メロドラマ・ティータイム

 どうかしたか。
 温度のない部屋に低いテノールの、心なしか優しい声音が僅かに響く。声の主はとくに感情を込めずその言葉を発したつもりだったが、相手が相手だからだろうか。顔見知り程度の同級生らに向けられる無機質さとは程遠い、それはぬるま湯のようだった。
 残る左腕に黒の上着を通して、ルルーシュは首をやや傾げながら背後に立つ男に、静かに問うた。
 ルルーシュの正面には壁に嵌め込まれた大きな窓ガラスがあって、そこから差し込む光は橙色を帯びている。室内には帰り支度を急かすアナウンスと静かなピアノの音楽が流れ始めていて、校内に残る生徒らに帰宅を急ぐよう喚起しているのだ。例に漏れず生徒会室に残る二つの影も校内アナウンスの音声を耳に入れるや否や、ようやく帰宅の準備に取り掛かっていた。

 年度末ともなれば決算期で、ルルーシュの所属する生徒会は年中で最も多忙となる。神経質にならざるを得ない事務処理作業はもちろん、土壇場に差し掛かると案外肉体労働も伴ってくる。膨大な請求書を取りまとめ校内中に離散する担当者や責任者、学長らに承認印だのサインだのを求めて走り回ることもしばしばだ。帳簿やデータ送信はネットを介して行われるが、最終的にそれらを運ぶのは人間の足なのである。
 そうした労働はなぜだか主に男手、男子生徒に回されるのが常だ。
 水泳部も兼部しているシャーリーは体力に自信があるものの、最近では生徒会室を避けるかのように顔を出さなくなった。恐らく細々とした確認作業や帳簿付けが彼女を苦しめるからだろう。放課後そそくさと教室から脱兎を図るシャーリーを捕らえようとルルーシュは幾度となく仕掛けたが、彼女の足の速さを前に捕獲は失敗続きだ。そもそも高校生にもなって、男子が女子を全速力で追いかけ回す光景などあまり見れたものじゃない。体裁を気にしがちなルルーシュの性質は、とっくに彼女も織り込み済みなのだろう。
 カレンやニーナは事務要員の主力中の主力だ。大人しく比較的従順な彼女らは与えられた仕事をそつなくこなす。それに反してどこか注意力散漫でだらしのないリヴァル、そんなリヴァルとの雑談に興じて効率がすこぶる悪いスザクと、そこに並ばされるルルーシュときたら、生徒会長であるミレイから労働要員として駆り出されるのはむしろ必然であったのだ。

「あんたたちは放課後までに学校中の部活顧問たちからサイン貰って、コピー取って、纏めて学生部に提出すること!」
 ミレイからそんな命令を下されたのはほんの二時間ほど前だ。部活顧問に支出の計上額を確認してもらったあと、来期の予算を組む必要があるためである。予算会議まで日にちが残り僅かともあって、生徒会はひっくり返るほど多忙を極めていたのだ。
 三人は手分けして学園中を駆け回った。なんせだだっ広いアッシュフォード学園の敷地内で、数多くの部活が存在するのである。校内を練り歩くだけでは日が暮れても終わらないだろう。
 ルルーシュは次期こそペーパーレス化を生徒会長に訴えることを心に決めた。


「疲れた……」
「ああ、本当に……」
 すっかり橙色に色相を改めていた空を見遣って、ルルーシュは心の底から相槌を打った。
 三人のチームプレーが功を奏し、ミレイに言い渡された無茶振り任務は時間内に無事完遂されたのだ。リヴァルの広い人脈を用い、予め校内に散らばる顧問らの場所を割り出し、周る順番と作戦をルルーシュが立て、底無しの体力を持つスザクを中心に立ち回ったおかけだ。あとはリヴァルが纏めた書類を学生部の事務課に提出するのみとなっていた。
「真夏じゃないかってくらい、暑いな」
「……」

