ふたりぼっちの理想郷

 眠気と疲労と空腹で使い物にならなくなった体を引きずるようにして、長い長い廊下を奥へ奥へと進む。足元に続く真新しい赤い絨毯は毛足が短く埃が立ちにくいとのことで使用人らにはもっぱら好評だ。だが今のスザクにとって絨毯の毛足がペルシャ猫のように長かろうと、色が赤であろうが青であろうが、関係ないのだ。むしろどうだっていい。建築やインテリアデザインについての素養も造詣も持ち得ない者にとって、それの価値は理解しがたい。
それどころか疲労困憊の頭上でびかびかと眩く光る吊り下げ照明、いわゆるシャンデリアにさえ腹が立つ始末である。一点の曇りなく磨かれたガラスによって光が反射し無数のハレーションを起こすそれは嫌味なほど美しく、土煙と死臭を漂わせる己を天から嘲笑うのだ。
 夜の窓ガラスに映る自分の顔はあまりにみすぼらしく、酷い様相であった。こんな顔色をしていてはすれ違う使用人らに怖がられ、あるいは心配されるに違いない。この皇居で働き皇帝に仕える多くの給仕たちは皆心優しいブリタニア人ばかりであったからだ。たとえスザクが側近で直属の騎士であるとはいえ、所詮は皇帝に仕える一介の軍人に過ぎない。しかし彼らはそんなスザクに対してもぞんざいにせず、喜んで心優しく接してくれたのだ。
 ここであくせく働く彼らにとって、皇居内の労働環境は当然ながら良好で賃金や保障内容も悪くない。人員がやらたと多いため人手不足とは無縁であり、働き過ぎて体を壊す、なんてことも縁遠い。だから皆心にゆとりがあるのだろう。
 ただ一人、自分を除いては。

「枢木卿、本日もお疲れ様です」
「……ああ、そちらもお疲れ様」
 壁伝いによろよろと歩いていると、曲がり角の向こうから一人の給仕が頭を垂れて挨拶を寄越してきた。人好きのする微笑みを浮かべて、こんな振る舞いにまで皇帝の教育が行き届いているのか、あるいは彼の心持ちの問題なのだろうか。
「どうかなさいましたか。お顔色があまり、優れないようですが」
 口元に浮かべていた微笑みを消し、彼は眉を下げて心配そうに窺ってくる。
「またご無理をなされたのですか? ……皇帝陛下のご命令によって、」
「君、不敬だ」
「も、申し訳ありません」
 顔を俯かせて謝罪の言葉を口にする給仕の男は、しかしと控えめながらも主張を続ける。
「もっぱらのお噂で御座います。陛下は枢木卿を溺愛し過ぎるあまり、こき使っていると」
「……」
「貴方様のような優秀な部下がおれば確かに陛下も鼻が高いでしょう。しかし、万一お体を壊されるようなことが御座いましたら」
「いいんです。私は大丈夫だから、もう下がってください」
「ですが枢木卿。昨日見かけたときも貴方様はお疲れのようであられて、」
「これはナイトオブゼロからの命令だ。……下がれと言っている」
「……出過ぎた真似を、どうかお許しください。申し訳ありませんでした、失礼致します」
 さらにまくし立てて話し続ける彼の言い分を遮り、スザクは静かに退却を命じた。その口調はどこか後ろめたいことを隠すような、あるいは秘密が暴かれぬよう揉み消すかのような、余裕のない口ぶりになってしまった。

 これはあまり良くないやり方であると、スザクは十分理解している。

 汚職や賄賂、粉飾といった不正のない一切合切真っ当で健全な政治を行うにはまず、内容の良し悪しに関わらず隠し事をしない。ありのままの現状を、全国民とは言わずともせめて同じ空間で働く者たちには広く知らせること。
 口頭でも文書であろうと虚偽や嘘をつかない。外交上の駆け引きは避けて通れぬ道だが物は言いようだ。二枚舌を上手く使い分けて渡り歩くこと。
 自分の分け前、富と地位に拘らず権力に驕らない。我が身大事の行動の果てに待ち受けるのは自滅であるということを、常に肝に命じておくこと。

 現在の皇帝は常日頃から家訓の如くこれらを意識し、また他人にも説き伏せている。ブリタニア帝国が次世代を切り開く近代国家の象徴となるべく、彼はその理想の実現を目指して日々暗中模索しているのだ。
 何を隠そう、ブリタニア帝国は少し以前まで現皇帝の実父であるシャルルが支配する超大国であったのだ。世界の三分の一を占める領土はあまりに広大で、人口も資源も他の国家とは比較にならないほどの量である。そんな大国を支えていたのは偉大なる前皇帝の政治手腕でもなく、東奔西走し続けた官僚や貴族の働きでも、血と汗の滲むような環境下でも労働を続けていた自国民でもない。世界各地で巻き起こしていた紛争による戦争特需と植民地から巻き上げた重税による収入が、この国のおもな収益であった。
 そのうえ支配下に置く民衆には手厳しい封建制度を敷き、現地民である自国民が格下でありブリタニア人は敬うべきだと洗脳を施した。これによりブリタニア人は自国から一歩も出ずとも裕福で豊かな生活を送ることが出来た。一方で海の向こう側では戦争は蔓延、長期化し、帝国の支配に抵抗していた国々は次々と白旗を上げた。物資量も軍事力も桁違いの帝国相手に、まともに交戦できる国などほんの一握りに過ぎなかったのだ。

