優しい手のひらの正体は、
いつの間にか、彼の姿をよく目で追うようになっていた。それがいつから自分の癖になったのかは思い出せない。教室を出て行くとき、友達と談笑しながら登校して来るとき、体調が悪いと嘘をついて堂々とサボりをするとき。よくよく考えればそういえばあの男、教室の出入りはなんだか、人より多いような。
このへんでは珍しい黒い詰襟の制服は、彼によく似合っている。襟足の長い黒髪は白すぎる肌によく映えて、男にしては何とも形容しがたい色気を放っている。そして極めつけに、長い睫毛に縁取られた紫水晶の瞳の美しさだ。誰もが一目見て彼の容姿にどきりとさせられる。美しさと危うさが共存した彼の妖しい雰囲気には、学園の女子たちだって黙っちゃいない。その上頭はよく切れて口は達者、社交辞令もお世辞も営業だってこなしてみせるその器用さに、誰もが彼に騙され、惑わされ、虜になる。全くもって罪深く、危険な男だ。みなは口を揃えて彼をそう評する。
自分も言われる通りだと思う。しかし彼の見た目に気を持っていかれることはない。もうとっくに見慣れた、ある意味耐性がついている、というのも大いにある。
しかしそれ以上に自分が彼に物申したいのは、その素行の不真面目さだ。本当は頭がいいくせに、彼は成績は真ん中あたりを敢えてキープしようとする。否、ペーパーテストで稼いだ点数分を授業の出席日数や提出物滞納などの罪状により、悪い意味で相殺している。話によれば授業を抜け出してはチェスの代理打ちを請け負うという、全くもって普通じゃないアルバイトをしているという。
自分は彼と七年来の幼馴染だ。幼馴染といっても小中学校ずっと一緒、家も近かった、なんてエピソードはない。むしろ再会したつい最近までは互いの安否さえ知りようがなかった。生きているのか死んでいるのかさえ分からなかった知己を幼馴染、と呼ぶのは的外れかもしれないが、確かに彼と自分は幼い頃、大層仲が良かったように思う。
日本がブリタニアと戦争を始める前、正確に言えばブリタニアが日本に宣戦布告し侵攻してきた年の手前、自分は彼と初めて出会った。彼も自分も当時は十歳やそこらだった。彼は背中に妹一人をおぶって、汚い服とぼさぼさの頭のまま、悲しそうな顔を浮かべて、うちに来た。彼はブリタニアの捨てられた皇子とかで、人質として連れ来られたという。つまり戦争の抑止力、政治の便利な道具として使われたのだ。
実の親に捨てられ、政治利用され、ほとほと不憫だ。孤軍無援の中、妹を守りながら祖国を脱し、当時ブリタニア人への差別意識の強かった日本に連れて来られた彼は、どれだけ心を傷つけていただろう。今こそ想像するだけで胸が苦しくもなるが、あの頃の自分は馬鹿だった。こんな弱々しいブリキ野郎、誰が面倒見てやれるか、と大見得切って突っぱねたのだ。その後も幼い彼と自分は幾度となく衝突を繰り返しつつも、やはり子供だからか精神構造はどこまでも単純な作りをしていたらしい。
何だかんだあってやがて彼とは打ち解けて、彼の妹と三人、自分たちは仲良くなれた。
あの頃はいつ開戦してもおかしくないほど両国間は常に緊張状態にあって、国内でも迎撃体制と避難訓練の準備だけは毎日のように行われていた。小さい子供は親元を離れて田舎に集団疎開し、働ける年齢の青少年たちは出兵あるいは工場で働かされるのだ。まだ戦争が始まったわけじゃないのに、始まると決まったわけじゃないのに、国内の世論は開戦派が圧倒的な割合を占めていた。
父親は当時総理大臣を務めていて、戦争に関する権限や責任を一手に引き受けていた。つまり男が開戦だと言えば戦争は始まるし、降参だと言えば戦争は終わる。
当時の自分はまだ幼くて世界を知らなくて、視野も狭くて情緒も育ちきっていない、ただの無力な子供だった。だから大人たちがどうしてそこまでして戦争を進めたがるのか、理解できなかった。高校生になった今でも分からないことばかりだが、ひとつなら言えることがある。
