり抜けてずり落ちたのだ。窓を見ると鏡面に反射した自分の姿がよく見える。身嗜みが半端でみすぼらしい。後頭部や耳の裏など、ところどころから垂れた毛が肩を撫でていた。だらしない格好だ。
 白龍は鏡代わりにした窓の前に立ち尽くし、髪を結わえ直した。小さい頃は親だったり姉だったり召使いにしてもらっていたことだが、この年になれば造作もない。後ろ手に回した手で後ろ髪を纏めて、団子にした毛に冠を被せる。そうして今度こそ落ちないよう、簪の串を真横から貫く。
 いつの間にか誰の手を借りることもなく、出来るようになっていた。あるいは他の兄弟たちが自分で身支度していることを知って、一人でも出来るように練習したのかもしれない。
 人の手を借りることにさして抵抗感もなかった。自分はみなの仲間で、味方で、同志で、共同体で、家族だったからだ。みなから見た自分もまた、同じように思われていた。だから助け合うことは必然で、面倒を見てもらえることは当然だった。
 大切な肉親を目の前で失くし、宮殿の中で姉と孤立するまでは。



 空の色が透けて見えていた鏡面に、黒い影が突如見えた。空気が俄に歪み、光の縁が現れて、空間を切り裂くようにして、見知った顔が隙間から瞳を覗かせる。真紅の双眸がぎらぎらと日の光を反射させ、ニタニタと卑しい笑みを張り付けた男だ。
 "無"から突然湧いて出た魔法陣は黒の魔術師の術によるものだ。好きなときに好きな場所へ瞬間移動できる術は、交通手段が限られているこの世界で、誰もが羨む魔法だろう。自分も彼が羨ましい。
 いや、憎たらしい。
「どこをほっつき歩いていたんです」
「んー、自主トレーニング?」
「勉強熱心なのは良いですが、連絡もなしに居なくなられては困る」
「へいへい」
「……」

 玉艷殺害後、白龍は虎視眈々と、この煌帝国内で内乱を引き起こす準備を本格的に始めていた。
 煌帝国の玉座に腰を据える男を相手に、己とマギは戦争をする。生まれ故郷を引き裂き、多くの人死を出す争いを企てている。
 言葉にすると何とも陳腐で現実味のない、下らない妄想話のようだ。自分事であるはずなのにどこか他人事のような、地に足のつかない感覚だった。親に聞かせてもらった絵巻物か、姉に教わった国の歴史を眺めている気分だ。
 受け止めきれない現実を前にして頭が馬鹿になりつつも、当然時間は待ってくれない。そもそも戦争をするにはまず、将軍一人では足りない。兵士と武器が必要だ。物資も兵器も此方側が圧倒的に劣る。国中を駆け回って、何をどう準備したって、紅炎側に軍備が勝ることは恐らくない。だから出来るだけ多くの根回しと、準備と、頭を動かすことに時間を費やす必要があるのだ。
 圧倒的戦力差では力で押されたら負ける。だからそれに負けない軍を作るか、負ける前提で作戦を立てるしかないわけだ。戦争とは必ずしも大将首を取るまで終わらないことはない。兵士の士気だったり、戦況によっては戦略的撤退を強いられることもある。これまでの歴史を紡いできた先人たちから教わる戦術、戦略は山程あった。
「白龍、俺さあ。こないだ言ったじゃん、八型魔法が苦手だって」
 地形を活かした潜伏、奇襲作戦。隊列を組ませた兵士らによる正面突破と、それを囲み外側から崩す陣形。相手陣地に潜り込み情報を収集する諜報活動。不利になるような噂話、情報戦。高火力の新型武器。
 どれを取っても自分たちには足りなかった。革命前夜と思えぬほど脆弱な戦力と体制、少ない兵力。昔から軍事は基本的な教養として体に叩き込まれていたからこそ、痛いほど分かってしまう。己の無力さと無謀さ、絶望的な現状に。
「それで練習したんだよ、あのババア相手して満身創痍になってちゃ紅炎相手に戦争なんか無茶だし? まあいざとなればこの俺が居るから負けるわけないけどよ、理想はやっぱ完全勝利っていうか」
 玉艶相手に辛勝だった二人で、今度は国を相手取って本気の戦争だ。恐ろしくないと言えば嘘になる。勝つ自信に満ちているかと言えば首を横に振る。この期に及んで臆病な性根が顔を出すのかと言われたら、自分は口を噤む。細い腕と偽物の腕で掴める勝利はどこか遠く、道端の向こうに佇む陽炎より実体がないように思える。
「まあ雷や氷の柱落とすほうが性に合うけどな、多少は使い物にはなるんじゃねえかって思うんだ」
「……」
「後方支援っつーの? 補助系魔法は俺、からっきしだったからな。でもマギはお前みたいな王の後押しも仕事のうちだし」
 支援。補助。自分たちには助けと呼べる組織や大人の手も借りられない。自分たちだけで画策して、実行して、戦争に勝つ。途方も無い道程だ。
「遠隔透視以外に覚えたほうがいい魔法って、お前から見て思いつくのある?」
「……」
「なあ、おい。白龍」