 前皇帝の崩御後、彼が遺した多くの子孫の中から選ばれたのが現皇帝でありスザクが仕える唯一の主人である。現皇帝は世界中に残された数々の悲劇の傷跡に共に悲しみ、ここから世界を創り直すことを宣言した。
 前時代的な価値観や方程式に捉われることなく、彼はこの国を新時代の基盤とさせるためにすでに舵を取っている。また、自身も敗戦国とブリタニアとの楔となるべく、国内の治安維持から外交まで幅広く携わっているのだ。
 今はまだ世界が本当の意味で結託するまでの、道半ばの段階だ。しかし度胸と知己に富んだ皇帝の手腕と頭脳にかかれば、世界平和というたった四文字の理想も現実になる。騎士はそう信じ、いかなることがあろうと主人に付き従ってきた。彼の隣に立てば同じ景色を、世界の展望を見られるはずだと信じて疑っていなかった。



 下半身を引きずりつつも、主人の言いつけどおり部屋までようやく辿り着いたかと思えば、鋭い矢のような視線が容赦なく浴びせられた。
「時間がかかり過ぎだ。アクシデントでもあったか」
「いえ、任務は問題なく遂行……」
「ならこの時間まで何をしてた」
 来るように言いつけられていた時間は二十三時、しかし騎士が着いたのはそこから十五分ほど経過していた。

 シルクのカーテンは暗闇の景色を遮るようにして閉じられ、代わりに昼間より明るく感じる室内照明が皇帝の頭上を照らしていた。まるでそこだけスポットライトを浴びるような立ち位置は、もしかすると彼の演出かもしれない。この場の主導権は俺が掌握しているのだと、言葉にせずとも騎士に知らしめるために。
 この部屋はあまりにも明るすぎて、今が朝なのか夜なのかも分からなくなりそうだ。室内の厳かな雰囲気に合うようにと誂えられた調度品や家具には金属の装飾が散りばめられ、施されたそれらは照明の光を反射してぴかぴかと輝く。埃や錆どころか曇りひとつ見当たらない金属類は昼間、使用人らが熱心に拭き掃除をしてくれている証拠だ。
 いつ見ても変わらない、約束された恒久的な美しさにも騎士は我知らず苛立った。視界に入る景色はどれも己の疲労しきった心身とは正反対の眩さである。こういうときは物の少ない静かな狭い部屋で一人になりたい。嫌でも目に入る情報量の多さだけで気疲れしそうだ。どうにも落ち着かない。
「少し過労が、いや」
「過労?」
「何でもありません」

 寝る場所と食事と衣類は充分与えられてるものの、一番肝心であろうそれを消化する時間は与えられていなかった。寝る間も惜しんで世界各地で起こるクーデターや同民族の紛争を鎮圧し、民間人を救出する。皇居に戻れば束の間の休息がようやく与えられ、数時間足らずで再びの出撃命令により叩き起こされる。
 人間は有史以来いつでもどこでも争い続けてきた。もはや人間が二人以上居て争いが起こらないはずがないのだと思えてくるほどに、あるいは皆時間と金を持て余しているのかと呆れるほど、大小様々な小競り合いは常に起きている。
 世界各地の戦場を巡るたび、悲劇に見舞われる兵士や民間人に遭遇することは頻繁だ。そのたびに騎士はまだ心に辛うじて残っていた良心を痛ませる羽目になる。戦争に巻き込まれ、声を上げたいのに力が及ばず埋もれてゆく弱い人たちは基本的に戦う術を持たない。戦争など所詮は金持ちたちと戦争商人の娯楽だ。大義名分を背負うならばどうして弱き人たちに目を向けず、誰も手を差し伸べないのか。騎士が戦地を駆けるたびに感じる違和感と怒りは、実際にその地へ足を踏み入れた者しか味わえない苦汁だ。

「疲れているのか? なら今日はもういい、私室に戻れ」
「で、ですが」
「よく見れば顔色も良くないじゃないか。無理強いはしない」
「……」
 騎士は俯いて、迷子の子供のように所在なさげに視線を惑わせた。
 心配されることは申し訳がないのと同時に、ほんの少し嬉しい気もした。不要な心配をかけさせている手前、そんな本音はおくびにも出せないが。
 しかし帰れと言われてすごすごと引き下がるわけにはいかない理由も、また騎士にはあった。皇居の者が皆寝静まったこの夜半、密会という形でしか成し得ないとある目的があるのだ。だがその前提はこの瞬間、いとも容易く崩れ去ることとなる。
 もうどの使用人も起きているはずがないのに、不意に扉の向こうからノック音が鳴ったのだ。
「……誰だ」
「陛下。夜分遅くに失礼致します。……枢木卿まで」
「ああ居るよ」
 扉の隙間からおずおずと顔を出したのは女の使用人である。
 ここは幸い屋外でないものの、女性が一人でこんな時間に、あまりにも無用心だ。皇帝はまずそのことを彼女に咎めた。
「も、申し訳ありません。この部屋だけ電気がついておりましたので、少し気になったもので……」
 彼女はちらりと窓側へ視線を遣った。釣られるようにして皇帝と騎士もそちらへ注視すると、ぴたりと閉じられていたと思われていたカーテンに隙間が見られた。恐らくここから室内の光が漏れてしまい、不自然な明かりに気づかれてしまったのだろう。
 しかもここは皇居の一番奥の端、つまりは外から見ても位置的に皇帝の私室であることは容易に分かる。防犯的な意味でも何か遭ったのだろうかと心配してしまうのは当然の心理かもしれない。
「それはすまなかった、このとおり俺は枢木卿と話をしているだけだ。変わったことはないから心配は無用だ」
「余計な邪魔をしてしまい申し訳ありません。私はこれにて失礼いたします」
 行儀よく一礼した使用人はそれだけ言うと扉を閉めようとした。が、その直前で彼女は不意に騎士へ小声で声をかけたのだ。
「……騎士様。お加減が優れないようでしたら、わたくしからも貴方様に休息を頂けるように陛下へ進言を」
「いいんだ、大丈夫」
「……左様で御座いますか。しかしお辛いときはわたくしたちを御頼り下さいね。わたくしたちは騎士様の味方で御座いますゆえに」
「ああ、気遣い感謝するよ」
 騎士はそれだけ言うと優しく微笑み、使用人を退室させた。

