支配の首輪

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支配の首輪
 柔らかいものがしきりに触れてって、離れてゆく。擽ったい接触は不思議と不快感はなく、むしろ心地よいくらいだ。触れられたあとの頬や額は生温い感触の何かを恋しく思うのか、ひんやりとした。
 その正体が知りたくて、生温い温度が恋しくて、思わず手を伸ばそうとした。が、それは叶わなかった。体が思うように動かせなかったからだ。
 指のひとつも動かせない。身じろぎもろくにできないどころか、目の前も、頭の中も真っ暗で、ぽっかり穴が空いたみたいに空洞だった。
 今が朝なのか昼なのか、夜なのかも分からない。何も見えないし聞こえない。体は鉛みたいに重くて、頭の中は何も入っていないみたいに空虚だ。重たい四肢を動かすのも、空っぽな頭を働かせるのも何だか億劫にすら思う。
 揺り籠のような優しく温かい場所で、ただこうして意識を彷徨わせながら眠っていたい。できるだけずっと、こうしていたい。
「スザク」
 冷たいものがぺたぺたと瞼に、頬に、唇に触れた。せっかく心地よい気分でいたのに、どうして邪魔をするんだろう。まだみていない夢の続きを追いかけたい。
「いい加減、起きろ」
 少し不機嫌な声が鼓膜を揺らす。何も感じない、感じられない空虚な心に微かな漣を立たせるように、その声は執拗に己を覚醒へと導こうとした。
 しかし梃子でも動かないだろう、泥のように重い下半身と力の入らない腕では、起き上がる気にもなれない。体がまだ充分な休息を望んでいる証拠だ。自分はまだ寝ていたいんだ。生ぬるい毛布と側頭部の形に沈んだ枕だって、まだ己を眠りから開放させてくれやしない。
「今日の会議に同行させるのはお前でなくジェレミアに、急遽変更しておいたから」

「ちょっと待って、どういうこと」
「……なんだ、やっぱり起きてたんじゃないか」
 ベッドサイドに凭れるようにして立っていたルルーシュは苦笑しながら、寝起きの顔を見遣った。寝起き、とは言ってもルルーシュから執拗に呼び掛けられていたせいで半ば覚醒していたのは、彼の指摘どおり紛れもない事実である。
「変更って、どうして? 彼は今日、会計処理で内勤の予定じゃ」
「お前と交代だ」
「だから、なんで」
 なんでよりによって自分が内勤に従事せねばならないのだ、とスザクは憤った。

 そもそもスザクはルルーシュの騎士、つまり彼に立ちはだかる者には剣を振るい、またある時は盾となるための存在だ。
 この腐敗した国を己とともに変えていこうではないか。これはレジスタンスではなく革命であると説いたルルーシュは、己がための剣となり盾となれ、とスザクへ命じた。その任を引き受けた時から、スザクは名実ともにルルーシュの最側近、ナイトオブゼロの地位についた。
 元々スザク自身、正義感と責任感の強い性格だったせいもあるが、今は彼の騎士であることに高い誇りとプライドを持っている。当然生半可な覚悟で引き受けたわけでもないし、彼に命を捧げるつもりで騎士の仕事を全うしているのだ。
 たかが会議と侮ることなかれ。いつどこから不審者が入ってくるか分からないし、会議の参加者に襲われる可能性もある。あるいは窓の外から狙撃されるか、用意されている水に毒が混入しているかもしれない。国の代表が姿を現す以上、いつ如何なる時でも暗殺の危険は付き纏う。

「ジェレミアが信用できないのか」
「そういうことじゃない」
 スザクと同様、皇帝の騎士にしてブリタニア家へ対し厚い信仰心を抱く男がいる。ジェレミアはかつてルルーシュの母、マリアンヌに仕えていたこともあり、その実子である現皇帝を気に掛け、自ら騎士になりたいと嘆願した、忠誠心の塊のような人間である。
 彼の働きぶりは口先だけでなく実に優秀なもので、ナイトメアフレームの操縦技術から内政業務、諜報活動に加え、戦場での現場指揮など、その実力は多岐に及ぶ。人をまるで駒のように扱う皇帝でさえ、ジェレミアの働きには一目を置いているほどだ。
「それとも、そんなに内勤が気に入らなかったか」
「そ、それは否定できないけど」
 なんでも卒なくこなすジェレミアとはある意味正反対な性質のスザクは、基本的に前線に出て自ら指揮を執りつつ戦いに赴くか、皇帝のそばについて警護をするくらいだ。それしかできないというわけでなく、スザクの中で一番秀でているのが戦うこと、というだけだ。いわゆる適材適所である。
「そうじゃなくってさ。ああもう、君なら分かるだろう!」