 名前を呼ばれた気がして意識を傾けると、そこにはむくれ面を張り付けたマギが突っ立っていた。何やら機嫌が悪いらしい。
「俺の話聞いてた?」
「ああ、うん……」
「ウソつけ! 俺のこと完全に無視してたろ今!」
 肩を掴まれ、体を乱暴に揺すられた。鼓膜に響く喧しい声と、たたらを踏んだ自分の足音が鼓膜に届く。脳内でふたつの音が反射すると同時に、視界の中では黒い線がふわりふわりと浮いていた。
「なんだその頭。ぐちゃぐちゃだな」
 白い手のひらが伸びてきて、反射的に目を瞑った。
 指先の行方は白龍の予想に反し、自身の額にぺた、と触れた。
「……何を」
 冠に収まらない前髪の根本を掬われ、綯い交ぜにされる。やや俯きがちになっていたせいで視線の先は自分とマギの足元しか映らなかった。二人分の影が艷やかな廊下に伸びて、燃えるような緋色の壁に色を残す。その動きをぼんやりと目の端で追いながら、今彼が何をしているのか、ぼんやりと推測した。
「はは。これじゃあ王の名が泣くな」
「……」
「ほら見てみろ、窓」
 言われるままに透明のガラスへ顔を上げると、そこには見るも無残な格好をした自分が立っていた。寝起きを彷彿とさせるほど縦横無尽に散らされた髪の毛が、額や後頭部、こめかみからはみ出ている。冠は頭頂部でちょこんと乗せられたまま、簪もその役割を殆ど果たしていない。
「何てことするんですか……」
「でも元からこんなだったぜ?」
「なわけが」
「髪の結び方も分からなくなったか。だから俺のこと探してた?」
「違います。そういうんじゃない」
 後頭部に手を伸ばして、髪紐を引っ張った。同時に解けた束がするりと重力に従い、解けて落ちた。胸元を通り越し背中まで届く毛先がぱらぱらと舞って、陽の光に透ける。マギはそのさまを見遣って、どこか楽しそうに口元を緩めた。
「しゃあねえなあ、俺様が直々に結び直してやる。部屋戻ろうぜ」 「はあ」
 床板を這う素足の足音を耳に入れて、白龍はマギの後ろ姿を追った。
 視界の中でひらひらと揺れる髪の毛がうざったく、とても慣れない感覚だ。同時に、こんな格好を誰かに見られたら恥ずかしいと、どこか焦る気持ちが湧いて早足になった。



 窓からの光を遮る薄い絹布は自然光に温められ、仄かな明かりを床に零していた。ゆるやかなカーブを描く裾に合わせて落ちた影の色は優しい。
 回廊の景観とは打って変わって落ち着いた色彩で纏まった白龍の私室は、彼の好みに改築させてある。元より皇族の中でも継承権下位であったから、上位に比べて見劣りはするものの、とは言え腐っても前皇帝の血を継いだ皇子だ。豪華絢爛な装飾、彫刻、調度品に囲まれた生活も望めば叶えるのは容易だった。
 けれどそうしなかったのは、所詮自分は次期皇帝候補どころか出世も、武勲も禄に上げられない、出来損ないの皇族だという劣等感のせい、だったかもしれない。
 王が都に城を建てるのは権力の誇示のためだ。今の己が寝食を享受しているこの緋色の城も、歴代の皇帝たちの権威を形にするためだ。
 つまりこれはエゴとヒエラルキーの権化だ。その一角に住まうみすぼらしい自分はきっと身分不相応で、恥ずかしい奴なのだ。漆も金箔も蒔絵も彫刻も、自分には勿体ない。自分よりもっとそれが相応しい人間が居るから。