 皇帝は飄々とした面持ちであるが会話の内容を盗み聞かれていたかもしれない。しかしそれを悟らせないのが彼だ。代わりに怪しむような目つきで全身を射抜かれ、とても居心地が悪い。
 騎士は呆れでも疲れでもない、困ったように曖昧な笑みを浮かべて今度こそ皇帝へ向き直った。



 いわゆる皇帝の”可愛がり”であると多くの人は口を揃えて噂する。しかしその噂によれば”可愛がり”なんて軽い言葉では済まないような皇帝の非道っぷりが垣間見える。
 火のないところに煙は立たぬと言うが、人の口から口を介して広まる伝聞の特性上、話の内容には尾ひれが付き物だ。
 人はインパクトのある情報に関して強く記憶に残るが、些細なことはすぐに忘れてしまう。それでいて衝撃的だったりセンセーショナルな見出しを大衆は好むものだから、ついつい現実のメディアでも嘘のような本当のような、人々の興味関心を煽る見出しで釣るのは最早常套手段であろう。
 噂話もこれと同じで、その仔細より大見出しのインパクトに人々の興味関心は向けられる。そうして徐々に変容してゆく内容は真実とは似て非なるどころか事実無根だったりするのだ。

 騎士は今現在、この厄介な噂話に悩まされていた。なんせ自分が渦中の人間で、己の主人であり一国の代表ともあろう人物をこの厄介事に巻き込んでしまっているのだ。
 戦場であればランスロットで駆け付ければ制圧できようと、相手は生身の人間の口から口へ伝わる目に見えない対象だ。彼ら彼女らの口を塞がなくては解決しそうにない問題である。
「さっきの使用人、何かお前に話しかけていたが……何を言われた?」
「ああ……例の噂を真に受けていたようです」
「ふうん。ここから早くお逃げくださいとか、そういうことか」
「当たらずとも遠からず、としか」
「はは。お前は人望が厚そうで何よりだ」
 噂話の内容はこうだ。皇帝は専属騎士に過重労働を背負わせこき使う”可愛がり”をして、その褒美に夜な夜な溺愛をしている。騎士はそれを苦痛に感じているが相手が皇帝である以上歯向かうこともできず、この境遇を強いられている。
「やはり私と他の者への接し方を変えるという差別化はなくしたほうが宜しいのでは」
「なぜ?」
「格差を生むことで士気が落ちることもあるかと。それに……」
「お前が俺の愛人だって噂話がそんなに苦痛か?」
「そ、それは」
 皇帝は常に隣に立つ騎士にのみ、指示も命令も無茶振りをしぞんざいに扱う。良い言い方をすれば気安く、まるで昔からの知己のように接するのだ。
 その差別化は単なる仲良しごっこを演出するだけが目的ではない。皇帝がよそ行きの仮面を外す唯一の人間が騎士であることにより、騎士自身の階位が他のラウンズや軍人らよりずっと高貴であるものだと印象付けることが出来る。
「まあそれも当たらずとも遠からず……というより当たりか」
「……」
「変な嫌がらせを受けるよりかは、心配されるくらいの方がマシだろう」
 騎士はかつてブリタニアの占領下にあった日本生まれの日本人だ。現皇帝は人種差別の認識の撤廃を押し進めてきたが、それでもまだ一部で旧植民地民族は劣等種であるという意識が残っている。ゆえに日本人である男がブリタニア皇帝の側近に、となることで反発や悪評を少しでも減らす必要があった。
 この差別化は功を奏し、むしろ効果が出過ぎたくらいだ。今ではむしろ皇帝から騎士が嫌がらせを受けているのではないか、というありもしない突飛な噂さえ流れている始末である。
「とにかく今日はもう休め。本当にどこか調子が悪いんじゃないか?」
「心配はご無用です。私は健康そのもので」
「いいから帰れ。また明日、同じ時間に来い」
「……畏まりました」
 一度言いだしたら曲げない性格なのは騎士も皇帝も同じだった。しかしここは騎士が先に折れることにした。部屋に訪れてから話を暫くしているうち、すでに時間は日付を越えようとしていた。これ以上の長丁場は彼も自分も望まない。騎士は冷静にそう判断した。