 三月の中旬を少し過ぎた頃だ。春の訪れを感じさせるぬるい風が時折頬を掠めるが、朝晩はまだ冬の気配を残したかのような寒さを感じる。昼間はほんの温かい程度だ。暑いとはまではいかない。アッシュフォード学園特有の黒いジャケットは袖を通していたって蒸し暑さはまだこれといってない気候だ。
 しかし今は常とは異なる状況であった。生徒会室に残る二人は脱いだ詰襟を片手に持ち、薄手のブラウス一枚でぜえぜえと乱れた呼吸を整えている最中だった。
 なんせ、つい数分前まで馬鹿みたいに広い校内を駆け回っていたのだ。スザクが他の二人の大半のノルマも肩代わりしたため、とくにリヴァルに疲労の色は薄かった。ルルーシュはなぜだかスザクと同程度、それ以上の疲労っぷりが見え隠れしたが、スザクとリヴァルはその様子を敢えて触れないでおいた。

 ふう、と一息ついてルルーシュは窓から差し込む夕焼けに顔を向けながら上着を掴み直した。クールダウンした体に夕暮れ時のひんやりした涼しい風を浴びせるのは良くない。気温変動が激しいこの時期はとくに体温調節に気を配らねばすぐ風邪を引いてしまうのだ。
「早く支度をしないと、そろそろ”追い出され”そうだな」
 窓の外に視線を走らせ、ルルーシュは片袖に腕を通した。生徒の姿は数少なく、ちらほら見える一回り大きな影は警備員の姿だった。早く寮に帰りなさい、と廊下を巡回する警備に叱られるのも時間の問題だ。放課後遅くまで居残っていたばかりに警備員から怒鳴られることを、学園の生徒らは”追い出し”と隠語で呼んでいた。
「……」
 二人きりの生徒会室にはルルーシュが立てる布擦れの音しかない。窓ガラスからは差し込む夕日が眩しすぎて、至近距離に立つルルーシュ自身の体しか映っているものが見えなかった。
 スザク? と名前を呼びながらルルーシュはその場で振り返った。残っていた片袖を腕に通しながら、どうかしたか、とも問うた。

「……お前、その顔」

 ようやく目が合った二人の間に流れたのは気まずい雰囲気でも重い沈黙でもなく、スピーカーから発せられた静かなピアノの旋律であった。帰り支度を急かす音声はいつ録られたなのか誰も知らない、可憐な声音をした女子生徒のものだ。
 二人は、とくにスザクのほうは弾かれたようにはっと表情を変えたあと、いそいそ上着を羽織り始めた。その顔色はルルーシュのよく知る友人で、古くからの幼馴染で、馬鹿正直で真面目な同級生、枢木スザクそのものだった。



 テーブルに置かれた白い巨塔は見る者すべての視線、興味関心意識、そして食欲をそそる。
 純白のクリームでコーティングされた壁面と真ん丸の屋根、その橋には雫型のホイップクリームが点在し、同じような形と大きさをした真ん丸の苺も同じ数だけ飾られていた。低い円柱の塔は同じく清潔感のある白の陶器に鎮座し、否が応でもその存在感をテーブルの中央で発揮していた。まるで”私がこの茶会の主役なのよ”とでも声高に宣うように。
 その周囲にはティーポットと小ぶりなカップ、銀色のフォークにケーキナイフ、ナプキンが行儀よく順序だって並んでいる。なぜならこれらの設営から食器選びまで、全てルルーシュの手で行ったからだ。ケーキだって当然の如くお手製で、ここに招かれる者の重要性を物語っている。
 しかしルルーシュはそのことをおくびにも出さない。前述したとおり、ルルーシュは些か普通より体裁を気にする質である。だから年頃の、高校生ともあろう一人前の男が気の知れた男友達のために茶会を開き、それらを全て自前でセッティングしたなんて、気恥ずかしくて言えやしないのだ。
「いいのか、こんなにも」
「ああ。好きなだけ食えばいい」
 ルルーシュの向かいに座ったスザクは俄に目を輝かせ、白い巨塔――ホールケーキに興味津々といった様子だ。控えめで謙虚な姿勢を装いつつ、その本音はどこか子供らしく浅はかで無邪気なのだろう。ルルーシュはそう確信して、予め温めておいたポットの紅茶をカップに注ぎ、スザクの前へ置いてやった。