 そんなことばかり考えて萎縮しきっていたのも、もう遠い昔のことのように感じる。今の自分は、そんな彼らに刃を差し向けて殺し合いを企てんとしている。憎しみを旗印に突き進もうとしている。その果にあるのは新世界か奈落か、想像もつかない。

 寝台に掛けられた新品の布を剥ぎ取って腰掛けると、男も倣って寝台に乗り上げた。その所作はまるで我が物同然で、今更抗議の声を上げる気も起こらない。それどころか、彼は何故だか機嫌良く鼻歌混ざりに髪紐を片手にしているから、好きにしてやっている。茶番じみた口論を繰り広げる気力は沸かない。
「髪くらい、俺だって一人で結べるぜ? 一体どうしちゃったんだよ」
「別に結べないことはないです。少し、いつもより……手が上手く動かなかっただけですから」
 背後から伸びた指が耳の裏、うなじを撫で上げ、髪を束ね上げた。後れ毛が肌を撫で、首に張り付いていた毛束が無くなる。皮膚ごとを軽く引っ張られる感触に自然と背筋が伸びて、何もない壁をじっと見つめた。
 存外丁寧な動きで繰り返される手櫛も、手際の良さも、白龍は何も言わず黙って受け入れた。毎日自分で髪を束ねているからだろう、その手つきは慣れたものだ。白龍のものより長い三編みが視界の端に映って、すぐ目を逸らした。
「髪を他人に結われるのは十年ぶりです」
「お付きの人にやってもらわねえの? 散髪のときは?」
「身の回りのことくらい自分で出来るようにと、姉に教わりましたから。散髪くらい刃物があればいつでもできますし。もう暫くは切っていませんが」
「ふうん。俺は切ったことないな」
「でしょうね」
 マギはその存在自体が我々人間とは異なる次元、理の中にある。尊く神聖な使者であると崇め奉れてきた彼の身体は、髪の毛一本でさえ喪うのも憚られるとされた。神から授けられた身体の一部に刃物を突き立てるなど以ての外で、だからこそ彼はここまで奔放に育ちきってしまったのだ。
「最後に切ったのっていつ?」
「切ったというより、燃えました」
「ああ、そっか」

 冠に簪が差し込まれ、団子が固定される。自分でするより綺麗に纏められたのか、後頭部や両鬢から覗く後れ毛の数はいつもより格段に少なかった。
「白龍は器用だけど、自分のことには無頓着だもんなー」
「貴方に言われたくないですね」
「だから俺がお前のこと気にかけてやってんだよ」
 髪を直すくらいで気にかけたつもりだとは、聞いて呆れる。そもそも廊下で髪を掻き乱したのはその手であるはずだ。
「ああ、恩を着せるための口実ですか?」
「こんなもん恩も世話もねーよ。本番はこっからだ」
「本番?」
 男は長い三編みをシーツの上で引き摺りながら体をずらし、白龍の隣に座り直した。そして素手の両手を何度か開いたり閉じたり、あるいは小さな声でぶつぶつと何かを唱えたり、もしくは目を開いたり閉じたりする。何かをするつもりらしいが、何がしたいのかは全く読めない。
「手ぇ貸せ」
 言うや否や両の手を取られた。ほっそりした白い指が手の甲を滑り、浮いた血管を辿り、節や骨をなぞる。何かを探るような素振りだ。
 伏せがちの瞳に何が映っているのか、その表情も真意も見当がつかない。彼は今笑っているのか怒っているのか哀しんでいるのか。
「……魔力操作をぶっ通して続けてただろ。クソヘボ人間の癖に調子に乗んな」
「悪かったですね、クソヘボで」
 所詮この腕で槍を振るっても、体内の魔力を扱っても、底は知れている。この足は不安定なまま宙ぶらりんで、未だ地面から程遠い場所にある。痛いほど分かっている。分かっていることを改めて言われて、突きつけられた。
 下らない悪態をつくだけが精一杯張れる虚勢だ。目が合わなくて助かった。今の顔色を見られたくはなかった。
「今の私は魔力操作を続けるだけで何もままならなくなる、そんな人間です」
「おう、よく分かってんじゃん」
「……」
「だから俺が居るんだよ」
 その言葉と同時に手の皮膚が温かくなり、俄に光が漏れた。血の巡りが活発になり、腕に力が入る。そのエネルギーとぬくもりは腕から肩に伝い、またたく間に全身へと駆け巡ってゆくのだ。二人の間の空気がふわりと揺れて、前髪が僅かに靡いた。窓の閉じられた部屋で風が吹いた。