 夜露の残るバルコニーは静寂に包まれ、風の音さえも聞こえない。朝日が昇り始め空が白み始める時分、庭に植えられた草木に付着した水分がスパンコールのようにきらきらと光る。明け方にだけ纏われる露の衣装はまるで誂えたかのようで美しく、長く続くことのない景色にしみじみとした感傷さえ抱いた。
「騎士様おはようございます」
「……ああ、おはようございます」
 ウッドデッキを踏む足音につられて視線を上げると、すぐ傍まで歩み寄っていた給仕が挨拶を寄越してくる。手にはバケツや雑巾、箒があったことからバルコニーの掃除をしに来たのだろう。
「こんな朝早くから、ご苦労様」
「いえ。騎士様こそこのお時間に珍しいですね」
「今日は午前中が空いていて。久しぶりの休暇だから早起きついでに外の空気を吸いながら、これを」
 これを、と言いながら両手に抱えていた分厚い本のブックカバーを外し、その表紙を給仕に見せた。
「帝王学の入門書、ですか」
「陛下に勧められて読んでみてはいるんですが、なんせ内容が難しくて。陛下ならまだしも私の頭では足りないようだ」
 騎士は自虐的になりながら苦笑いを浮かべた。しかし対する給仕はどこか不安げな表情を浮かべ、何かを言い淀んでいる様子である。
「……騎士様」
「うん?」
「おおよそこの宮殿におる者たちは皆、貴方様の味方で御座います。そのような書物で思想の洗脳など、陛下ともあろう方が……」
「……うん?」
「表向きは階級制度の撤廃、つまり政府を牛耳る貴族階級の追放と下級民族の解放が最優先とされております」
「ああそうだ」
「しかしその実、あの皇帝は貴方様を……直属騎士の人権を蔑ろにし、過労死寸前まで激務に追い込むうえ奴隷同等の扱いを強いておられる」
「……ううん?」
「ここ最近は寝不足でお顔色が優れません。どうかご休息を、私のほうからもご提案させて頂きたく」
 給仕がそこまで言いかけたとき、不意に言葉がそこで途切れた。
 一体どうしたのかと問おうと目を合わせると、目前のあった顔はみるみるうちに蒼白になった。そして頭上に長く細い影が、二人の間に落ちる。

「一体誰の話をしているんだ?」

 バルコニーに凛と響く声に騎士は背筋を伸ばし、給仕は肩を竦ませ唇をわなつかせる。

「おはようございます、陛下。先日お借り致しましたこの書物について話をしていました」
「へえ、てっきりお前のことだから読まずに返されるかと思ってたよ」
「そんなことはありません。少々、文章は難解ですが」
「それは結構。して給仕よ、先ほどからえらく落ち着きがないが」
 飄々と現れた皇帝は伸びた黒髪を風に靡かせ、涼しい顔で給仕に向き合った。細身であるその体に誂えられた白の装束は彼の威厳と権力を誇示し、同時に一般人とは一線を画く神のような存在であることを知らされるのだ。尊敬と畏怖の象徴である男に対し、給仕はなす術もなくその場から逃げるように早口で言い訳を連ねた。
「早朝の仕事を今しがた、思い出しまして……私が居ないときっと他の者たちも困っておるでしょう。申し訳ありませんが陛下、騎士様、これにて私は失礼させて頂きます」
 ああご苦労、と皇帝が声をかけるよりも先に給仕はお辞儀をし、すぐさま背を向けて走り去ってしまった。夜露に濡れた草の上は滑りやすいため、あまり走るのは良くないかと思われる。しかしそんな一声をかけてやる暇もなかったのだ。
「……よっぽど大事な仕事だったようですね」
「それは天然か?」
「さあ、どうでしょう」
 騎士は訳知り顔のまま苦笑いを浮かべ、肩を竦ませてみせた。



 騎士のここ数日の寝不足、睡眠負債のせいで宮殿内でまことしやかに囁かれる噂がまるで現実味でも帯びてきたかのように、人々の口から口へ伝えられた。その噂話には尾ひれも付き、そんなことがあるはずないと誰もが思いそうな類の内容も中にはある。
 すべてが事実無根の嘘だ。しかもそれは皇帝が押し進める政策とは正反対の差別的な内容であるために、まるで週刊誌のスキャンダルかのように面白おかしく大袈裟に脚色されてゆくのだ。さすがにこれ以上は皇帝に対する誹謗中傷であり不敬罪にも当たるかと思われたが、彼は敢えてそれを耳に入れておきながら好きにさせた。
 まるで見えない生き物のように日々姿形を変え、人々の興味関心を煽る噂話は嫌でも皇帝に対する信用を揺らがせるものとなる。宮殿内での噂話という域を未だ出てはいないものの、しかしこれが一般大衆の耳に入れば一気に世界中へ拡散されるに違いないのだ。いつまでも楽観的に捉えていては自らの身を滅ぼしかねない、それほどまでの危険性を孕んでいるはずだ。

「いい。好きに言わせておけ」
「しかしこれ以上は陛下の尊厳、沽券にも関わるかと」
「今さら俺がそんなものに拘る人間に思えるか?」

 天井から吊るされたシャンデリアが煌めき、薄い膜のようなカーテンの裾が夜風で揺れた。
 その日の夜、また騎士は皇帝の元へ夜半遅くに訪れていた。どこか深刻そうな、重い表情を浮かべる騎士とは裏腹に皇帝はやはり余裕綽々といった面持ちを見せたままだ。目の前に立つ騎士を腰かけたソファから図々しく見下ろす態度を晒し、不遜で横柄な姿勢は皇帝が騎士だけにしか見せない皇族としてはあるまじき姿だった。
 皇族とは神に最も近い存在だ。空と大地と民と国を統べる、唯一にして絶対であるべき対象である。だからといって権力を振り翳し何をしてもいいというわけでなく、驕る民から弱き民まであらゆる人々の声に耳を貸し、すべての人々が平等で幸せな明日を迎える世界に導く必要がある。そのために皇帝には国を支配する権利があり、義務がある。