 皇帝の護身警護を行うのは主にスザクひとりだ。一見、警護が手薄なようにも思えるが、これはルルーシュのとある思惑による作戦である。
 反乱地区の鎮圧や植民地平定の際、大きな戦いには必ずスザクを向かわせる。スザクは命知らずな戦い方を毎度するものだから、それなりの戦績、武功をあげてくる。戦場でつけられる仇名は白兜、白い死神、といった、スザクを恐れるものばかりだ。
 戦いのたびに枢木スザクの名が知れ渡り始めるのだが、そんな男がひとりで皇帝の側近を務めているとなると、話は瞬く間に尾ひれがつき、大袈裟になったりもする。戦場ではおっかないあの男が目を光らせているぞ、とひそひそ話も聞こえてくるのだ。
「なんで今更お役御免なのさ。僕はその理由が聞けなきゃ君の命令には従わない」
 敢えてこちらの守りを手薄に見せることで、むしろこれで事足りるのだという余裕さをアピールできるのだ。ルルーシュの思惑は功を奏し、今ではすっかり皇帝の番犬として、騎士は恐れられる存在にもなった。
「大袈裟な。今日一日だけの変更だ」
「日数の問題じゃない。はぐらかさないで、質問に答えて」
「黙れ、生意気」
 しかし、いくらそういったポーズ、パフォーマンスとはいえ、実際皇帝の盾となれるのはスザクひとりだけだ。
 そう考えれば多大なリスクも伴う。しかしそれはつまり、何があっても命に代えて護る、という騎士の誓いを受け取ったルルーシュがそれだけスザクを信頼している、という証でもある。

 ルルーシュは冷たく言い放ったあと、もう話は終いだと言わんばかりに背を向けた。途中まで着替えを済ませていたらしい彼は、ソファの肘掛けに放ってある上着に手を伸ばそうとしていた。
 話はまだ終わっていない。
 再度直談判を申し入れようと、体に掛けてある毛布を剥ぎ取ったときだ。スザクは思わず、寒っと声を出した。
「着替えは脱衣室に置いてるから、ついでにシャワーも浴びてきたらいい」
「え、ああ、うん……」
 スザクがようやくベッドから立ち上がろうとしたとき、真っ先に感じたのは下半身の震え上がるような寒さと、朝には似つかわしい、白と肌色のコントラストだった。

 上半身はボタンの閉じられていないシャツが辛うじて腕に通されているだけ、下半身に至っては下着も靴下も身に着けていない有様だった。どうりでやけに寒く感じたわけだが、呑気に納得するにはあまりにみっともない格好だった。
 彼の計らいで脱衣所には確かに、最低限の衣類とタオルが用意されていた。口から出る言葉は時折冷たいものもあるが、彼は基本的にどうしようもないほどお人好しなのだ。世話焼きや天邪鬼ともいうし、俗っぽい言い方をすればツンデレ、というやつだ。

 ルルーシュに言われたとおり、スザクはシャワーを浴びながら、浴室の壁にはめ込まれた鏡に目を遣った。曇った表面を手のひらで拭うと、いつもと変わらない自分の顔と見慣れた体が映されている。
(跡とか、ないしなあ)
 仕事上は皇帝とそれに仕える騎士という上下関係に身を置く一方、プライベートではれっきとした恋人同士という平等な関係であったりもする。スザクが下半身何も身に着けずベッドで寝ていた、というのはつまり、言うまでもなく、昨夜ルルーシュとそういうことをして、なし崩しのまま眠ってしまったせいだ。
(口も目元も赤くない、体もそんなに痛くない)
 じろじろと鏡を使って自らの体を見分したスザクは改めて、脳内に疑問符を浮かべた。
(僕の体を気遣ってるわけでもない、としたら?)
 初めての夜はそれこそ体が真っ二つに裂けるような痛みを味わったが、数を重ねると嫌でも体は慣れるらしい。それは受ける側のスザクもだが、与える側のルルーシュの変化も顕著だ。腰を痛めないよう枕を挟んだり、シーツを汚さぬようタオルを敷いたり。慣れてからはあらゆる気の遣い方をするようになった。
(跡があればまずいけど、それもないしなあ)
 跡、いわゆるキスマークだとか歯型の類も見当たらない。
 一体どうして彼は今日だけとはいえ、自分を側に置きたくないのだろう。