 ルルーシュがスザクを自宅に呼び、茶やケーキを振る舞うのはなにもこれが初めてではない。これまでにも幾度かあったし、その度に招く理由はこれといって大したことでもない。美味しい茶葉がうちにあるんだとか、久しぶりにうちに来ないかとか、親しい間柄だからこそ通用する誘い文句ばかりだ。スザクにもルルーシュの誘いを断る理由はこれといってないようで、いつも二つ返事で了承する。だからこの茶会は定期的に開催され続けていた。
「でもなんとか、期末の予算会議の日に間に合って良かったよね」
「ああ。これで俺の三徹も報われた」
「あはは、本当に。僕もルルーシュを労ってあげないとな」
 ケーキナイフで切り分けたスポンジを器用に皿へ乗せ、スザクが顔を上げて笑った。少し大きめに切り分けたらしいショートケーキには苺がいくつか乗っていて、スポンジの間に挟まったクリームと苺も顔を覗かせていた。
 それにフォークを差し込み、やはり一口大にしては些か大きく見える欠片を、スザクは口内へ迎えた。
 バターと小麦粉だけでなく今回はスポンジ生地にココアを混ぜていたから、その断面はチョコレートのように茶色い。それを目で見て、舌で味わって、スザクはふんわりと頬を綻ばせた。同年代にしては少し幼くも見える大きな翡翠の瞳を緩めるさまを、ルルーシュは紅茶を啜りながら盗み見た。
「もう充分受け取ってる」
「……何が?」
「何でも」
 スザクが先ほど発した”労い”という言葉に対しての発言のつもりだったが、どうにも彼は鈍いらしい。二口目のケーキをフォークに乗せた男は、口を半開きにしながらきょとんと首を傾げるのみだった。

 自らの取皿に切り分けたショートケーキはみるみるうちにスザクの口に運ばれ、消えていこうとしていた。菓子を作る労力、その作業量や手間暇、材料の調達費などを考えると、傍から見れば作り手であるルルーシュの割に合わないだろう。これはどんな料理であれ作る側と食す側の宿命であろうが、作る手間の割に食す行為はほんの一瞬のうちで終わってしまう。しかしそのような理不尽とも言える性質を加味しようと、スザクの食いっぷりは”もっと味わって食え”と文句をつけられそうな域だった。
 しかしそれでもルルーシュはめげることも飽きることもせず、また近いうちにスザクへ手間暇かけたケーキを振る舞うのだろう。料理の下拵えや準備に面倒臭さを覚えることは多少あれど、料理という作業自体を苦痛に感じたことはないからだ。むしろ時間をかけ、手間をかけ、多少の金をかけ、丁寧に扱えば扱うほど完成度の高いものが出来上がる。完璧主義であったルルーシュはそんな質面倒くさい行程でさえ好きだと思えた。
 そうして、そこまで手間を惜しまず大切に作った菓子や料理を、それ以上に大切な家族や友人に振る舞うことが何よりもルルーシュにとって幸福だった。どれだけ時間とよりをかけても食べられるのは一瞬だが、食べてもらえる人が居るから料理は成立するのだ。作った料理は食べられることによって初めて、ルルーシュがそこにかけた時間と手間に意義が発生する。だからルルーシュは時間をかけて上手くできたものほど、大切に想う人に振る舞うことが好きだった。