「万一陛下のご意向に背き、彼らが挙兵でもすれば」
「お前が全て粛清すれば済む話だ。このご時世に武力で解決しようなど時代錯誤も甚だしい」
「いつかは世間にこの法螺話が知れ渡る可能性もあります」
「メディアを操作し封殺する」
「し、しかし……」
「それにな。これはお前が宮殿内で動きやすくするための策でもあるんだ。日本人だイレブンだと陰口を叩いていた奴らだって皆、手のひらを返してるだろう。まんまと俺の策略にはまってる」
 ソファの肘掛に肘をつきくつくつと悪い笑みを浮かべる。そんな顔をしていたらそりゃ、裏で反社会勢力と繋がってるだの反逆を企てる者は子孫末裔残らず粛清するだの、ありもしない悪評が広まるのも仕方ないかもしれない。皇帝に跪く騎士がそう思えるほど、男は切れ者で悪巧みを得意としていた。
「それともなんだ。このままじゃ俺が宮殿内でイジメられると?」
「……それに近しい事態に発展する可能性は否めません」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。その時はお前が俺を守れ」
「肝に銘じております。……し、しかし……」
 いつになく歯切れ悪くしつこい騎士に、皇帝もいい加減苛立ちを見せ始めていた。爛々と光を放つシャンデリアの輝きを受ける美しい顔が僅かに歪み、眉間に皺が刻まれる。彼の我慢が潮時であることを表していた。
「その……」
「くどい。なんだ。言いたいことがあるならさっさと言え!」
 肘掛に置いていた指先が忙しなく動き、人差し指がその上を数度叩いた。男には貧乏ゆすりといった癖はなかったが、時たま指先を動かしたり物をトントンと叩いて相手の返事を催促させる行動に出ることがある。これも相手の心理を揺さぶる作戦なのかもしれない。
 騎士は皇帝の足元に跪いたまま、惑うように俯けていた目線を僅かに上げた。目前にはひどく機嫌の悪そうな男が居る。

「……私が嫌なんです。陛下のことを悪く言われるのはとても、辛い」

 紫は驚くとも困惑するともなく、ただ静かに瞬いて騎士の顔を静観していた。もう互いに見飽きるほど見てきた顔であるが、改めてまじまじと観察されると気恥ずかしい。よって、先に視線を外したのは騎士であった。
 気まずげに顔ごと視線を逸らすと、頭上からくすりと息だけで笑う声がしてとても悔しくなる。自分の願いや嘆願など彼にとっては所詮、鼻で笑うような取るに足らない些事でしかないのだ。前皇帝が言うのところの”俗事”とでも言おうか。
 一世一代の大告白のつもりで告げた本心であったが、皇帝は騎士の進言にもとくに耳を貸す様子はない。それどころか自らを心配する忠臣の態度を至極愉快そうに見つめるのだ。
「なあ、騎士よ。……いやスザク」
 猫のように目をゆったりと細めた男は、苛立たしそうに肘掛を叩いていた指をそっと差し伸べた。貝殻のような爪を目で追うと、それは己の目前までやってきて、そうして首元に触れた。騎士は思わず瞠ったが、皇帝は弓なりに細めた紫のまま何てことないように囁く。
「……今晩はどうするんだ? 自分で”準備”をしてきたか?」
「そ、れは!」
 頭まで一気にかっと血が上る感覚がして、騎士は彼からの追求から逃れようとした。が、まるで忠犬をあやすような指先の動きに気が削がれる。
「イエスかノーで答えろ」
「……は、はい。……イエス、です」
 頬、えら骨、顎下をゆったり辿る指は唇を柔らかく押し潰すように触れた。まるで壊れ物でも扱うかのような繊細な手つきに変な緊張を感じる。心がざわざわして落ち着かない。
 ――上出来だ。おいで、スザク。
 吐息だけの小さな声はしかし、二人きりの静かな部屋にはそれだけで十分だった。ゆったりと動く唇の形に思わず見蕩れた。
「イエス、ユア、……ん」
 そこまで告げたところでぬるついた粘膜が直接唇を覆った。
 騎士の恭しく堅苦しい口状はそれを気に食わないとする皇帝の口腔に消えた。



 明るすぎる部屋ではただでさえ刺激的な視界情報がさらに強烈で生々しく映る。目を逸らそうにも無駄に長い手指に顎を絡め取られるとそれも叶わず、無防備で無知なそこに劣情が何度も突き立てられた。
 涙で滲む視界の先には蕩けた瞳でこちらの様子を窺う男の顔がある。いつもの冷静沈着を体現した面持ちからは想像もつかないような、熱に浮かされきった余裕ない顔つきだ。薄い唇のあわいからは時折荒い息が漏れ、その雄々しい表情ひとつひとつに胸がぎゅっと絞られる。
「下手くそ」
「ご、めんな、ひゃ……」
「喋らず舌を動かせ」
 だるくなった顎を再び開けて、血液で膨らみつつあるそれに舌を絡めた。
 言われるがままに頭を動かせばそうじゃないと言われ、くたくたになつわた舌を這わせれば物足りないと文句をつけられる。どうにも自分は不器用らしい。あるいは羞恥心が抜けきっていないせいで、所作が覚束ないのか。どちらにせよ彼は不満そうだ。
「いつまで経っても上達しないんだな」
 頭を撫でる手つきは優しいのに言いつけられた所感はあまりに無慈悲だ。ぐぽ、と肉棒の抜ける音が喉の奥から鳴った。
「す、すみませ……」
「……うん?」
「へ、陛下」
 男はとあることに気づいたように目を瞬かせ、意外そうな表情をした。
「スザク、もう公務の時間は」
「…………いけませんか」
「……」
 唾液でべとついた肉棒に指を絡ませ扱くと、くちゅくちゅと泡立つ音が鳴る。ぬらつく先端を指先で弄り、小さな窪みから滲む汁を竿へ伸ばすように手を動かした。びくびく脈打つ陰茎は余裕を浮かべる涼しげな男の表情と裏腹に欲望を滲ませている。
「いいだろう、付き合ってやる」
 皇帝の薄桃色の爪が騎士の頭皮を軽く引っ掻き、茶色の癖毛を弄った。
 それを合図にするかのように、騎士は再び膨らみきった陰茎を口に運んだ。強烈な圧迫感と独特の臭いに顔を顰めてしまうのを堪えられない。
「ふ、う……」
 しかし騎士はどこまでも従順に、それどころか犬のように喜んで主人に屈服した。ざらついた舌の上でころころと先端を転がし、太く硬く育った幹を喉の奥へと導く。
「もういいよ」
「……っ、ぁ」
 髪の毛を後方に引かれ思わずそこから口を離すと、唾液の糸が唇から伸び、顎の下へ垂れた。ぬらぬらと光る陰茎は彼の中心で屹立したままだ。目の遣り場に困って、赤くなった耳も頬も誤魔化す術を見つける前につい顔を背けてしまう。
「おいでスザク」
「……」
「おいで」
 唾液でべたつくのも厭わず皇帝は騎士の顎を掬い、目線を合わせるようにして持ち上げた。紫の双眸は弓なりに細められたまま優しく緩む。
 優しい眼差しと声音に導かれ、騎士は静かに頷いた。