いつだって戦争が始まるのは権力者一人の発言が全てではないのだ。そこに行き着くまで、多くの人間たちの思惑や駆け引き、権力の争いがあり、またその理由も人の数だけ存在する。誰か一人のせいで始まるんじゃない。こうなるまで見過ごしてしまった、みんなのせいだ。止められなかったのも、手を打てなかったのも、間に合わなかったのも、みんなのせいなのだ。
自分は父親の影に隠れて、大人の世界の一部を垣間見た。そして少年は悟った。このままだと多くの、日本だけでなく世界中の人々が悲しむ。戦争はこの先も終わらない。
だから幼い少年は、自分の父親を強く恨んだ。そして自分の無力さを呪い、嘆いた。父には戦争を止めることさえできる権力があるのに、どうしてその力を使わないのだ、と。あるいは戦争を推し進める父親、つまりは日本の代表とも言えるこの男さえ居なくなれば、戦争は収まるのではないか、と。
「枢木、次移動だって」
「え、ああ」
クラスメイトに呼び止められて、慌ててスザクは席を立つ。休み時間は残り五分を切ろうとしているところで、早歩きでないと到底間に合わない。
「おいおい、風紀委員が廊下を爆走?」
「今日だけは見逃してくれないかな」
可笑しそうにけらけらと笑い声を上げながら、休み時間が終わる間際の、誰もいない廊下を全力疾走した。
廊下を走ってはいけない、なんて子供じみた標語が頭に過ぎったのはいつぶりだろう。
小学生の頃ならよく校内を使って鬼ごっこや狭い教室内での追いかけっこに熱を上げたりしていたが、さすがにこの年齢でそんな子供じみたことはしなくなった。追いかけっこも隠れんぼもプロレスごっこも、野球やサッカーだって、放課後に空き地を使って大人数で興じたりしない。それは自分だけの変化じゃない。周囲の人々もまた、同じように変わっていった。
遊びも話題の中心も趣味も流行も、人の流れや心、考え方だって、時が流れるのと同じだ。変わらずそこに在り続ける事象なんてこの世にない。世界は常に動き続けるし、自分自身も世界に合わせて変わることを、世界から強いられるのだ。
結論から先に言おう。あの幼かった少年は戦争の原因であろう諸悪の根源、実の父をこの世から自らの手で葬った。そして少年の思惑どおり、日本とブリタニアの戦争は終結した。
ここまで書けば勇気ある少年が一国を救ったかのような仰々しさだが、本当の地獄はここから始まる。それは少年も想像しなかった、思わぬ形で訪れたのだ。
戦争推進派であった当時の総理大臣、枢木ゲンブの急逝により、他の発言力の強かった穏健派が名乗りを上げ、日本はブリタニアの提示した無条件降伏を飲む形で降参した。しかし問題はこの降伏内容だ。
ブリタニアに屈した日本はまず、ブリタニアの属国、植民地として国土は勿論、国名と国民の人権を奪われる。それが現代でもこの国がエリア11と呼ばれ、固有人種である元日本人がイレブンと蔑称される由縁だ。イレブンは何から何までブリタニア人に劣っていると教育、洗脳を施された。それは居住区域から社会保障、医療、公共施設の利用制限など、あらゆるところで悪影響を及ぼし、生活の質は大きく下がった。
イレブンはブリタニア人に比べて卑劣で下品で劣った人種である。国民として、種として、そして人間としても尊厳を大いに踏みにじられてきた。同じ日本人であるスザクもそれは勿論同じ立場だ。日本人であるからという理由だけで、何度も謗られ汚い言葉を浴びせられ、屈辱を味わってきた。
しかしそれを、果たして自分が嘆いてよい立場なのだろうか。むしろ自分の軽はずみな行動のせいで、日本中の人々を苦しませている。
自分の罪はそれだけでない。それがどんな人で、どんな生き様で、どれだけ価値のない人間だって、命を奪っていい理由にはならない。幼い頃の少年は実の父を、愚かな人間だと恨んだ。今だってそれを否定することはできない。しかしあくまでそれは主観に過ぎないからだ。あの男がどれだけ愚かしい人間であろうと、他に手はあったはずなのだ。