「なんだその格好は。今日は内勤と言っただろうが」
「僕は納得できない」
 自身の体にぴったり合うよう作られたパイロットスーツと大きな外套を羽織り、スザクはルルーシュの前に顔を出した。執務室で会議資料に目を通していたルルーシュはスザクの姿を捉えた途端、苦々しい顔を浮かべた。
 この格好はいわゆる正装で、皇帝の隣に立つときは毎回この衣を身に纏う。打って変わって事務仕事に仰々しい衣服は必要ないし邪魔なだけだ。しかしそれどころか、これから全世界生中継でも行うのかというくらい、スザクの表情は殺気立っていた。
「昨晩も散々、ほら…。だからお前に無理をさせたくないという俺からの気遣いでだな」
「僕は平気だし、通常通りの予定で構わないけど」
「俺からの気遣いだ、有難く受け取っておけ」
「ありがた迷惑だよ」

 やや低次元化してきた口論に双方が嫌気を差し始めた頃、部屋の扉からノック音が響いた。
「ああジェレミア、待っていた」
「おはようございます陛下。おや、枢木卿も」
 恭しくお辞儀をして入室した彼は皇帝へ挨拶を述べたあと、スザクの姿を見て不思議そうな声を出した。皇帝の側近として人前に出るときの正装に、スザクが身を包んでいたからであろう。
 ジェレミアも今日は畏まった正装であるから、恐らく役割交代の通達が皇帝からあったのだ。
「ジェレミアさん、せっかく来て頂いたのにすみません。今日の予定は変更前のとおりに、たった今なったそうで」
「おいスザク、何勝手なことを」
「おや、そうなんです? 陛下はお怒りのようでいらっしゃるが」
「陛下の気まぐれと癇癪です。どうかお気になさらず」
「誰が癇癪だ」
「今日の議題はどうやら陛下の頭を悩ませるものらしいです、先程からああやって気難しい顔ばかりしているんです」
「成程」
 スザクはジェレミアの位置からルルーシュの姿を隠すように立ち回り、ルルーシュの言葉に被せるように話を進めた。
「枢木卿と陛下の仲がよろしいようなので、このジェレミア、通常の職務に戻らせて頂きます。それでは失礼致します」
「あっちょ、おい」
「すみませんジェレミアさん、有難う御座います」
 結局何をしに来たわけでもないのに、彼は始終穏やかそうな表情を浮かべ、背を向けていった。まるで皇帝と騎士の二人を仲睦まじそうに見ているようにも思えたが、思い過ごしかもしれない。どちらにせよ、ルルーシュの気まぐれに巻き込んでしまったのには変わりないから申し訳がない。

「おいC.C.、起きているんだろう! 出てこいC.C.!」
 ルルーシュは眉間に皺を寄せ、部屋の壁の向こう、執務室の隣にある女の部屋に向かって叫び始めた。
「起きているのは分かっている! さっさと出てこい!」
 モーニングコールにしてはやや不躾で、女性に対するものだと思うと無礼が過ぎる。隣の部屋でまだ夢心地であろう彼女らのことを思うと、同情せざるを得ない。
 そうした叫び声を壁に向かって浴びせること数回、地続きの隣から現れた彼女は大層不機嫌な表情を浮かべている。当然といえば当然だが、ルルーシュは間髪入れず言葉を続けた。
「この男、スザクを部屋からつまみ出してくれ」
「下らん、私は寝る」
 目を擦りながらルルーシュを睨んだC.C.は踵を返し、再び自室に戻ろうとする。しかしそうはさせるかと、彼も負けじと言葉を連ねる。
「ミックスチーズピザ、耳の部分がマッシュポテトのやつを三枚買ってやる」
「君ね……」
 いくら不死身の魔女とはいえ、その身も心もれっきとした女性だ。いくらなんでも物で釣るとはどうなんだと、彼の倫理観を疑わざるを得ない。
「ミックス、チーズ……」
 既に背を向けているがその歩みは完全に止まっている。さすがは彼女の操縦に長けている男の言葉だ。
「いや今は甘い物の気分だ。それにな、優雅な朝からその男と乱闘は嫌だ」
「なっ、貴様!」
「僕もC.C.と取っ組み合いなんて御免だよ」
 スザクのその発言を聞き入れたらしい彼女は以降無言で、静かに自室に戻った。