 ソファに寝そべる男にスザクは跨り、白い顔を覗き込んだ。長い睫毛が下瞼に影を作り、どこか暗そうにも見える。
 機嫌を悪くさせてしまっただろうか。もう気が散ってしまっただろうか。
 口淫は下手だと言われたし、前戯らしい前戯だってまだ拙い。女のように甲高い声を出すことも、やわらかな膨らみもない。そんな自分がどうして寄りによって"女側"なんだと、困惑したことは数知れなかった。
「服を脱いでみろ」
「へ……」
「"勅令"に逆らうのか?」
 にやりと意地悪い笑みを浮かべ、念押しで尋ねてくる。逃げ道を作る口実を奪うのは彼の常套手段だ。
 スザクはうんともすんとも言わず、その代わり身に纏っていたナイトオブゼロの外套に手をかけた。
「さながらこれは……ナイトオブゼロのストリップショーだな」
「……っ」
 露わになったパイロットスーツの上から臀部、腰を撫で上げる卑しい手つきにスザクは身を震わせた。その従順な様子に男は喉の奥でくつくつと嘲笑う。
「勿体ぶらずに早く脱げ」
「勿体ぶって、なんか……!」
「でも興奮してるんだろう」
 首を傾げながら膝を立てた彼はそのままスザクの股座をぐり、と抉った。瞬間、あっと口をついて嬌声が飛び出る。その声音は男に媚びるような甘ったるい色にすっかり染まっていた。
「ぁ、っや、ルル、ひっ」
「……"設定"はもういいのか」
「んっ、へ、陛下、や」
 がくがくと震える膝に力を入れて体勢を保とうとしたが、どうにも言うことを聞かない。日々の鍛錬も訓練も性感の前では全くの無意味であることを嫌でも知らされる。
「あはは、そうだそうだ。敬語は外すなよ、興が冷める」
 内太腿に手を差し入れ、敏感な部分をするりと撫でられると鼻から息が漏れる。抵抗も拒否も、抗議するためさえ牙も削ぎ落してゆくような手管はスザクの冷静な思考を徐々に奪ってゆくのだ。


 こんなの間違ってる。あまりにも低俗で下品で倒錯的だ。社会的にも許される行為じゃない。国を治め、軍を統率し、民を束ねる側の人間として非常識極まりない、下劣なことだ。
「ほら、また締まった」
「う、うぅ」
「腰も揺れてる。欲張りな体だ、なあ?」
 一糸纏わぬ火照った肢体に、ナイトオブゼロを象徴する紺色の重たい外套が肩から被せられていた。素肌に直接触れられた布地はつるつるとした高級感さえあって、普通は”こんな使い方”をするわけがないと考えなくとも分かる。

 このマントは皇帝が騎士である枢木スザクの身長体躯に合わせて作らせた特注のものだ。裾の長さから肩幅、帽子部分に至るまで完璧に設計・デザインされたそれは皇帝の権力を誇示するというよりも、騎士が皇帝にとってどういう存在であるかを周囲に知らしめるためであろう。
 他のラウンズや優秀な軍人、官僚らには決して与えられない唯一の称号は惜しげもなくスザクに与えられ、元イレブンの宮殿入りに眉を顰める者たちは否が応でもスザクを認めざるを得なくなった。このマントは謂わばナイトオブゼロの称号そのもので、皇帝から最も重宝されている証でもある。
「来るときに自分で解してきたんだろう。やってみろ」
「そ、そんなはしたないこと、」
「いいから」
 有無を言わさぬ強い口調にスザクは瞳に涙を滲ませた。
 みすぼらしく丸裸の自分とは対照的に彼というと見慣れた皇族衣を身に纏ったままだ。内股に布の感触が直に伝わってくる。つやつやとした絹のような肌触りの衣服は腕や脚の下敷きとなり、せっかく仕立てた一張羅も皺が寄ってしまっている。
「ぁ、あ、ん」
 湿った穴に自らの指を突き入れ掻き回す。控えめに出た声は自分のものじゃないみたいに甘えただ。
「ルル、しゅ、あ」
 己を虐げ羞恥を煽りたがるこの男、ルルーシュは何も言わず自分の手で自分の穴を慰める己の痴態をただ眺めていた。
「呼び方、違うだろ」
「っ、陛下、あ、見ないで、くださ」
「隠すな」
「恥ずかしい、んです、恥ず、かしい、から……」
 どうもこういう"シチュエーション"がルルーシュも気に入ったらしい。くすくすと笑いながら、汗で張り付いた前髪を指で払ってくれた。口調は心底意地悪なのにこういう仕草の端々ひとつひとつに愛情を感じられる自分は、よほど重症なのだろうか。