ねえねえ、と不意に後方から肩を叩かれる。オレンジの長い髪を揺らして声を掛けてきたのはシャーリーだ。
「ケータイ鳴ってるよ?」
「……あ。本当だ」
シャーリーが視線と指先で示す先にはスラックスのポケット、もといその中にあるケータイがあった。チカチカとヘッドライトを点滅させ、わずかにポケットの中で振動している。眠気を大いに誘う授業だったせいで、すっかり着信に気が付かなかった。
教師に一言断りを入れて、席を立つ。そうして廊下に出てから受話器ボタンをやっと押して、そっと小声で会話をする。
「すみません、セシルさん」
「授業中なのにごめんなさい。……急な出動要請が入ってしまって、」
「はい、今すぐ向かいます」
どうせそんなことだろうとは思っていた。だから特段、面倒だなとか嫌だなとか、そう思う心もなかった。
素っ気なくそれだけ答えると通話を切って、元いた教室に戻る。教室に戻ったって、もう自分はこの授業を聞くことはできないのだけれど。
それは授業中だったり休み時間の談笑中だったり、あるいは昼休憩の昼食の最中だったり、タイミングはいつだってバラバラで、一方的で、たいてい間が悪い。
急な出動要請とやらは、勿論何もこれが初めてじゃない。だからいつもどおりの手順で早退手続きをして、教科担当の教師に報告して、頭を下げて教室をあとにする。もう何度目になるか分からない。しかも最近はその頻度が大いに増えた。
出て行く直前、教室を見回すようにして彼の姿を見遣る。男は頬杖をついて背筋を伸ばしながら教科書を読んでいるように見えるが、あれはたぶん居眠りだ。自分が軍に呼ばれる頻度が増えるのと比例して、彼が居眠りすることも増えたように思う。きちんと統計を取っているわけじゃない、体感的なものだけど。
身を焼き尽くすような、あるいは押し潰されるような罪悪感と自己嫌悪に見舞われたあの日の少年は、ある決意をした。それは誰がどう見たって茨の、修羅の道であることは明確だった。
日本がブリタニアの植民地として正式に決まったとき、同時にとある制度が施行された。それは敗戦国民の日本人の心情やプライド、尊厳を踏み躙るものだとして国内では苛烈に批判、迎合されることはなかった。
名誉ブリタニア人制度という仕組みは日本人国籍を捨てブリタニア人国籍になりたい日本人を後押しする政策という名目で発布された。イレブンのままこの国で生きていくには何かと制約が多かったが、名誉ブリタニア人になれば多少その制約も緩む。結婚や出世、個人財産、社会保障、医療保険、どれも生きていくには欠かせないものに影響する。そして自分は迷わずこの制度を受けることに決めた。
安定した暮らしを欲していたわけでも、被差別階級からの脱却を渇望していたわけでもない。自分はブリタニア人としてブリタニアに仕える、ブリタニア軍人になることを決心したからだ。イレブンが帝国軍人になるにはまず大前提として国籍を捨てねばならない。帝国に忠誠を誓う者として、それは当たり前のことであるかのように言われた。
パイロットスーツに着替えてランスロットの搭乗口に登ると、管制室に居たセシルから何度も申し訳なさそうに謝られる。せっかく友達もできて、あなたの順風満帆な学園生活を邪魔するようなことをして、とても心苦しい。彼女はいつもそう言って自分を気遣ってくれる。
「これが僕の仕事なので、大丈夫ですよ」
インカム式の無線に向かって、いつもと同じ言葉を彼女に投げかける。それは嘘偽りない、本心からの言葉だ。言葉に心が籠らないのはきっと、出動手前で殺気立っていたからに違いのだ。
名誉ブリタニア軍人はまず、そうそう出世は望めない。入隊初日の日に上司となる指揮官に言われた台詞がこれだった。所詮は”名誉”であるお前たちの体には、野蛮で卑劣なイレブンの血が流れている。純血のブリタニア人のおこぼれが貰えるだけでも有難く思え。易々とそう言い放つ彼らは帝国内で最も発言力を強めていた純血派と呼ばれる派閥の者たちで、彼らの発言を諫められる人間は居なかった。