 すこぶる機嫌の悪い王も、職務となれば人が変わったように真剣な顔を見せる。それだけ彼がこの地位に責任感と誇り、プライドを持ち、真摯に向き合っているからだろう。公私混同など許されるはずがないのだ。
 それは騎士とて言えることは同じで、今朝の騒動はどこへやら、といった調子で淡々と会議資料を読み込んでいた。
 会議といっても皇帝が直接議論に加わることはなく、議員たちの話し合いや案を元にして吟味し、最終的な決定を下す。それが会議における皇帝の役割だ。議論の内容に対する質疑応答は行えるが、案を持ち寄るのは基本的に議員や専門家たちの役だ。
「削るとしたら、お前だったらどこを削る?」
「私だったら、議員数の全体的な削減もしくは給与の減額、あるいは会議時間の短縮などが妥当かと」
 騎士は皇帝の隣に控えるだけで、会議内容に関与することはない。せいぜいこうして、皇帝の小耳に助言程度が精一杯だ。
「あとは各員の交際費や雑費だな」
 顎に手を添えながらそう所感を述べる彼の横顔を、ちらりと見た。皇帝は騎士の素直な意見を、聞くんじゃなかった、頓珍漢なことを言うな、とばっさり斬られることの方が多い。だから珍しく聞き入れられたことに、少し驚いてしまう。
「ん、なんだ」
 不意に彼が寄越した流し目で視線が絡むと、不思議そうな声が騎士に問いかけた。
「な、なんでもないです」
「……ふうん」
 彼は気のない相槌を寄越したっきり、黙り込んだ。

 直後、風邪でもないのに彼はけほけほと咳払いをし始めた。目を瞬かせる騎士は、依然として咳払いをする皇帝の顔色を伺った。
「な、なんでもない」
 まるでついさっきの騎士の言い訳を真似るように、皇帝は誤魔化した。
 居心地悪そうに視線を彷徨わせた彼は再び資料に目を落とし始めた。騎士は訝しく思いながらも、それきり黙り込んだ。


 眠たい討論会もようやくひと段落ついた午後、騎士は皇帝のすぐ後ろにつき、長い長い廊下を静かに歩んでいた。
 会議は午後にも続く長丁場となることが予想されていたが、それはなんとか回避されたらしい。正午を告げる鐘の音と同時に会議もお開きとなった。
 スザクの目から見ても隣の男の人相はすこぶる悪く、それが影響したのか出席者全員が縮こまってしまって、話し合いがあまり深いものにならなかった。スザクが彼の様子をちらりと伺うと、眉間に皺を寄せて何か悪い物でも食べたみたいな、とにかく渋い表情を始終浮かべているのだ。
「どうしたの今日。ずっと機嫌悪かったけど、僕のせい?」
「ああ、大いにな」
 もちろんスザクには心当たりがないから、内心少しムッとする。今朝からジェレミアと仕事交代をさせようとしたり、一体自分が何をしたというのだ。スザクもスザクで、なかなか理由を話したがらない彼に、そろそろ苛立ってきていたのも事実だ。
「僕、何かしたっけ?」
「いいや」
「ということは君の八つ当たり?」
「……そういうことにはなる」
 今朝のことも? と続けて尋ねると、ああ、まあ、うん、と言葉を濁された。
 いつにない歯切れの悪さに、先程まで感じていた苛立ちが不思議と立ち消えた。自分のやっていることに罪悪感は一応あったらしい。
 しかしこうしてスザクが話しかけても、一向にルルーシュは振り向きもしなければ立ち止まってもくれない。変に余所余所しく避けるような態度すら、短絡的なスザクにとっては苛立たせる要因にしかならないのだ。