 彼も自分も、そういう意味で互いに好意を抱き惹かれ合った。元々命を捧げ、預けられるほどの信頼を確立していた相手ではある。慕い合い、恋し合う感情に発展するのはなんら不思議ではなかったのだろう。
 芽吹いた恋心を育て続けたスザクは自分の感情の行く末について、勝手にそう結論付けている。肉体関係まで結んでしまった今となっては何を言っても言い訳にしかならないが、決して目先の好奇心や欲望の発散目的でないことは神に誓って断言できた。
 立場とか状況とか身分とか、そんな小難しいことは棚の上に置き去りにしたまま二人の恋は成就した。好きな人に好きだと言われ恋し合えることは、スザクにとって抑圧された日常生活からの唯一の捌け口であり、最後の生き甲斐とも言えた。自分を肩書でなく、まだ”枢木スザク”個人として扱ってくれる最後の人がルルーシュだった。

 彼を守るために強くなろう。傍に居続けるために強くなろう。
 そう願って戦い続けた末にスザクに与えられたのは、皇帝の側近という名の椅子だった。ごろつきのブリタニア兵士ひいては元イレブンという出発点からの異例と言える出世であり、授けられた勲章はブリタニア軍人にとって最上級の誉高い階級だ。文句なしと呼べる程度には数々の功績と武勲を積み上げてきたが、それでも嫉妬ややっかみは受けた。それでもこの地位にまで上り詰めたスザクにとってそれらの嫌がらせは痛くも痒くもない、雑音に過ぎなかった。そのストイックで容赦ない戦闘スタイル、そして愛機である白銀のナイトメアフレーム・ランスロットを自在に操ることから、戦場では”白き死神”とまで揶揄られた。だがスザクはそのような二つ名で呼ばれてもなお自らを省みることなく、ただ強くなることだけに没頭した。
 皇帝の専属騎士、ナイトオブゼロの階級だってそうだ。彼を守るためにその階級が必要だと言うからその称号を得たまでで、ラウンズの頂点に恥じぬ振る舞いだとか意識だとか、格式高い慣習も煩わしい。何と呼ばれようとどこに属そうと、どこで生まれ誰に育てられどんな人種の血が流れていようと、スザクにはそれがハンデとさえ思わなかった。
 幸いにもブリタニア皇帝・ルルーシュは前時代の封建制度を砕き、実力至上主義を基本理念として新しい国家を築き上げようとしていた。血統主義の役人らもお上の意見にはとうとう逆らえないようで、スザクがブリタニア国内ひいては宮殿内で名を轟かすまでにさして時間はかからなかった。


 一日の職務をあらかた済ませ、彼の私室へ赴き伝達事項を言い終えると、二人だけの時間はようやく動き出す。肩書と威厳を誇示するためにある衣服を床に脱ぎ捨て、ただの枢木スザクに戻る瞬間、ルルーシュとの相瀬が始まるのだ。
 それは毎晩欠かさず密やかに、音も立てず明かりも漏らさず行われる。湿った吐息と粘着質な水音だけが静かにシーツへ吸い込まれ、濡れたそれらは翌朝こっそり洗えば全てなかったことになるのだ。皇帝のプライベート事情は彼自身の意向により徹底的に守秘されている。だから彼の私室で起きた出来事が外部に漏れることはまず有り得なかった。

 完璧な守秘義務、箝口令、人払い、盗聴器や隠しカメラといった諜報道具、あらゆる面から鑑みてもこの部屋は完全な秘密のベールに包まれていた。なんせ警戒心が強く神経質な男の管轄だ。プロの諜報員だって溜息を漏らすほど、一点の隙もないのだろう。

 だが最近になって、その牙城に綻びが見え始めていた。



「おねが、お願い、陛下、はやく」
「何をだ」
「分かっ、てるくせに……!」
「……そんな口の利き方を教えた覚えはない。もう一度しゃぶらせてやろうか?」
 無造作に唇を這う指が口腔に侵入してくる。ざらついた上顎を撫でられると犬のようにふうふうと荒い息が漏れることが悔しかった。もはや条件反射でそうなるように、己の体はとっくにルルーシュに作り変えられていたのだろうか。
 自らの肛門に指を三本ほど這わせながら、スザクは差し出されたルルーシュの指をちゅうちゅうと吸った。許して、ごめんなさい、でも欲しい。
 欲望を乗せた眼差しで紫の虹彩の覗き込むが、ルルーシュはあくまでスザクを弄ぶことに執心している。むずむずと痒い奥の奥は、どれだけ指を伸ばして掻き回したって届きやしない。これがないと、彼のペニスじゃないと。膨らむ欲を紛らわせたくて、ひたすら疼き続ける内部を擦っては引っ掻いて、押し潰しては撫でた。
 汗で湿った肌はぬるついて、肩に掛けていただけの大きな外套がずり落ちそうになる。しかしそんなものは元からスザクの意識の外だ。
 紺色のマントは権力の象徴。皇帝からの信頼の証。全ブリタニア軍人の規範。平和の偶像。
「ア、っ、くらさ、へいか、くらひゃ、ぁう」
 二本の指で摘ままれた舌を引きずり出され、表面を爪の先でカリカリと擽られると呂律も回らなくなる。はふはふと躾のなってない犬のように、恥も外聞も形振りも構わず欲望を口にした。
「お、おひたい、しておりま、へいか」
 太腿の内側に自分以外の熱源が触れたのを感じ、スザクは空いていた左手を使って、手探りではありながらもそれを握り込んだ。
 とくとくと脈打つ、今スザクが欲しくて欲しくて堪らない彼の肉棒だ。それを少し乱暴にぐちゅぐちゅと上下に擦る。するとどうだろう、感情の読めない鉄壁の仮面が僅かに歪められ、スザクの行動を忌々しげに見つめるのだ。所詮は彼も人間の雄に過ぎないのである。
 口腔を蹂躙する指がそっと引き抜かれ、ようやく発言の自由を与えられた気がした。もはや自分は彼の許可なしには言葉を発することもできないのやもしれない。