「うし、成功!」
「……これは、何を……?」

 白龍は離された手をまじまじと顔の前で掲げて、血色や肌艶を観察した。先刻までとは明らかに違う感触だ。
 そしてこれは手のひらだけでなく、血管を通して全身へと伝播した。心臓も脳味噌も末端神経も、すこぶる鋭敏になっていた。五感がやけに澄み渡っていて、感情は凪いだ海のように穏やかだった。
 驚いて思わず目の前の男の顔を見ると、奴は案の定したり顔を浮かべていた。そして得意げに、此度の魔法のからくりを声高々に説明してくれる。
「魔力を分け与えると同時に、心身の疲労回復……まあ血管に新鮮な酸素を送って、ホルモンバランスや自律神経をちょっと整えるとかだな、多分。書庫にあった東洋医学の本が良い参考になったぜ」
「まるで医者のようですね」
「まあ内臓とか細胞弄るとかはできねーし、できたとしてもやらねーけど」
「そこまでは頼みませんよ」
 彼はちらりと白竜の顔を見つめて、それもそうだな、と言って目を逸らした。
 恐らく全身に走った火傷痕も、治そうと思えば綺麗さっぱり無くしてやれると言いたいのだろう。採取した細胞の一部を媒体に皮膚組織を増やし、継ぎ接ぎの皮膚と入れ替える、だとか。理屈自体は単純明快だ。強大な魔力を持つマギなら造作もない魔術だろう。
 傷跡の治癒が可能だと分かっても、白龍はそれを受け入れる気はない。そこまでされたら自分の足が自分の力で立たなくなる。そんな気がする。王がマギに、おんぶに抱っこという状態ではいけない。彼はあくまで白龍を王にせんとするため、尽力を厭わないだけだ。個人的な欲求を叶えるために都合よく現れた付き人ではない。
「でもこんなこと、紅炎や白瑛はお前にしてやれないだろ。髪は結えてもさ」
 こめかみのあたりから垂れた数本の毛を指に絡ませて、男は言った。唇に乗せられた声音は威風堂々としていて頼もしい。赤の瞳が見据える先は遠い未来、自分たちもまだ知らない世界の展望だ。そう思わずには居られなくなる。
 黒い睫毛が蝶のようにひらひらと舞って、それからふと動きが止まる。下瞼に落ちる細い影を、白龍は黙って見つめていた。
「白龍お前、疲れたら卑屈になるだろ。悪い癖だぜ。いい加減自覚しろよ」
「は。その助言のためにここまで回りくどい事を」
「うっせ! 自惚れんな! お前は俺の魔法の実験体だ」
「偉大なる神の使者、マギの魔術をこの身に受けたこと、光栄に思いますよ」
「気色わりい。思ってもねえこと言うなっ」
 萎びていたザガンの義手紐が腕の断面にきつく絡みつき、僅かな痛みが走った。けれどもこの痛みすら今や自分を象る体の一部となって、肺腑の奥深くに息づいている。顔の傷も、忘れられない記憶も景色も、怨嗟渦巻く胸の奥の感情も。誰にも書き換えられない、誰の物でもない、これが自分自身だ。
 捨てきれない弱さも卑屈さもひっくるめて、ここまできたら見て見ぬ振りもできまい。弱い自分も抱えたまま突き進むしかないのだ。戦の狼煙は既に上がろうとしている。今更引き返す道はない。立ち止まりかけたとき、振り返れば、縮こまる背中を両手で押してくれる相棒が居た。
 怖くないといえば嘘になるし、郷愁の念は忘れられそうにない。しかし彼は偉大なる神の使者で、理解者で、共犯者である。白龍は握り返された手の熱さに、国家転覆という野蛮な理想を焚き付けられていたのだ。