「ちゃんと話せって、言ってるだろ!」
「おっ、お前な…!」
 スザクは突如ルルーシュの襟首を掴んで、声を荒げた。ルルーシュの真後ろに居たスザクが一気に距離を詰めて、そのまま立ち塞がるようにして前面へ出てきたのだ。
 これが仕事中なら不敬罪ものだ。しかし細かいことを言い出せば生憎今は昼休みの時間で、長過ぎる廊下には彼ら二人しか見当たらない。仕事の時間外であるからセーフ、というわけだ。
 それでも大きな声を上げればどこからともなく人がやってくるだろうから、二人はひそひそと声を潜め、今朝の口論の続きを始めた。
「ていうかさっきの会議のときも、僕の顔見ようともしなかったね? そんなに僕のこと、嫌になった?」
「そんなこと誰も言ってな、……っくそこの馬鹿力!」
 彼の首は多少締まってしまうだろうが、このくらいじゃ人間は死にはしない。スザクは絹でできた高価な布を引き千切る勢いで、キリキリと力を込めた。
「じゃあ僕の顔をちゃんと見てごらん」
「…………」
 ルルーシュはなぜだか自分の顔を見ようとしない。そのことは分かっていたから、意固地なルルーシュを徹底的に問い詰めるため、スザクも躍起だ。
「なんで目逸らすのさ」
 至近距離でぐっと顔を近づけても、彼は気まずそうに視線を彷徨かせた。いつもはきりりと吊り上がった紫も、今は弱々しく頼りない。
 お前がそんな調子で、お前のことを信じてついてきた人たちに情けないと思わないのか。同胞である自分が見てても腹が立つほど高慢な態度で、人当たりの冷たい強気な男を”演じて”くれなければ困るのだ。

「なんで目を逸らすのか、と言ったな」
 苦しげに顔を歪めた男が、静かに語りかけた。
 乱れた前髪の隙間から見える瞳が、ふとスザクの顔を捉えた時だ。
「スザク、じっとしてろ」
「……え」
 不意に名前を呼ばれてほんの一瞬、わずかに反応が遅れたのが運の尽きである。この”手口”でスザクに隙を作らせることができるのはルルーシュだけだ。
「んっう、ん! んー! っん!」
 ルルーシュの自由な腕がするりとスザクの頬と顎を掠め、顔を固定された。かと思えば唇に生暖かいものが吸い付いてきて、口の中にぬめりけのある何かがずるずると侵入してくる。
 最悪だ。こんな往来のど真ん中である。暴れて大きな物音でも立てたら人が来るかもしれない。
「ん、ん! んっんん!」
 だからって好き勝手され放題なのも、いくら恋人とはいえ癪に障る。
 出来うる限りの抵抗を試みるが、指先に力が上手く入らないばかりか頭の中もぼんやりと靄がかかったように上手く働かない。仕舞いには視界も潤んでくる始末で、どうにも”この手”のやり口で反撃できる術を、自分は持ち合わせていないらしい。
「は、ん! ん、ん…」
 じりじりと後退せざるを得なくなって、壁際まで誘導させられてしまえば、もうスザクだってどうすることもできない。
 クラクラとした頭のまま、口内にとろりと唾液が注がれれば、反射的にそれを数回に分けて飲み込んだ。大人しく嚥下していることに目敏く気付いた男は、喉の奥で笑っていた。

「……来い」
 やっと息が吸える、と安堵したのも束の間だった。
 ルルーシュは開口一番ぼそりとそう呟いて、力の入らないスザクの腕をめいっぱい引いて行った。今なんと? と聞き返す猶予すら与えず、ルルーシュは無言で廊下の先にあるスザクの私室へ導いた。


 布地に刺繍があしらわれた、男が使うにしては派手な印象のソファはスザクの好みでなかった。宮殿で寝食を過ごすことが決まったとき、とりあえず空いていた部屋がここであった、というだけである。元は客室であったらしいから、やけにきらびやかで落ち着かないのも、納得はできる。
 派手なソファに合わせて置かれているのは大理石風のローテーブルであったが、これもやはりスザクの好みでない。普段の食事を摂るためのスペースにしてはあまりに落ち着かないからだ。
 そこに今はルルーシュが座り、少し隙間を空けてスザクが座っている。殆ど使ったことのないものだったが、見た目に反して案外座り心地は良かった。
 隣に座るルルーシュは膝に乗せた腕で頬杖をつきながら、何やら思い詰めたような、あるいは死にそうな、皇帝とは思えない人相をしていた。これから断頭台へ上ることが決まっている死刑囚にも思える。
「すまない、スザク……俺は、その」
「えっと、うん」
「すまなかった」
 そしてこの調子である。会話という会話はできないのか、彼はすまないすまない、と述べて頭を垂れ続けた。
「まあ、君が本当に悪いと思っているなら……僕はもう問わないよ」
 水が足りなくて萎れた草花のように元気のない彼を、スザクはもう深く追求する気になれなかった。しかし、そんな情けない彼を許してしまう自分もまた、大概なのだろう。

 ルルーシュはひとしきり自己反省しきって気が済んだらしい。彼はぽつりぽつりと、今朝言い放った突然の命令の意味と動機、スザクに対しやけに余所余所しい態度を取る理由を話し始めた。