「お慕いしております、陛下、だからどうか僕を、私を、抱いてください」
 後生一生口にすることはないであろう、情熱的な愛の告白だった。
 ルルーシュは僅かに口角を持ち上げ、おいで、と唇の動きだけで言葉を伝えた。
「ベッドに行こうか」
「……も、…もう待てない、…です」
「……」
「僕、じゃなくて、えと…私はもう、足りないんです、だから……」
 涙の膜で霞む視界の先にはほくそ笑むルルーシュの顔があった。仕方ないな、と呟かれた声音だけで自然と唾液が溢れる。
 待ちに待った褒美だ。飢えた体に早く注ぎ込んでほしい。叩き付けられて、おかしくなりたい。満たされることをすでに知っている肉筒は、きゅうきゅうと収縮を繰り返しては期待することをやめられないのだ。
 そして、強烈な飢餓感を初めて知らされた体はますます、男の熱を求めて止まなくなるのだ。



 崩れかけた安全神話は皮肉にも皇帝自身の悪癖がきっかけであった。
 彼はスザクと性交に浸る際、ここ最近はとくに焦らして焦らして、たっぷり痛めつけて、乾ききった体をゆっくりと満たしてやるような所作で事を進めたがる。恋人の泣き顔が好きなのか、征服欲を満たしたいのか、日常の公務によるストレスか、本人も無自覚なサディスティックが暴走しているのか、スザクは区別がつかない。
 時間をかけてゆっくりと理性を崩してゆくように、スザクを快楽で言いなりにさせることに、少なくともルルーシュは悦びを見出しているように思える。それが元来の趣味なのか相手がスザクだからかは分からないが、ルルーシュの困った癖のせいでついに実害が出始めていた。
 全ての公務が終わったあとに行われるそれは大抵始まりも遅い。日付を辛うじて跨ぐ前に服を脱ぎ始め、さっさと抜いて出すだけなら数十分で終わりそうなそれを、彼はあろうことか一時間ほどはかけるのだ。
 当然、くたくたになった肢体を新品のシーツに転がせるのは夜中になってからだ。ただでさえ出動要請のかかる朝は早いのに体も心も疲弊しきっていては、いくら最強の騎士であれ限界というものがあろう。
 まだ明け方、空が白んでいる時分にベッドから起き上がり、夜はとうに日付を越えた時刻に寝付く。無茶なルーティーンに体がついていかなくなるのは時間の問題だったのだ。すれ違う使用人らに顔色を心配され、あまりの眠気に眩暈を催せば止せと主張しようが医務室に通される。皇帝から一方的な寵愛を受けていると勘違いされている手前、言い訳しようにもどう丸め込ませればよいか分からない。それは全て事実無根の嘘である、と宣言すれば己の出自と卑しい身分を案じてくれた彼の余計な世話が無意味になる。スザクはルルーシュほどの卓越した弁術を持ち合わせていなかった。

「お前は何も考えなくていい」
「ッ、あ! う、はあ、あ」
「俺の身辺を命懸けで守ってくれるなら、せめて俺は、下らないこの箱庭の中で少しでも生きやすくなるよう、お前を守ってやりたいんだ。悪い話じゃ、ないだろう」
「……ん、うぁ、んッ、あ!」
「スザクのために、規模は小さいが……ほんの少しでも、優しい世界を創ってやりたいんだ。俺はお前に、感謝しているから」
「そ、う、なの……?」
「ああ。だから何も案ずることはない。受け取ってくれ、スザク」
「ッ、ん! ぁあ、ひっあ! ん、ルル、しゅ……!」
 泣き腫らした目元を拭う指は優しく温かい。それが今一番欲しい温度だった。

 スザクは嘘と偽りと悪意で塗りたくられた世界など求めていない。その悪意の矛先が愛する人に向けられているなら尚更だ。こんな箱庭は息がし辛くて、言いたいことも言えない。権力と富と名声、身に余る称号は今、スザクの足枷でしかなかった。
 ルルーシュの言っていることは所詮善意の押し付けだ。誰がいつそんなものを頼んだんだと、心の内で静かに吐露した。
 しかし男はスザクのそんな本心など露知らず、笑ってくれ、と乞うてくる。
「……嬉しい、うれしいよ、あ……きもちい、好きなんだ、……すきです、陛下」
 自分のために作られた偽りだらけの幸せな世界は、被支配者側に立つスザクの欲求をこれ以上ないほど満たしていたのも事実だ。それはスザクの良心を痛めつけ、刻まれた傷口には覚えたての愉悦を塗りたくられる。
「俺もだよ。お前が笑ってくれたら、俺は嬉しいんだ」
 スザクは紫の瞳に媚びるように、とびきり煽情的な嬌笑を作ってみせた。