誰かが誰より優れているとか劣っているとか、だからといってそれが生きる権利、個人の思想や信条を侵害していい理由にはならない。そもそも人種で優劣をつけること自体、おかしいのだ。この国において優れているとされるブリタニア人だった、幼い日に会った少年もまた、自身を産んだ祖国をひどく憎んでいた。
名誉軍人の下級兵士としてこき使われ、働いていた自分はある日、稀有な出来事に遭遇する。消息すら途絶えていた知古との再会、任務であった毒ガスの発見とその爆発(正確に言えば爆発はしなかったが)、そして次世代ナイトメアフレーム・ランスロットのデバイサーとして選任されたこと。まるで盆と正月が一緒に来たような、天と地がひっくり返るような慌ただしさで、その日自分の運命は大きく変わった。
作戦任務を終えて再び管制室のある特派の研究施設に戻ってきたのは、とっくに夜も更けた時刻だった。ふう、と思わず息をついてコックピットを出ると、タオルと水の入ったペットボトルを抱えたセシルがお疲れ様、と労ってくれた。
彼女はいつも優しく接してくれる。もう一人の上司であるロイドがやや破天荒な人だから余計、二人が並ぶとそう見えるのかもしれない。しかしそれを加味したとしても余りあるほど、セシルは理想の上司然としていた。そうして同時に彼女は自分のことを、どこか哀れむような、同情するような目で見るのだ。
「今回も”外れ”でした」
「……最近多いわね。ゼロの模倣活動」
「はい。許し難いことです、とても」
ゼロも、それを真似る主義者らも。
その男の存在は一方で悪逆卑劣、帝国に仇なす敵であるとされ、他方では勇気ある英雄であり、日本国の最後の希望と持て囃された。男は強靭な組織力と綿密に練られた作戦、戦略で次々と立ちはだかる帝国軍を跳ね除け、ついにはクロヴィス殿下の首をも狩り、戦女神と渾名されるコーネリア皇女殿下に膝をつかせてみせた。それ以外の場所では警察でも目が行き届かない、密輸や違法取引、賄賂や汚職、薬物売買の現場を摘発などをしている。男は自らをゼロと名乗るとともに、テロ組織・黒の組織を結成し打倒ブリタニアを宣言する。そして日本の民衆はゼロ率いる組織を”正義の味方”と評した。
日本人の尊厳と日本国の存在証明をブリタニア帝国から奪い返すことを大義名分に、日本の各地でテロ活動を行うことのどこが、正義の味方なのだ。それ以外の摘発行為だって警察のやるべき仕事だし、そういったことがしたいならゼロは警察官にでもなればいいのだ。
自分自身もこれまでに数える程度だが、ゼロと相対したことがある。彼は一人ではろくに戦闘もできない、逃げてばかりの卑怯者だ。信用してくれる部下を盾にして、己は安全なところから命令を下すだけ。まるで己が権力者か王様にでもなった気分でいるのだろう。ゼロにとっては己が従える組織や信頼してくれる部下たちみな、盤上の駒でしかない。
口だけは大きいくせ、いざ戦闘になればへっぴり腰になる、そんな幼稚なところが個人的に腹が立って溜まらないのだ。
アッシュフォードの寮棟に戻る道すがら、スザクは一人の人影を見つけた。時間は辛うじて日付を超えていないという真夜中に、どうして学園の敷地内に人が居るのだろう。警備員か学園の職員だろうか。スザクは目を凝らしながら、ゆっくりその人影に近寄るようにして歩いた。
ぽつりぽつりと設置された街頭に照らされた後頭部と背中は、明らかに学園の生徒のもののように思える。アッシュフォード指定の、高等部の男子制服を身に着けた生徒は、こんな真夜中にわざわざ外で、何をするわけでもなく直立不動のまま突っ立っている。
(電話?)
生徒は耳に手を宛てがっていた。そこには何かの機械と、微かな話し声も次第に聞こえてくる。そこまでして聞かれたくない内容なのか、あるいは待ち合わせでもしているのだろうか。こんな真夜中に?