「その、お前と……す、するとき、いつも翌日が空いている晩を選んでただろ」
「え? ああ、うん……?」
 そういえばそうだっけ、と思い返してみるが、いかんせんそもそもの”回数”自体、そこまで多いほうじゃない。自分も彼も毎日多忙で、どっぷり疲れて寝るだけの日々だ。甘い相瀬や百夜通い以前の問題で、こればかりはどうしようもない。
「お前のことを気遣って選んでるのももちろんだが、俺の精神的な問題もあってだな」
「……それで? 何が言いたいの?」
 スザクとしては本当に彼の言わんとすることが分からず、何気なく口から出た言葉だった。だが彼からすればスザクにきつく責められたような、追い打ちをかけられたような印象を受けたのだろう。
「ああもう、だから言いたくないんだ!」
「いや待ってよ、本当に分からないんだってば」
「……き、気まずいんだ」
 ルルーシュが蚊の鳴くような声で告解した。が、主語が抜けたその一言で彼の意図を汲み取れるほど、スザクも察しの良い人間ではなかった。
「だから、その……夜を過ごした相手と翌朝、平然と仕事で顔を合わすのが…俺としては……」
「はあ……」

 なんだか色々考え込んだことが阿保らしくなる。それがスザクの正直な所感であった。
「ルルーシュ、君って思春期真っ盛りの中学生かい」
「なっ」
 頬を染めて唇を噛む表情を見るからに、スザクの言葉に言い返す術もなくさぞ悔しがっているのだろう。スザクだってルルーシュの気持ちも分からなくもない。が、一日中顔を合わせてすらもらえないなんて、スザクにしたらこの上なくショックだし憤りだって堪えられない。
「お前の顔見ると、昨夜のこと思い出して……気が散るんだ、勘弁してくれ」
「……僕だって、ジェレミアさんと役目交代だなんて言われて、すごく嫌だった」
「……」
 ルルーシュがようやくスザクと向き合おうとしたが、スザクはどうしてもその顔を見たくなくて、思わず俯いた。冷たくあしらわれたあとに優しくするなんて、あまりにひどくてずるいと思ったからだ。
 皇帝の護衛としてはあまりに無用心にも関わらず、騎士役のスザク一人に任せるのは、敢えて隙を見せることで相手を挑発すると同時に、スザク一人で事足りるのだと敵に、ひいては世界に知らしめるためでもある。それだけ皇帝の力が圧倒的であること、騎士の腕っぷしが優秀であることを見せつけるためのパフォーマンスだ。
 しかしその手薄な警護で公に出るということは即ち、それだけ騎士の腕を信用しているからこそできる芸当だ。こいつなら絶対自らの命を代えてでも、己の剣となり死んでも盾になる。そういう、ある意味狂気的な信頼関係が双方になければ真似できない手であろう。

 ルルーシュから絶対的な信頼とひとつしかない命を委ねられ、言いようのできない責任感やプレッシャーも感じつつ、それ以上にスザクは嬉しかったのだ。ルルーシュが一番信頼している唯一無二の人間、という枠に自分が収まっていることが、何よりもの誇りであり快感でもあった。心地よさすら感じていた。
 だからその場所を他の人間に取って替えられることや、自分が居なくても他の人間が代わりに務めることをルルーシュが良しとすることが、スザクには許せなかった。お前じゃないと駄目なんだ、なんて言われたことはないけれど、言葉にせずともそう思っていると、スザクは勝手に感じていた。
 少なくともスザクはルルーシュ以外の人間に心血を注げられるかと問われれば、首を縦に振ることはできない。

 僕ひとりの片想いだったのかな、と茶化してみせると、ルルーシュの指先が目の下をなぞった。泣くなよ、と囁かれて初めて、スザクは自分が涙を流していたことに気がついた。
「……お前以外の奴に命を預けたくないし、他の奴に守られるくらいなら自分で自分の身くらい守るつもりだ」
「でも僕の顔見てやらしいこと考えてたんだろ」
「そっそんな言い方……!」
 ぐうの音も出ないほどの正論に、ルルーシュは歯がゆそうにうう、と唸った。