 ルルーシュの目の前に置かれた取皿には依然としてクリームのひとつもスポンジの欠片もなく、席についてからそのままであった。対するスザクはカップに注がれた紅茶には一切口をつけることなく、彼の意識と興味と食欲は目の前の甘味に向けられ続けていた。フォークに乗せられた茶色のスポンジはふんわりと空気を含み、ルルーシュが思い描いていた完璧な完成度だ。
「すごく美味しいよ。ずっと食べてたいくらい」
 だからだろうか。ルルーシュがふとスザクの顔に目を向けると、そこには少々間抜けな光景があった。
「……子供かお前は」
「え?」
 ルルーシュは堪え切れない笑いを口角に浮かばせながら、一枚のハンカチを差し出した。淡いパープル色の布は偶然にもルルーシュの虹彩と同じ色彩だ。
「夢中になりすぎなんだ、ほら。……口についてる」
「……え、あっ」
 出来るだけ嫌味っぽくならないよう優しく微笑んでみせようとしたが、それもスザクの間抜けな声で失敗に終わった。くつくつと喉から漏れる笑い声は誤魔化しようもなく、釣られて震える指先はハンカチを持ったままだった。
 スザクはそれを咄嗟に受け取ったが、さすがに人様のハンカチで口を拭うことは躊躇われたらしい。傍にあった布ナプキンを手に取り直すと、ごしごしと乱雑に口元を拭った。いつになく粗雑な仕草は照れ隠しに他ならないから、彼の動揺しきった心象が手に取るようにルルーシュへも伝わるのだ。
「……スザク?」
 ルルーシュは数度瞬きを繰り返し、不思議そうに声をかけた。結局使われなかった真新しいハンカチを、スザクは手にしながらじっと固まっていたからだ。
 否、固まっていたというよりそれを凝視していた、と表現するほうが正しいだろうか。伏し目がちの瞳はルルーシュと視線が交わらず、表情も読み取り辛い。髪の毛の合間から見える頬はほんの僅かに、普段に比べて血色が良いように見えなくもなかった。
「どうかしたか」
「いや、なんでもない、ありがとう」
 ルルーシュの声によって我を取り戻したかのように、直後、スザクは努めて平常通りの声音と表情を取り繕った。その他大勢のクラスメイトによく向けられ、生徒会メンバー、とくにルルーシュがよく見かけるにこやかで人好きのする顔だった。いわゆる”作り笑い”である。
「もしかして見惚れてたか」
 ルルーシュが毒を吐くように頬杖をつきながら、そう言ってやったのだ。現実にありもしない冗談、ジョークの類である。つもりだった。

「……」
「……」
 否定もしなければ肯定もない、スザクはただ押し黙って頬をほんのり上気させていた。夕焼けに照らされて顔色が赤くなったように見えた、まるで先日の放課後みたいに。
「いや、違うんだ、これは」
 二人の空間を僅かに支配した沈黙に、先に耐えかねたのはなんとスザクであった。上気させた頬はそのまま、まごまごと唇を動かす彼はどうにも言うことは纏まっていない。頭が考えるより先に体が動いたのだろう。
「ルルーシュって優しいし、気も回るし、自然とかっこいいこともできるなあって思ってて、」
「はあ」
「着替えのときも、君は綺麗だけど男らしいっていうか、今だってそつなくかっこいいことできてて、」
「えっと……」
「これはたとえばの話なんだけど、ルルーシュと付き合える女の子ってとっても幸せで、めいっぱい優しくしてもらえるんだろうなって」
「……」
「想像したらすごくどきどきして、ちょっと羨ましくもなって……、えっと、僕何言ってるんだろう、あれ?」
 赤みの引かない頬のまま、そこまで言うとひとしきりスザクは言いたいことを喋り終えたらしい。
 スザクはぎこちない様子で手元にあったティーカップを手にすると、繊細なカップをビールジョッキの如く盛大に煽って中身を飲み干したのだ。紅茶はポットから注がれて以降手付かずのままで、ミルクも砂糖も入れられていない。渋いはずのストレートティーを苦ともせず、ぷは、と一気飲みをしてみせた男は、未だ朱の滲んだ頬を晒しけろりとしていた。


「ルルーシュ、なんで顔赤いの」
 最後の一口が乗ったフォークを口に運んだスザクは、小さな声であまい、と呟いた。
 人の気も知らない子供のような男と先刻の発言に、ルルーシュは思いつく言葉のどれもが不適切のように思えた。だから適当な相槌を打った。
「……なんでだろうな」
 眉間に皺を寄せて苦々しく声を漏らしたルルーシュであったが、口に寄せた飲みかけの紅茶の、あまりの甘さに始終噎せ返っていた。