「……ああ、分かった。切るぞ」
電話を切る直前の短い、素っ気ない言葉は恐らく、電話相手とそこまで親密でないことを表している。ならなおさら、どうしてこの時間にわざわざ外で、電話する必要があるのだろう。
「ルルーシュ?」
「……ああ、スザクか」
ゆったりと振り返る男は、突然背後から話しかけたにも関わらずとくに驚いたふうもない。足音や気配は消したつもりだったが、地面に伸びる影や微かな息遣いで分かってしまうのだろうか。
「こんな時間に、どうして電話?」
「こんな時間って、それはお前が言えたことじゃないだろう。技術部とやらは今まで残業させられてたのか」
彼はむっとした表情を浮かべると、矢継ぎ早にそう尋ねた。心配されているのだろうか。スザクは一瞬そう考えたが、まずは尋ねられたことに答えねばならない。
「最近はテロ活動がひっきりなしに起こるから、猫の手も借りたいくらい」
苦笑を浮かべると、彼は少し目を伏せてそうか、とだけ呟いた。
スザクは嘘をついている。本当はナイトメアフレームのデバイサーで実戦経験も積んでいる、正真正銘の戦闘要員だ。しかも一番命のやり取りを強いられる、単独前線配備である。
周囲の友人らには直接危険は及ばない技術部に配備されていると説明していた。彼らは優しすぎる人たちだから余計な心配をかけさせたくないし、反対でもされたらどうしようもないからだ。
「夕飯は?」
「……カロリーバーと、水は摂ったよ」
「おいおい……」
それが相手のためであっても、やはり嘘をつくというのは心苦しい。大切な相手だからこの仕事は知られたくないし、だからこそ善良な彼を騙くらかすこの行為はとてつもなく罪悪感が募る。先ほどまでスザクがルルーシュに抱いていた微かな疑念も、上書きされるくらいに。
「ならうちで食って行け」
「それは駄目だ。こんな夜遅い時間に、」
「俺が適当に用意する。お前顔色良くないし、本当に体を壊すぞ。それにその様子じゃ、仕事に穴は空けられないんだろう」
わざとスザクの言葉に被せるように、ルルーシュは少し怒った顔をして言う。体の心配をされた上に仕事の話を持ち出され、しかもその指摘が的確だとしたら、反論する言葉は思いつかない。断る理由も丸め込まされてしまえばあとは、彼の背中について行く他ないのだ。
ルルーシュとは旧知の仲だ。いわゆる幼馴染である。幼馴染とはいえずっと一緒に居たわけでもなく、十歳ばかりの頃戦争の混乱で離れ離れになってから再会したのは、ほんのつい最近のことだ。時間にしてみれば七年以来である。まだ生まれて二十にも満たない二人にとっては、膨大過ぎる年月だった。
戦後、激動の中で彼らの運命や境遇は大きく変わった。スザクは名誉ブリタニア人となりブリタニアに忠誠を誓う兵士になるし、ルルーシュは妹のナナリーと共にアッシュフォード家に匿われる生活を送っていた。ルルーシュはブリタニア姓を名乗ることもできず、本国の監視に身を潜ませ、寄る辺もなく、肩身の狭い身の上を強いられている。
戦争が引き金になって過酷な宿命を背負わされたという意味で、二人はどこか似ている。傷ついているのはルルーシュやスザクだけでない。誰もがみな誰にも言えない、心に蟠りや思い出したくない過去を背負っている。
でもそんな中で唯一、スザクはルルーシュの過去、正体を知る友人であり、ルルーシュもまたスザクの幼い頃をよく知る人物だ。だから二人は誰にもできない話を、二人きりのときだけはできる。なかなか心のうちを明かさない男が、スザクには気を許してくれる。唯一無二の関係と距離感が何よりも心地よく、尊いものだと思えた。
底の深い小さめの一人用鍋には白い湯気が立ち、ほのかに香るコンソメの優しい匂いが食欲をそそる。真横に座る彼に目配せをして、本当にいいの? と再三尋ねると、せっかく作ったんだから無駄にするなよ、と釘を刺されてしまう。恐る恐る銀色のスプーンを手に取り、透明のスープとそこに浮かぶ人参を同時に掬って口に運ぶ。彼は頬杖をつきながら口に合うかと、視線で問いかけてくる。