「……つまりだ、スザク」
「な、なに?」
「お前の顔を見て羞恥心や気まずさが俺の中からなくなれば、全ての問題はオールクリアだ。そして問題を打開する方法は、たったひとつしかない」
 急に真面目な顔つきをしたかと思えば、ぶつぶつと何やら捲し立て始めた。この一連の話ですっかり疲弊していたため、脳内の処理速度がすっかり落ち、彼の言う意味も理解できたのは半分以下だ。
「待って、君、何か良くないことを考えているだろう」
 しかしスザクとルルーシュの縁も一年や二年の浅さではない。長年の付き合いで得た勘とすっかり知り得た彼の悪い癖だけで、言わんとすることの不穏さを感じ取れた。
「長期的に見れば俺たちにメリットしかない」
「その言い方、僕に何か良くないことをするんだろ!」
 ソファの上でにじり寄るルルーシュの影を、スザクは咄嗟に躱し、その腕から逃れようとする。
 しかし一度言ったことはどんな障害があろうと実行する男だ。こういう時に限って間の悪いことに、ルルーシュに行動を読まれ、先手を許してしまう。
 もしくはこれが予め決められていた運命なのだとしたら、なんと自分は不運な人間なのだろう。そう心の底から嘆かずにはいられなかった。



 上手だよ、と褒められると嬉しさより圧倒的にむかっ腹が立つ。なのに止められないのは、どうしてだろう。
 熱でふやけきった頭の中でスザクはひとり、取り留めもないことを思い浮かべていた。
「ん、はあ……そこ、スザク今の、もっかい」
「……っう、ン」
「スザク、じょうずになったな」
 頬の内側に先端をなすりつけながら、口に入りきらない部分を指で擦ってやる。そうすると己の頭をやたらと撫でる男は、その端正な作りの顔を歪ませ、湿った吐息を漏らすのだ。そのさまがあまりにも官能的で、情熱的で、目の奥がじくじくと熱くなる。
「ん、それ、はあ……」
「っふ、ん…」
「すご、あ…スザク、やらし」
 よっぽどやらしい顔をしているのは君のほうじゃないか、と上目で睨んだ。ぴくぴくと脈打つ肉棒は実に正直らしく、スザクの視線ひとつでむくりと質量を増した。
 小さい子をあやすような、寝かしつけるような優しい手つきで何度も頭を撫でられる。たまに遊ぶように毛先を弄ったり指で梳いたりして、その手触りを楽しんでいるらしい。彼は何が面白いのかは知らないが、そんな些細な甘やかしでさえ、今のスザクにとっては理性を崩す一撃となる。
「いいこだ、スザク」
 ルルーシュのそんな何気ない言葉にしかし、スザクは自分でも思ってもみないような身体の変化を感じた。
「……スザク?」
「んっ、う…ぁ、あ」
 緩いストロークで動き続けていた頭が突然ぴたりと止まり、同時にスザクがうう、と啜り泣き始めた。ルルーシュは暫し考えたが、もう一度試しに言葉をかけてやった。
「いいこだから、今の、もう一度やってみろ」
「あ、あ…ん、う…?」
 口に収まっていたものがぽろんと抜けて、もう一度銜え直す。しかしルルーシュのある言葉が聞こえるたび、まるで体に力が入らなくなったみたいに、行為ができなくなる。
「ほら、もう一度」
「ん、ふ…」
「いいこだ」
 いい子、いい子、と囁かれながら頭を撫でられると、もう我慢ができなくなった。熱くなり過ぎた腰はぴくんと跳ねて、痛いくらいに腫れた目元からは新たな雫が流れ落ちる。
 スザクは認めたくなかったが、どうやらルルーシュにそうして褒められると、どうにも感じてしまう癖があるらしい。
 そしてそんな癖を、この男が利用しないはずがなかったのだ。
「はあ…、気持ちいよスザク、気持ち良い」
「っや、やめ、やだ、ルルーシュ……!」
 赤くなった唇を戦慄かせ、スザクがようやく言葉を発した。それは必死の嘆願であった。
「君、わざとだろ、それ、そういうの…っ」
 艶々と光る妖しい口元からは細い糸が伸び、ルルーシュの陰茎の先端と繋がったままだ。その光景に思わずほくそ笑んだルルーシュは、ほら、と続きを催促した。
「スザク、もっとしてほしい」
 茎が支えられたそれを、スザクはぎゅっと目を瞑りながら銜え直した。
 己を懐柔しようとする魔の手は驚くほど優しく、甘過ぎるものだった。

 騎士の重厚なマントは床に落としたまま拾われず、手袋はソファの肘掛に放り捨てられたまま、持ち主に忘れ去られていた。ソファの生地を汚してはいけないからと、代わりに敷いたのはあろうことか皇帝の装束であった。いくらなんでもそれは、と躊躇う騎士に、でもこういう方が興奮するだろう、と悪魔のように囁いたのは皇帝であった。
 行為をした翌日、顔を合わせるのが気まずいなら、毎日行って慣れればいいんじゃないか? と愚かしい案を出したのは彼である。もしや最初からそのつもりで、そんな情けないことを言い出したんじゃないだろうな、と疑いたくなる。
「別に最後までする必要はないさ」
 そう言って、いわゆる口淫、フェラチオを彼に施す運びになったのだ。
 基本的に行為中の主導権はルルーシュが握っている。人心掌握に長け過ぎている彼の言葉は、己の理性をどろどろに溶かすことはあまりに容易いようだった。繊細な視線と情熱的な言葉、自分の好い部分を知り得ている指先に翻弄されるのは、いつも時間の問題なのだ。
 彼の好きにされることは正直、同じ男として納得いかないし、癪に障る。だがしかし心のどこかで、彼の手の言いなりにされることに震えるほど喜んでいる自分がいることも、また事実なのである。

「る、ルルーシュ…、もう僕、僕」
「口内にペニスを擦りつけるだけじゃ物足りないのか」
 あまりにひどい言い草に、スザクは絶句した。ルルーシュがそうしてほしいと言ったからそうしただけで、自ら好き好んで銜えていたわけじゃない。
「……うん、足りないんだ。僕、もっと気持ちいこと…」
 言いたいことはそんなことじゃない。涙腺がまた悲鳴を上げるかのように水を溢れさせ、ぼろぼろと頬に流れた。目の奥も体も熱くて仕方ない。
 ルルーシュの股座に顔を埋めていたスザクは首を持ち上げ、そのまま体を覆い被せるようにして、彼と向き合った。
「別に最後までする必要、ないけど」
 明日の予定を慮ってからの言葉か、ただの意地悪なのか、スザクには分からない。両方かもしれないし、どれも違うかもしれない。
「……経験値は多いに越したことないんじゃない」
 スザクはびっしょりと汗を吸ったスーツを脱ぎ捨て、一糸纏わぬ身体を惜しげもなく晒した。もうここまでくれば、羞恥も理性も邪魔なだけだ。
 妙に思い切りの良いスザクの行動に少し狼狽しつつ、ルルーシュは差し出された男の肌にゆっくりと触れた。すっかり指先に馴染んだ血潮の温度に、言いようのない歓喜を覚えながら。




 ルルーシュの愚策とも言える案は、思いのほか効果があったらしい。口が裂けても言えないようなアレソレを経た翌日でも、涼しい顔をして平静を保っていられるようになったようなのだ。
 むしろ、こんな冷静沈着で頭の切れる男が夜な夜な、侍らせている男を抱いているとは誰が想像するだろうか。スザクはその当事者でありながら、まるで他人事のようにすら思う。そのくらい彼のポーカーフェイスが崩れることはなくなった。おかげで職務に滞りはなく、今日も民の平和のため、国の繁栄のため、ルルーシュ皇帝陛下は王座でこの世界を見渡しているのだ。

「スザク、おいスザク?」
「っわ、あ、何…何なんでしょうか」
 めでたしめでたし、と円満に完結できないのが、やはり上手くできた話というか、そういう運命だったのだろうか。

 ルルーシュはすっかりスザクの顔を見て話せるし、気まずさや恥じらいもとくに表に出ることはなくなった。が、ここで新たな弊害が生まれた。今度はスザクのほうがどうやら、ルルーシュを直視できなくなってしまったのだ。
「お前な……」
 今一つ締まらない顔を抓ろうとルルーシュが指を伸ばした瞬間、スザクはびくっと肩を揺らした。まだ何もしてないだろうが、と凄むと、スザクは申し訳なさそうな、しゅんとした表情を浮かべるのだから、ルルーシュも強く指摘することができない。
「浮かれてるんじゃないぞ」
「わ、分かってます……」
 実際問題、今のところは何のトラブルも起きていない。会議だったり会見だったり外交だったりと、皇帝に付き従う際は騎士も気を引き締めて警護に従事している。しかしこうして言葉を交わし、肩や手が接触しようとすると、もう駄目だった。ぽやんとした顔を浮かべて皇帝の視線を追う、どこか締まりのない騎士にはあるまじき表情を見せるのだ。まるで恋を初めて知った乙女のように。
「教育し直しだ、馬鹿」
「も、申し訳御座いません……」
 どこか覇気のない騎士の言葉に、今度こそ皇帝はそのだらしのない頬を抓ってやった。