「美味しいよ」
冷蔵庫にあった野菜を適当に切って鍋に放って、水を注いで少し煮込む。同時にコンソメも加えて、野菜が柔らかくなったら完成だ。十五分とかからなかった煮込み料理はポトフといって、遅い時間の夜食にぴったりだと言う。
「仕事がある日はいつも不摂生してるのか」
「……冷蔵庫に何もないときは、まあ」
「今はマシだけど、さっきのお前はひどい顔をしていた。本当に大丈夫なのか」
一体どんな顔をしていたんだろう。そう尋ねる勇気はない。つい先刻までスザクは、戦闘の最前線に立ち、殺すか殺されるかという命のやり取りをしていた。ルルーシュが”ひどい顔”というのは殺気立った、殺人鬼じみたスザクの表情を言うのだろう。あまり人には、とくに彼に見せたくない顔だ。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れて、眠かっただけ」
彼の洞察力や観察力は人より鋭い。だからスザクにとって都合の悪いことを的確に、正確に突く。嘘をつき続けるのも心苦しく、だからスザクは頬を掻いて気まずい面持ちを誤魔化した。
持ち上げた腕の、手首の袖部分が捲れる。そのとき、手首に巻かれていた包帯のようなものがちらりと、彼の目に見えてしまった。
「……危ない仕事をしているんじゃないだろうな」
小遣い稼ぎに賭けチェスの代打ちに興じる君に、言われたくないよ。そう笑い飛ばそうとしたが、目の前にある苦しそうな表情を見ると思わず出かかった言葉は喉に引っ込んでしまう。
「してないよ。してない。怖い顔しないで」
ルルーシュは本気で自分の身を案じている。まるで自分のことのように心配してくれている。
だから尚更、スザクは本当のことを言えやしなかった。
スザクにとってルルーシュとの関係は、腹の中を何だって言い合える、最も信頼する友人である。スザクもルルーシュも激動の戦中戦後を生き抜き、複雑な出自も相まって、到底人には言えない悩みや言いたくない過去もある。それは互いに暗黙の了解みたいなもので守られていて、言いたくなければ無理に言わなくてもいいし詮索もしなかった。なぜならルルーシュはスザクに嘘をつかないし、スザクもまたルルーシュに嘘をつくはずがなかった。
でも今は違う。自分は嘘つきだ。透き通る紫に見つめられながらひとつ、またひとつと嘘を積み重ねるたびに、彼と築いてきた大切なものにヒビが入ってぼろぼろと崩れ落ちてゆくような、そんな感じがした。七年の月日は自分たちの、揺るぎないと思っていた強固な関係でさえ覆そうとする。
それよりさ、とスザクは苦し紛れに話題を変えようとした。
「ルルーシュはさっき、どうして外に居たの。電話、してたよね」
何となしに投げた質問に、ルルーシュはやや間を開けてからああ、とかうん、とか、答えにならない答えを返した。
「まあ、少し」
複雑そうに目を伏せて、ルルーシュが歯切れ悪くそう言うのだ。世辞や建前が上手いあの男が、取り繕いようもないという面持ちで、分かりやすく隠し事をする。
スザクの嘘が増えるたび、比例するようにルルーシュの隠し事もまた増えていった。何をしていたの、と尋ねると今のように素っ気なく流されて教えてくれないのだ。別にルルーシュが誰といつ何を話そうと関係ないし、スザクがルルーシュの交友関係にまで干渉する権利は勿論ない。
しかし日毎にルルーシュは学校を欠席あるいは遅刻、早退する頻度が増えてゆくし、生徒会にもなかなか来ない日が続く。スザクが言えたことでないが、せっかく同じ学校に通えているのだからもっと会いたい。スザクがアッシュフォードに編入する以前からルルーシュの悪友らしいリヴァルも、最近の彼の付き合い悪さにはほとほと呆れている。何か新しい”遊び”でも覚えたのだろうかと誰かは呟くが、それが一体何なのかはスザクさえ知らないし、結局憶測の域を出ない。
小さな鍋の中身を全て平らげた頃には食欲はすっかり満たされ、代わりに睡眠欲が襲ってくる。神経の張り詰める戦場から命からがら今日も生き延び、今はこうして日常生活に身を置いている。その安心感と脱力で、今度はうまく頭も体も働かなくなってくる。
「部屋の前まで送るから、ちゃんと歩けよ」
すっかり垂れた目蓋を見遣った男は、頬杖をつきながら可笑しそうに語りかける。
小さい頃はむしろ自分が彼の腕を引いて歩いていたのに、今は彼がその役を取って代わろうとする。そりゃあ高校生にもなって手を握られないと歩けない奴なんて居ないけど、でも、その成長が立派だとも、惜しいとも思う。
「変わっちゃったな。僕も、君も」
そう呟いて丸まるスザクの背を、ルルーシュは優しく叩いた。
「どうした、らしくない。仕事で嫌なことでもあったか」
「……やなことばっかりさ」
戦闘員として働くということは、人をより多く殺した奴が偉いという世界に身を投じるのだ。世の中の常識が非常識で、非常識が常識になる。信じられるのはいつだって自分の信念と勘くらいで、だからスザクはこの世界でもなお芯を貫き通したかった。
人を殺すのではなく、ひとつでも多くの命を救うために戦おうと思った。しかしロイドは以前、その矛盾はやがて君を殺すのだと諭した。当時は意味が分からなかったけど、最近になって何となく、その言葉の意図を肌で感じるようになっていた。ロイドの言うとおり、人を殺さねば人を救えないという矛盾と負の連鎖に、戦場でも身動きが取れなくなることがあった。自分の信念を曲げてまでどうして戦う必要があるのだと、操縦パネルから手を離したくなる。
「ルルーシュはさ、もう逃げ出したくて、やめてしまいたくて、でも前に進まなきゃいけないときってある?」
「あるさ。大いにある」
それがさも当然だというふうに、彼は大きく頷いた。やはり自分と彼はどこか似ている。
自分の大事な部分を切り売りしてまでそれは守るべき価値があるのか、たまに分からなくなること。自分の信念を曲げてまでやり遂げたとして、すべてが終わったあと、一体何が残るのかと思い悩むこと。ルルーシュにもあるのだろうか。
「でもすぐに終わる」
「終わるって何が?」
「争いはなくなる。こんな不平等も、お前が苦しむことも。世界は平和になるんだ」
「どうしてそう言えるんだ」
ルルーシュはなぜか晴れやかな笑顔で宣う。
「何でだろうな」
「引き寄せの法則とか?」
冗談ぽく言ってやると、くつくつとおかしそうに彼は笑った。だって、一体どうして彼はそこまで自信を持って豪語できるんだろう。スザクは目を瞬かせるが、ルルーシュは自信満々の笑みでこう答えるだけだ。
「平和になるよ」
クラブハウス横にあってルルーシュの住む屋敷を出ると、もうあたりは静けさに包まれていた。辛うじてぽつぽつと明かりの灯る電灯と、自分の少し前を歩く背中だけが真っ暗な視界の頼りだ。
「ほら、着いたぞ。……スザク?」
結局寮の部屋の前まで送ってもらってしまった。あとは鍵を開けて扉を引いて、また明日、と手を振るだけだ。
扉の前で微動だにしないスザクを訝しんだルルーシュは、思わず真横に立って影の差す面を覗き込む。その瞬間、気の抜けるような溜息と苦々しい笑い声を漏らした。
「おい、泣くなよ。スザク、泣くなって」
肩に手を回され、頭をくしゃくしゃ撫でられる。頬にぼたぼたと落ちる涙の跡を指で拭うようにされると、彼の指先は冷たくて、熱くなりすぎた目頭には心地よい温度だった。
仕方ないなあ、という調子で抱きすくめられると、余計に苦しくて辛くなる。もうこれ以上優しくされたくないのに、深層心理に押し込めたはずの本心が顔を覗かせて、もっと甘えてしまえ、と囁く。
スザクの出動頻度に合わせるようにして増えるルルーシュの欠席日数、不審な長電話。まるで人目に隠れるようにして姿を消し、追求されるとのらりくらりと巧みな話術で問答を躱す。なんでも話してくれたのに、最近では露骨に隠し事ばかり。
極めつけに先ほどの、”平和になるよ”という言葉。優しい表情は見方によったら意味深な微笑みにすら思える。一体彼は何を知って、そう断言できるのだ。
「そんなに仕事で嫌なことがあったのか。愚痴だったらいくらでも聞くよ」
背中を撫でる手のひらは冷たいのに、触れられた場所は温かくなるし優しい気持ちにもなれる。不思議だけど、それが当然のようにも感じる。
「ご、めん……。ごめん、ルルーシュ」
「いいよ別に。今夜くらい泣いとけ」
自分が謝っているのはそれじゃない。ルルーシュのことを疑ったこと、そして今も疑い続けていることを謝りたかったのだ。
もしかしてルルーシュがゼロ、あるいは限りなくゼロに近い存在なのではと、疑い始めていた。勿論、何かの間違いであってほしいと思っている。むしろその疑念を晴らすため、スザクはルルーシュがゼロではない証拠を探すため、ずっとマークしていた。アリバイでもなんでもいいからたったひとつ、ゼロには結びつかない決定的な証が欲しかった。
しかしスザクの祈りに似た願いは尽く裏切られ、テロ組織による襲撃が遭った今日も、ルルーシュはまた見知らぬ誰かと人目を盗んで電話をしていた。
ルルーシュの動向をチェックすればするほど疑いはより確証的なものになり、彼が犯人であるという説得力が増してゆく。これ以上彼を疑いたくないのに、疑わざるを得ないのだ。
背中を往復する優しい体温に勘違いさせられそうになる。こんなに自分を慮ってくれる男が卑劣な犯行をする指名手配犯であるはずがない。そう信じさせてほしい。
これは全て自分の勘違いである。そう思って見過ごすことはやろうと思えばできるし簡単だ。明日からまた元の友達どおりに戻って、何の疑念も裏心もなくルルーシュの親友になれる。
しかしスザクは最後の最後までそれはできなかった。この世の許されざる悪事から目を背けることより、唯一無二の友人を失うことをスザクは選んだ。それはスザクが生涯、どうしても曲げることのできぬであろう信念だったからだ。
「ずっと、こうしていたい」
「それは勘弁してくれ」
いつかルルーシュがゼロであるという決定的な証拠を、彼を追ううちにスザクは掴むことになるかもしれない。そのときが本当の意味での、ルルーシュとの決別の瞬間だ。
「じゃあ今だけ」
ゼロの正体がルルーシュだという決定打はまだない。だからせめて今だけは、彼の優しさに甘えても罪ではないだろうか。
「ふん。早く寝ろ」
「……わっ」
濡れた頬に何かが押し付けられて、それが唇だと分かった瞬間、ちゅ、とリップ音を立てて離れてゆく。
「ブリタニア式の挨拶だ」
「……き、急にされたら、驚くじゃないか」
七年前、幼い頃のルルーシュやナナリーにからかわれ、よくそんな接吻をされていたように思う。日本には挨拶代わりに頬に口付ける、という習慣はない。ブリタニア独自の文化だろう。
まだ皮膚に残る柔らかい肉の感触が生々しく、心臓はとくとくと音を立てて速度を速める。きっと顔は火が出るほど赤くなっているに違いないから、今が真夜中の真っ暗闇で良かったと心底思う。
「ほら、お前は?」
「う……」
スザクは言われるがままルルーシュの白い頬に唇を寄せて、小さく口付けを施した。恋人相手でもない友人にこういうことをするのは、非常に恥ずかしいし躊躇われる。他意はないと頭で分かっていても、だ。
こうあってはいけない。
軍人たるもの自分を厳しく律し、忠誠を誓うブリタニア帝国に仇なす存在を許してはならない。理性ではそう理解していたはずだが、情が正しい判断を鈍らせ、邪魔をする。言い換えれば自分と彼が一日でも長く”友達”で居られるよう、情が助太刀をしている。この心理は一体どちらに作用していると表現するのが正しいのか、スザク自身未だ分からずにいた。
完